虫愛る姫君の結婚

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王宮での日々

婚約破棄

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王宮の南側、作物を育てている場所に、蓮華畑が広がっている。シルフィーは防護服を纏い、養蜂箱から蜜蝋を引き出していた。巣箱にびっしりとついた蜜蝋からは甘い匂いがしている。ふと、植え込みの向こう側を、見覚えのある人物が歩いていくのが見えた。今度こそ間違いない。マルゴーだ。彼はどこか上の空のようだった。シルフィーは巣箱を置いて、彼に近寄っていった。
「マルゴー」
「ああ、シルフィー……」
 マルゴーはぎくりと足を止め、気まずげに視線を泳がせた。シルフィーは彼の異変には気づかずにこう尋ねた。
「とれたてのハチミツがあるのよ。一緒にお茶しない?」
「うん」
 シルフィーはマルゴーを伴い、温室に向かった。マルゴーは一言も話さず、お茶に手をつけようともしなかった。お腹が減っていないのだろうか。そう思って、紅茶だけでも飲んでと勧める。彼はかぶりを振って、意を決したように口を開いた。

「君に話があるんだ」
「なに?」
「婚約を破棄したい」
 シルフィーが手にしたカップが床に落ちて、パリンと音を立てて割れた。一瞬、何を言われたのかわからなかった。呆然としているシルフィーに、マルゴーはこう続けた。
「妊娠したんだ」
 シルフィーは目を瞬いて、マルゴーのお腹を見た。
「えっ、マルゴーが!?」
「僕のはずがないだろう。メイドのリラだ」
 リラとは誰なのだろう、とシルフィーは思った。どうしてその人に子供ができたからと言って、婚約を破棄しないといけないのだろう。そう思っていたら、マルゴーがこう言った。
「リラのお腹にいるのは、僕の子供なんだよ」
 つまりは──どういうことなのだろう。シルフィーが考えているうちに、マルゴーが立ち上がった。シルフィーはつられて立ち上がる。伸ばした手を、マルゴーが振り払った。痛くはなかった。ただ胸が苦しくなった。
 思えばマルゴーは、シルフィーが触れようとするといつもこういう反応をした。温室を出ていくマルゴーを見送ったシルフィーは、椅子に座り込んだ。婚約破棄……。その言葉が自分に降りかかってきたということを、まだ完全には理解できていなかった。とりあえず、話をしないと。温室から出たシルフィーは、マルゴーの姿を探して視線を動かした。

「マルゴー!」
 その言葉に視線を動かすと、一人の少女がマルゴーに駆け寄るのが見えた。彼女は親しげな様子でマルゴーに話しかけている。ブラウンの髪をポニーテールにした可愛らしい子だった。あの子がリラなのだろうか。マルゴーは優しく彼女の髪を撫でている。シルフィーにはあんなこと、一度もしてくれたことはないのに──。一度、エリンに聞かれたことがある。あなたたち、どこまでいってるの、と。
「どこまでって?」
「かまととぶるんじゃないわよ。マルゴーとキスとか、それ以上とかしてるんでしょ」
 シルフィーがかぶりを振ると、エリンが信じられない、と言った。
「マルゴーって、本当にあなたのこと好きなの?」

 好きでいてくれると思っていた。そうでなかったら、婚約などしないはずだ。でも、違ったのかもしれない。マルゴーは本当は、シルフィーのことをどう思っていたのだろう? リラは手を振って去っていった。シルフィーに気づいたマルゴーは、ひどく気まずそうな顔になって、ぼそぼそと言った。
「いたのか」
「ええ。私、あなたと話がしたくて……」
 シルフィーの言葉を遮るようにして、マルゴーが言った。
「リラは、ただの侍女だよ。性格がいいわけでもないし、特別かわいいわけでもない」
「でも、好きなんでしょう?」
「普通の子だからね。僕は普通がいいんだ」
 好きになった相手のことを話しているのに、マルゴーはどこか暗い顔をしていた。シルフィーは震える声で尋ねた。
「私は、普通じゃないってこと?」
「普通の女は虫なんかに夢中にならない」
「それだけ? 虫が好きだから、私のことが嫌なの?」
「君はメロニアの娘だ。いつか俺を殺して、金持ちの男のところに行くかもしれない」
「そんなことしない。私はマルゴーが好きなの。あなたは違うの?」
 マルゴーはシルフィーと目を合わさず、ごめん、とだけ言った。それから逃げるように去って行く。
 マルゴーと別れたシルフィーは、庭でぼんやりクヌギの木を眺めていた。雨の匂いがすると思ったら、雨粒がぽつぽつと頬を叩き始めた。こんな天気じゃ虫取りもできない。手を伸ばし、濡れた葉にそっと触れると、かすかに温かい気がした。そんなわけないのに──。ふと、頬や髪を濡らしていた、冷たい感触が途切れた。顔を上げると、エントが傘を差し掛けていた。

「あ、エント」
 エントは怪訝な表情でこちらを見ている。
「ずぶ濡れじゃないか。何をしてるんだ」
「私、この木が好きなんです」
「だからって、傘もささずに見とれてるなよ。風邪をひくぞ」
 エントは傘を錬成し、シルフィーに差し出してきた。
「本当に、変わってる」
 変わっているとみんなに言われてきたが、気にしたことはなかった。でも今日はその一言が応える。黙り込んだシルフィーの顔を、エントが覗き込んでくる。
「シルフィー?」
「私の母親は、悪い人だったわ」
「そうらしいな」
 エントもメロニアのことを知っているのだ、いや、知らない人間はいないだろう。
「エントも、私が怖い?」

 そう尋ねたら、エントが怪訝な顔でこちらを見た。
「何があった?」
 シルフィーは泣きながらエントにしがみついた。彼は何も言わずに、シルフィーの頭を撫でた。雨が小降りになってきたころ、シルフィーが顔を上げると、「落ち着いたか」と尋ねてきた。うなずくと、彼はシルフィーを促して庁舎に向かった。エントは食堂でお湯をココアを頼んで、シルフィーに差し出した。シルフィーはココアを飲んで、ほっと息を吐いた。いきなり泣いたりして、びっくりさせてしまっただろうか。そう思ってエントを伺ったが、エントは何も聞かずにコーヒーを飲んでいる。
「エントって、優しいわね」
「──気が利かないとよく言われるけどな」
「そんなことないわ」
 シルフィーはマルゴーに好きな女性ができて、婚約破棄されたことを話した。マルゴーの相手が妊娠しているということも。エントは黙って話を聞いていたが、口を開いた。
「で、どうするんだ」
「どうするって?」
「王妃様に頼んで、マルゴーってやつを地方に飛ばすか」
 シルフィーは驚いてエントを見た。
「そんなことしないわ」
「君はそれぐらいのことをされたんだ」
 シルフィーは黙ってかぶりを振って、ココアの入ったカップを手のひらで包み込んだ。

「このココア、全然冷めないわ。これも錬金術なの?」
「いや、特に何もしてないけど?」
「じゃあ、きっとあなたの心の温かさが伝わったんだわ」
「よくそんな恥ずかしいことが言えるよな」
 エントは呆れた目でこちらを見た。
「恥ずかしくなんてないわ。みんな誰かのためとか、世の中をよくしたいとか、そう言う思いで何かを作り出すんだもの。錬金術だって、きっと心が作用するんだと思います」
「確かに、ないとは言い切れない」
 エントはそう言ってシルフィーを見つめた。
「君さえよければ、協力してほしいことがある」
「なんですか?」
 彼が何かを言いかけた時、騒がしい声が聞こえてきた。シルフィーが立ち上がるよりも先に、エントが駆け出していた。走っていくと、庁舎の建物同士をつなぐ回廊が見えてくる。エルランドがマルゴーを殴りつけていた。エルランドは怒りで顔を歪めてこう言った。
「おまえ、殺されたいのか?」
「やめて、エルランド!」
 シルフィーは必死になってエルランドを止めた。エルランドはそれを振り払う。
「落ち着いてください、殿下」
 エルランドを引き剥がしたのは、近衛服をまとったジャスパーだった。エルランドはジャスパーを睨みつける。
「おまえはひっこんでいろ。所詮、他人だろう」
「他人ですけど、これが役目なんで。エント、あとは頼んだぞ」
 ジャスパーはエントに目配せし、エルランドを引きずっていった。シルフィーはかがみ込んで、項垂れているマルゴーに手を差し出す。
「大丈夫?」
「最悪だよ。君といると殴られてばかりだ」
 マルゴーはそう言って、シルフィーの手を振り払って歩いていった。エントは野次馬を散らし、うなだれているシルフィーの肩に手を置いた。

「ほんと、恥ずかしいわ。王太子が王宮で暴れるなんて!」
 エリンはそう言って、横目でエルランドを見た。エルランドは撫然とした表情で返す。
「暴れてないよ。そうする前にジャスパーがきたからね」
「そもそもは、誰かさんが婚約破棄なんてされるからよ」
 エリンは蔑んだような視線をシルフィーに向けた。シルフィーはごめんなさい、と小声でつぶやく。エルランドはエリンを睨みつけ、「お望みならここで暴れてやろうか?」と尋ねた。エリンはフォークを構える。王妃はピシリと言った。
「やめなさい」
 彼女は静かになったきょうだいを見比べ、シルフィーに尋ねる。
「シルフィー、どうしますか。あなたが辛いなら、マルゴーに遠方に行ってもらうこともできます」
「そんなのダメよ。私は平気だから」
「平気だなんてさすがねえ。私なら恥ずかしくて王宮を歩けないわ」
 エリンはくすくす笑いながら立ち上がり、その場を去っていった。エルランドは妹の背中を見送って、「弟なら殴ってる」と吐き捨てた。
 王妃は悲しげに目を伏せる。エルランドや王妃を心配させてはいけない。平気な顔をしていなければ。シルフィーはそう思って、無理やり笑みを浮かべた。
「食べましょう。冷めちゃうわ」
シルフィーは美味しいと連発したが、その日の夕食は味がしなかった。
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