虫愛る姫君の結婚

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悪女の娘

悪女の娘

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シルフィーの最初の記憶は、歪んだ母親の顔だ。あんたさえいなきゃ、うまくいくのよ。彼女がそう言ったあと、全身に衝撃が走った。シルフィーは、その衝撃で思い出した。自分は、かつて違う世界にいた。そして、この世界で毒婦の娘として生まれ変わったのだ。

 カンカンと耳障りな金属音が聞こえてきて、まどろみの中にいたシルフィーは飛び起きた。ツギだらけのドアが勢いよく開いて、エプロンを腰につけた小太りの女が顔を出す。彼女は鬼の形相でシルフィーを睨みつけた。
「いつまで寝てるんだい、シルフィー! さっさと起きて仕事しなっ!」
「ごめんなさい」
 シルフィーは急いでベッドから降りて、ボロボロの靴を履いて階下へと向かった。靴の底が剥がれかけていて、ぺこぺこと音がしている。食堂のカウンターでは、宿屋の主人が朝食の準備をしていた。おはようございます、と声をかけたが無視される。シルフィーは自分の胸ほどもある桶を手に裏口を出て、あかぎれだらけの手で水を汲み、宿屋に戻った。洗顔用のお湯を客に配って、チェックアウトした客室の掃除をしていると、目の前に蜘蛛が垂れ下がった。
「おはよう、バロン」

 シルフィーは元気よく蜘蛛に挨拶した。こちらの言葉が理解できたはずがないが、蜘蛛は応じるみたいに少しだけ揺れた。シルフィーは微笑んで、再び掃除に戻った。シルフィーは物心ついた時から、虫が好きだった。蟻の行列をいつまでも見ていられたし、たいていの人間が眉をひそめるような毒蛾を綺麗だと思っていた。蜂にさされても平気だったし、藪蚊だらけの草むらに突っ込んでいくのもワクワクした。虫の生態は飽きなくて面白いのだ。以前生きていた世界では虫を研究していたのではないかな、と思う。宿屋の夫婦は、虫が好きなシルフィーを気味悪がった。彼らはただ労働力として使うためにシルフィーを拾ったのであり、親子のようなスキンシップはいっさいなかった。一度、なぜ自分はこの宿屋に来たのか尋ねたことがある。
「あんたはあの井戸に落ちて、死にかけてたんだよ」
 宿屋の女主人はそう言って、共同井戸を指差した。井戸の深さはゆうに3メートルはあった。よく無傷で済んだものだ。あのまま放っておいたら、おまえは死んでいた。私たちはおまえの命の恩人なのだから、なんでも言うことを聞かないといけない。女主人はそう言いふくめた。
 シルフィーはおそらく一生この宿屋で働き、自分の出自も知らずに生きていくはずだった。しかし、先ほど思い出した。自分の母親の詳細はわからないが、彼女はひどい人間だった。生まれてから捨てられるまでの数ヶ月で、シルフィーにはそれがわかっていた。
 ──悪い人の子供は、悪くなるのかしら。シルフィーにはそれが不安だった。悪くならないように生きるには、どうしたらいいのだろうと考えてみたが、いいアイデアは浮かばなかった。ある日、食事を運んでいると、客の会話が聞こえてきた。

「最近、景気が悪いねえ」
「金の価値がさがってるらしいね」
「錬金術師が台頭してから金の価値なんてもんないだろうよ」
 錬金術師──。この国では一番偉いのは王様だが、二番目は錬金術師だと言われていた。王様は病気で亡くなったし、実質一番は錬金術師だ。
「錬金術師って、何をするんですか?」
 シルフィーが尋ねたら、客がこちらを向いた。
「なんだい、お嬢ちゃん。錬金術に興味があるのかい」
「錬金術師ってのは、その名の通り、鉛を金に変え、国の防衛も果たす超エリートだぜ。お嬢ちゃんがなるのは無理じゃないか」
「別にならなくても、そのエリートを捕まえて結婚すりゃいいのさ」
 酔っ払いは愉快そうに笑った。結婚と言われてもピンとこなかったので、シルフィーはとりあえず笑っておいた。錬金術師って、国を守る正義の味方なんだ。それなら、シルフィーは錬金術師を目指そう。錬金術師になれたら、きっと母親みたいにはならないはずだ。
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