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8話

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プレイパーティ当日。事前に言われた通り、ワインセラー兼道具部屋で待っていると、志倉が紙袋を持って現れた。

生成りのコットンシャツに黒のスラックス。明らかに大きめの服は、志倉の身体の細さをさらに際だたせていた。ボタンを二つほど外したシャツからは、薄い胸元が見えそうで見えない。首もとには白いエレガントな首輪がはまり、リードをかける金具がダイヤモンドのように光っている。

SMクラブとは思えないほど儚い感じ。たぶん──いや、絶対に、堂島が選んだ服だろう。

「いらっしゃい。工藤さん。よく眠れましたか?」
冗談だとわかっていたが、ついつい真面目に答えてしまう。

「いや、それが正直……昨日の話じゃないですけど、社交界デビューする前のレディのような気分で……」
「あはは、そんな緊張しなくて大丈夫ですよ。じゃ、これを着て下さい。ジーンズは、そのままで大丈夫なので」

渡された包みには、キャメル革のテーラードジャケットがあった。ヴィンテージのような鈍い光彩に、指に吸いつくようなタイトな感触。明らかに本革だ。以前、マキと出掛けた時に奮発して買ったブランドもののジーンズが見劣りしてしまいそうなくらい、いい素材のものだった。

恐る恐るジャケットを羽織ると、志倉が華やかな声を上げた。

「あぁ、やっぱり似合いますね。工藤さん、いい身体しているから。何かスポーツでも?」
「高校時代にアメフトをちょっと。他の人とは違ったことがしたくて選んだんですけど、三年間ずっとベンチでした」

同情するような笑みを浮かべると、志倉は「そういえば」と話題を変えた。

「マキ君と映画に行ったみたいですね! 主従の契約もしたとか」
まるで夢の国の話でもするような、うきうきとした口調だった。

「一応、合意だけですが……あの、そのことなんですけど……」
一体、マキがどこまであの日の話を志倉にしたのかわからない。だが、今はそれを気にしている余裕はなかった。
良明は志倉の腕を掴むと、道具部屋の隅の方へ連れていく。辺りを見回し、声を潜める。

「その日から、どうもマキ君の様子がおかしいんですけど……ちょっとは打ち解けたかなって思ったのに、次の日からは今まで以上にそっけなくなっちゃって。何でだと思います? もしかして僕をマスターにしたのをもう後悔しているとか? 確かにちょっと強引──というか急かしちゃったような状況だったとは思うけど、あっちもそのあと何も文句を言ってこなかったし……どう思います? 同じサブとして」

勢いのまま喋る良明を、志倉は「落ち着いて」と手で制した。

「工藤さん。サブといってもそうゆう類の動物じゃないんですから、それぞれですよ。素直で大人しいサブもいれば、マキ君みたいにトラブルばかりおこすサブもいる。だからこそ世のマスターたちは、自分のサブを調教するのに苦労しているんじゃないですか」
「す、すみません、僕……ただ、あの子がどうもよくわからなくて……」

しゅんと下がった良明の肩を、志倉が勇気づけるように軽く叩く。

「話し合って下さい。主従がいい関係を保っていくためには、結局それしかないんです」
「話し合う、ですか?」

あまりにも当たり前すぎるアドバイスに、少しがっがりした。それが顔に出ていたのか、志倉が大きく頷く。

「そうです。たとえ趣味趣向が合うサブとマスターが出会っても、それだけではうまくいかない。うまくいくのはプレイだけです。もし主従としての信頼関係を長く保ち続けたいと思うなら、話し合うことが一番大事なんですよ。何が不快だったか、不安だったか、逆に何が気持ち良くて、心地よかったか。プレイやシーン、折りに触れてそういうことを伝え合い、話し合って、契約をもっと深めて明確にしていく。そうしていくうちにお互いの苦痛と不快は極端に少なく、快楽と信頼が最大限となり、主従は心も身体も一つになっていく。主従契約を結べば、何もかもがうまくいく訳じゃない。努力が必要なんですよ」
「努力、か……なんか普通の人間関係と同じですね」
「えぇ。特殊とはいえ、主従も人間関係の一つですからね。しかし主従のいいところは、付き合いが長くなれば長くなるほど、互いの身体と心を知れば知るほど、普通の関係では到達できない強い絆によって繋がれるんです」
「それで言ったら、志倉さんたちは最強ですね」

いくぶんか気分が楽になってからかうように言うと、ふいに志倉の顔に影がよぎった。志倉の細い指が神経質に首輪をさする。
「いえ、そうでもないです……僕たちだって……」

それきり黙ると、相手はふっと何もなかったように顔を上げた。

「今は僕たちのことはどうでもいいんです。それより、貴方の方はどうです? マキ君のマスターになってみて、何を感じましたか?」
「何をって……」

戸惑う良明を見て、志倉は大げさに両手をあげる。

「ある意味、僕もマスターですよ。ここの店長マスター兼、医学 修士マスター。今まで悩めるサブとマスターの相談にはいくらでものってきていますから、今更、聞いて驚くような話はありません」

しばらく躊躇ったのち、良明はぽつりと切り出した。

「僕、自信がなくて……マキ君が望むものをあげられるかどうか……あの子がもし本当に痛いのが好きだというなら、与えてやりたいと思うし、多少なら与えてあげられるような気がしたんです、この前……というか、自分でも驚いたことにかなり興奮してしまって……」

この前の夜──主従としての初めてのシーンを思い出す度、身体が言うことを聞かなくなる。ほのかに赤くなったマキの尻の感触。痛みで達した時のすすり泣きの声。それらを思い出しては、どうしようもなくなるのだ。

何よりも信じられないのは、他人の尻を打ち据えて、あんなにも興奮してしまった自分自身だ。

いや、興奮なんてものじゃない。あのあと自分のアパートへ急いでとって返しては、風呂場で一人、小一時間くらいひたすら耽ってしまっていたくらいだ。ベッドに戻ってからも、思い出しては、何度も自分のスウェットの中に手を伸ばす始末。

こんなに──自分の身体が制御不可能になるほど高揚したのは初めてだった。最後までしていないにも関わらず、今まで経験したどんなセックスよりも官能的で忘れられない夜だった。

「……でも──」
ちらりと、棚の一角にある鞭のコレクションを見やる。

「僕は怖いんです。マキ君がああいうものをして欲しいと思ったら、僕はできるのかって。僕の中では、まだああいうものに嫌悪感がある。でももう一部では、もしマキ君が望めば、してしまいそうな自分もいる。どっちが正しいのかわからなくて、自分自身が怖いんです。本音を言うと、やっぱり僕は、ああいうものを使いたいとは思わない。どんなにマキ君が望んでいたとしても。わかっています。相手が望んでいれば、それは傷つけたことにはならないって。そう頭ではわかっていても、どうしても……」

情けなくて唇を噛みしめていると、鷹揚とした志倉の声が降ってきた。

「工藤さん、それでいいんですよ」
ふっと、良明の革のジャケットに包まれた肩に手をのせる。

「自分の限界がわかっているというのは、素晴らしいことです。サブはセーフワードを持っているけど、マスターにそれはない。マスターは常に自分自身を自分でコントロールしなくてはいけない。そのためにも、己の限界を知っておくことは何よりも大事なことです。でないと、自分の、サブの欲望のまま、いくところまでいって、結局、どちらも傷ついてしまいますから。限界を知るということは、弱さじゃなく強さなんですよ」

志倉はふっと足元に目を伏せた。

「堂島さんから聞いていると思いますが、僕は昔、マスター志望だったんです。この世界に入ったのも、真に人をコントロールするということはどういうことか知りたかったから。だから男が男に膝をついて、慈悲を乞うサブなんて嫌悪していたし、死んでもなりたくないと思っていた。でも、マスター──堂島さんからサブとしての手ほどきを受け、彼の手の中で完全に支配された時、僕は……生まれて初めて自由になれたんです」
「自由、ですか……?」

その時のことを思い出しているのか、志倉はぶるりと震え、自らの身体を抱き締めた。

「えぇ、身体は拘束されて、何一つ自分の意志で動かすことができないのに、何もかもから解放されたような感じがした。自分のプライドや他人からのプレッシャー、支配。そんなものから全て解き放たれ、マスターからの支配以外は、何も大事だと思えるものがなくなった。ふいに実感しました。僕にはこれが必要だ。これは正しいことなんだって。たとえ周りが何と言おうと、僕はずっとあの瞬間を欲していた。自分の中にある従属的サブ的な願望を受け入れ、ありのままの自分になれる時を。堂島さんが──彼の支配がそれを叶えてくれたんです。僕は彼を受け入れることで、弱いと決めつけ否定し、押し込めてきた自分自身すらも受け入れることができた。彼の腕と支配の中でなら、僕は一番自分らしくいられるんです」

迷いの一切ない強い志倉の瞳に、良明は圧倒された。

「工藤さん。全ての人が、温かく健全なものに救われるわけではない。時に痛みが、快楽が人を解放し、救ってもくれる。もし、マキ君が本当の痛み──痛みのための痛みを求めているのだとしたら、きっと君たちはうまくはいかない。でももし、昔の僕と同じように、マキ君の本当の望みが痛みそのものではなく、その奥にある、自分でも気がつかないようなところにあるものなら──」

そこまで言って、志倉は言葉を切った。
「いや、それは君たち主従の間でしかわからないことです。セーフワードと同じようにね」

その時、ガチャリと入り口のドアが開き、マキが入ってきた。道具部屋の隅で身を寄せ合っている良明たちを訝しげに見やる。

「何、してるの……?」
「な、何でもないからっ!」
と良明は弁解しようとしたが、目の前の光景に目を奪われすぎて言葉が出なかった。

マキは白いシルクのシャツと、光沢のある黒革のパンツを履いていた。シャツのボタンは胸下の一個しかなく、白い胸と腹がわずかに見えている。タイトな革のパンツは細く長いマキの足の形をそのままなぞり、カッチリとしたブーツにつながっていた。
ごくりと、良明の喉が勝手に低い唸り声をあげる。

「どうです? 中々いいでしょう?」
隣で志倉がこそっと聞いてきて、良明はこくこくと首振り人形のように頷くことしかできなかった。

自分にはそうゆう趣味はまったくなかったはず──なのに、滑らかなレザーに包まれた細い身体を見ると、生唾を飲み込まずにはいられなかった。

じろりとマキが自分と志倉のことを睨んでいるのもわかっていたが、今は何もかもが夢のようにふわふわとしていた。

「で、首輪はどうします? 作っていないようだったら、ここのを貸しますが?」
「えっ、何て?」

聞き返した良明に、志倉は自分の首輪をとんとんと叩く。

「首輪ですよ、首輪」
「え、ええっと……」

ちらりとマキの細い首を見てから、元に戻す。

「すみません、俺はいいです。ああいうのはちょっと気が進まなくて……どうも人間性を無視しているみたいで……あっ、ごめんなさい、志倉さんたちを非難しているわけではないんですけど……」

目の端で、マキがふっと目を伏せたのが見えた。だが良明には彼がなぜそんな顔をするのか、検討もつかなかった。というか、今はマキの全てがよくわからない。

「でも首輪は──」
志倉が言い掛けた時、廊下の方からコツコツと革の靴音が聞こえてきた。予想通り、入ってきたのは、堂島だった。

その濃紺のダブルのスーツの襟元から、暗褐色のストールがのぞいている。ポケットからは金の刺繍が入った純白のハンカチ。もし黒革の手袋をつけた手に白いエナメル革のリードが握られていなければ、NYのパーティにいるセレブでもおかしくはない格好だ。

「準備ができたようならいくぞ。工藤さん、あんたリードは?」
足下に膝をついた志倉の首輪にリードをかけながら、堂島が聞いてきた。リードが金具にかけられる瞬間、志倉の目が興奮と幸福にうっとりと細められる。

「ええっと、僕は──」
先ほどと同じことを言おうとすると、志倉がちらりと主人を見やった。それですべてを察したのか、堂島がゆっくり頷く。

「まぁ、そのうちわかるだろう。それより時間だ、行こう」
堂島がリードをやんわり引くと、志倉は優雅に立ち上がり、マスターの後ろについていく。堂島の片手は志倉の首の後ろに周り、長めの髪を何気なくもてあそんでいた。どうやら、サブの髪を弄ぶのは、堂島の無意識の癖らしい。

「じゃ、僕たちも行こうか」
とマキに言うと、彼はこくりと頷き、すっと良明の後ろにつく。サブ特有の、近いが近すぎない一定の距離を保ったまま後ろをついてくる。

廊下に、気まずい沈黙が流れる。
あの夜──主従の合意をした夜から、マキとはあまり喋っていない。良明の仕事が忙しかったせいもあるし、マキが自分を避けてきたせいもあるだろう。

(本当にわからない……志倉さんはああ言っていたけど、サブってみんなこんなに気まぐれなのかな……)

フロアの方からは、ドッドッという低いビート音が流れてきていた。直近に迫った問題に、良明の心臓も同じリズムで高鳴り始める。不安と緊張で胃がギリギリと痛み始める。胃痛は小心者にとって最大の天敵だ。

「堂々としていろよ」
後ろからマキが、ちょんと良明の肩をつついてきた。視線を下に向けながら、ほとんど面倒くさそうに言う。

「なりゆきとはいえ同意した以上、あんたは俺のマスターだ。俺はあんたに仕え、あんたの命令にだけに従う。たとえ今日、ここに来ている誰もがあんたの敵になったとしても、サブの俺だけはあんたの味方だ。絶対に。最後まで。サブっていうのは、そうゆうものなんだ」

マキの言葉に、がしりと心臓を掴まれたように感じた。マキはサブとしての基本を言っているだけなのかもしれないが、今の言葉は何よりも良明の背中を押してくれた。

きゅっと、背筋が自然と上がる。自分を絶対に裏切らない誰かがそばにいてくれるというのは、こんなにも自信と勇気を湧き上がらせてくれるものなのか。

「ありがとう」
と言うと、相手はふんと鼻を鳴らしてから、また従順なサブの顔に戻ってしまった。
良明はふうと深呼吸をして、堂島たちに続き、ベルベットのカーテンをくぐる。

フロアの照明はいつもよりも薄暗く、白熱色の間接照明がいくつも光の島をつくっていた。原曲が何かわからないほど低重音にリメイクされた音楽が場を満たし、海の中にいるように人々の話し声をぼやけさせていた。

バーやダンスフロア、リカーブースにはそれぞれ、黒革の衣装を着た男女で溢れかえっていた。ある者はジャケットやパンツの一部だけ、またある者は動くことが困難だと思われるくらいに全身ギチギチに革を着込んでいる。誰がマスターで誰がそのサブなのかは、リードと首輪の有り無しですぐにわかった。

「ちょ、ちょ、女王様がいる!」
大事なところがギリギリ隠れたボンテージにムチ、ハイヒールという、良明が想像する〝SMの女王様〟そのものの格好で歩いている女性を見つけて、良明は思わず声を上げてしまった。

「あのな──」
とマキがたしなめようとして、ふいに黙る。

気づくと、フロア全体がしんと静まり返っていた。サブ、マスター問わずクラブにいる全ての人間が、入ってきた良明たちに一斉に視線を向けていた。正しく言うなら、堂島たちに。

「楽にしてくれ」
堂島たちが歩き出すと、近くにいたマスターと思われる者たちが二人に恭しくお辞儀をしていく。その傍らに膝をついていたサブたちは、畏れと羨望の眼差しを二人の足元に送っていた。

改めて、堂島たちがこの世界において、すごい存在なのだと言うことを良明は思い知らされた。
一方で堂島たちから後方の良明に目を移した人々が「誰だ、あれ」と剥き出しの好奇心でひそひそ話をし合っているのを見るのは、どうも居心地が悪かった。ただでさえ注目されることに慣れていないのに、堂島たちと比べられるなんて……今すぐにでもダッシュで逃げ出したい気分だ。

しかし、一歩も離れることなく後ろをついてきてくれるマキの気配を背中で感じて、何とか思い留まる。
(そうだ。この子に恥をかかせないためにも、この子が僕をマスターに選んだことを後悔しないためにも、僕は堂々としていなきゃ)


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3/16(水)
本日、調整のために『マイ・フェア・マスター』を更新させていただきます。
また明日から動画のビュー数に合わせて更新させていただく予定です。

動画を見てくださっている方、いつもありがとうございます!

〈現在レース更新中〉
↓↓以下の作品の動画のPV増加数に応じて、
その日更新する作品を決めさせていただいていますm

◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL)
https://youtu.be/L_ejA7vBPxc

◆『白い檻』(閉鎖病棟BL)
https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ
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