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9話

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↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓
毎日昼の12:00時あたりのPV数を見て、多い方の作品をその日22:00に更新したいと思いますmm

◆『君がいる光』(幽霊×全盲の青年 )
https://youtu.be/VPFL_vKpAR0
◆『春雪に咲く花』(探偵×不幸体質青年)
https://youtu.be/N2HQCswnUe4
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※一部、残酷描写あり


朝起きると案の定、下着が汚れていた。
唯一の幸運は、久周が部屋にはいなかったことだ。

朝の九時くらいだろうか。障子ごしに入ってくる柔らかい朝の光で座敷は満ち、庭では雀が水琴窟に集まり、忙しく鳴いていた。

春海はそっと忍び足で洗面所にいくと、手早く着替え、居間に向かった。

久周は、奥多摩湖を見渡せる南向きの縁側に座っていた。その横で、セナがまったりと寝そべっている。
この頃は冷気の強さで、彼がどこにいるのかまで正確にわかるようになってきたので慣れというものは恐ろしい。

「おはよう」
と声をかけると、久周の冷気がびくりと震えた。
「……お、おはよう」
返ってきたのは、それだけだった。続きを待ったが、何もない。

春海は、朝食の支度のために台所に向かう。そしてシンクの前につくなり、崩れ落ちるように床に座り込んでしまった。

(……もしかして、僕、今、ものすごく不自然だったか? それとも変な顔していたとか?)
ぺたぺたと顔を触って確認する。今ほど自分の顔が見えないのが悔しかったことはない。
(……ほんと、何で、あんな夢を見てしまったのだろう……)

しかも、同居人とあんなことをしている夢で夢精してしまったなんて本人に知られたら、さすがの幽霊だってドン引きだ。本人と合わせる顔がない。久周に対する罪悪感と、自分に対する恥ずかしさとで爆発してしまいそうだ。

いや、ダメだ。冷静に、冷静になるのだ。

春海は立ち上がり、自分の両頬を手のひらで叩いた。
あれはただの夢だ。いわば、自分の願望が見せた妄想。実際に起こったことではないから、黙っていれば絶対に気づかれないはずだ。

(待てよ、願望って……?)
つまりそれは、自分が久周とそうゆう風になりたいと願っているということなのだろうか。

いや、まさかそれはない。
同性——以前に、幽霊相手に欲情するなんて変態にも程がある。決して、踏んではいけない茨の道だ。ただでさえ彼の記憶を見つけないといけないややこしい状況なのに、これ以上、自分からややこしくしてどうする。

今の春海にとっての最優先事項は、夢の一人暮らしを続けることだ。そのためには、早く久周の記憶を取り戻して出ていってもらって、今度こそ本物の一人暮らしを手に入れないと。

「よしっ!」
気合いを入れて立ち上がり、鍋に火をかける。こうゆう時こそ、普段の生活に集中するべきだ。

「——朝からちゃんと作るんだな」
煮物を煮ていると、すぐ真横で声がして飛び上がらんばかりに驚いた。ぼおっとしていて、久周の冷気が近づいてきていることにさえ気がつかなかった。

「な、なんて……?」
春海は上ずりそうになる声を何とか宥めながら聞き返した。久周も春海の驚きが伝染したのか、躊躇いがちに聞いてくる。

「朝からちゃんと作るんだなって。前にいた〝ろはす〟夫婦とかはパン一枚とかだったぞ」
「あ、あぁ……母親にビシビシしごかれたからね。一人暮らしをするなら掃除、洗濯、料理。全部、完璧にこなせるようになってからって」
「ふうん。まるで花嫁修業だな」

ぷつりと会話が途切れ、奇妙な沈黙がおりる。
今日の自分が変なら、久周もまた変だ。口数は少ないし、素っ気ないかと思えば、こうして妙に近づいてきたりする。

近づく……?
ふと、違和感に気がつく。久周の冷気は、直ぐ横にあった。シャツから出た春海の腕に相手の腕が擦れ合い、肩と肩は軽くぶつかっている。

腕? 肩?
どうして、ここまで相手の身体の細部まで鮮明にわかるのだろう。昨日まではただ冷気の塊としか感じていなかったのに。
ぷつりと会話が途切れ、奇妙な沈黙がおりる。
今日の自分が変なら、久周もまた変だ。口数は少ないし、素っ気ないかと思えば、こうして妙に近づいてきたりする。
近づく……?
ふと、違和感に気がつく。久周の冷気は、直ぐ横にあった。シャツから出た春海の腕に相手の腕が擦れ合い、肩と肩は軽くぶつかっている。
腕? 肩?
どうして、ここまで身体の細部まで鮮明にわかるのだろう。昨日まではただ冷気の塊としか感じていなかったのに。

(もしかして、あの夢のせい……?)
昨日の夢での光景が甦ってきて、カッと体温が上がる。あの時の久周の手、肩、背中——やわらかい肌と引き締まった筋肉の感触が、肌に直に甦ってくる。
パニックが頭を駆け巡り、気がついたら菜箸を差し出していた。

「よっ……良かったら味見してみる? 味付け加減は絶妙だって母親にも誉められたくらいなんだ!」
久周は差し出されたタケノコの煮物の一欠片を、目を丸くしてじっと見つめた。沈黙が続き、春海は自分が何をしでかしてしまったのかやっと気がついた。

「ご、ごめんっ……! 僕ったら——」
「いや、いいんだ」
忍び笑う声が聞こえて、ポンと冷たい掌が春海の頭を軽く叩く。そのまま久周は居間の方に戻ってしまった。

(僕は一体、何をしているんだ……)
恥ずかしさのあまり、菜箸を持っていない掌に頭を埋める。

自分が、なぜここまで動揺しているのかもわからない。
幽霊に味見を勧めてしまったから? それとも久周にあーんしてしまったから?
どちらにせよ、今すぐ穴の中に埋りたい気分だ。

それでも朝ご飯を食べ、玄関を掃き、庭の水やりする頃には、だいぶ落ち着いてきた。
居間で一休みしていると、隣の部屋で蔵から持ってきたスクラップを眺めていた久周がやってきた。
そしてテレビから流れるバッハのゴールドベルグ変奏曲を聴きながら、コーヒーを飲んでいる春海を見て苦笑いする。

「ほんと、幽霊屋敷に住んでいるとは思えないほどの優雅さだな。たぶん他の霊たちがお前に近づけないのもこのためだな」
「どうゆうこと?」
久周は、春海の斜め横——いつもの定位置に座った。一瞬、春海はドキンとしたが何事もなかったかのように、話を集中して聞くふりをする。

「霊というのは、生命力のあるところには近づけない。よく霊がでそうなところに行ってしまったら、食べ物に関することとか、何だその……性的なことを考えると、霊は近づけないと言うだろう」

久周は最後あたりを早口で言うと、辺りを見回した。

「お前が初めてこの屋敷に入った瞬間、屋敷の中がぱっと明るくなったのを感じた。しかも、それは日増しに強くなっていっている。たぶんお前がいつもきちんとした時間に起きて、きちんとした食事をとって、きちんとした生活を送っているからだと思う。毎日、屋敷の前を掃いて近所の人に挨拶し、セナの散歩をして、庭に水をやって、屋敷の中を掃除して、昼も夜も、生き生きと生活を楽しんでいる。その生命力の輝きに、他の霊たちもつけいる隙がないんだろう」

誉められているのか、融通のきかなさを揶揄されているのかよくわからないが、自然と頬が熱くなる。

「そりゃ、初めての一人暮らしだし……その嬉しくって……いつ何をしてもいいし、何食べてもいいし、何時にお風呂に入っても誰にも文句言われないし」

「はは、普通の若者だな」
伸びやかな笑い声に、春海は目を丸くした。

普通の若者?
今まで、そんなことを言ってくれた人など一人もいない。他人にとっても自分にとっても、春海はいつだって若者である前に、障がい者だったから。

(どうして、どうして——)
春海は、胸元のシャツをグッと掴んだ。

どうして久周は、いつも自分が欲しいと思う言葉をくれるのだろう。まるで春海の心が——魂が見えているかのように。

きゅっと胸の中が狭くなる。呼吸が速くなり、目元がちくちくと痛んだ。

ダメだ、ダメだと、自分に言い聞かせる。先ほど己に誓ったばかりじゃないか。これ以上、ややこしくなることはしないと。

しかし、速くなっていく心臓の鼓動を止めることができないように、加速する気持ちを抑えることもできなかった。

初め、久周のことは単なる幽霊——いてもいなくても同じ存在だと思っていた。でも今は、違う。春海の中で久周の存在は、風船のようにどんどんと大きく膨らんでいく。このままでは爆発してしまう日もそう遠くはないだろう。

(……この気持ちは一体、何なんだろう?)
経験の乏しい自分にはわからない。もし目が見えていたら、答えはすぐに見つかったのだろうか?

「で、そっちは何かわかったかい?」
こっそりと深呼吸してから、誤魔化すように奥の座敷の方を指差す。すると突然、一冊の和書がボトリと卓の上に落ちた。ポルターガイスト現象もすっかり慣れていたので、春海は特に驚かない。

「これは……?」
「他の本と混じって置かれていたものだ。誰かの手記らしい」
めくってみると、指先にかさついた和紙と墨の滑らかさを感じた。

「一番最後を見て欲しい。そこだ」
久周の言葉に従って、書かれた最後のページを開く。数拍してから、抑揚を抑えた深い久周の声がそれを読み上げる。

「『あれがまた行われることになった。私たちは聞いてしまった。あの日、いつものように二人で屋敷を抜け出した晩、神社で父たちが話しているのを。彼らはただあれとしか言っていなかったが、私にはそれだけで何のことかわかった。十年前の祭りの日、何人かの村人が忽然と消えた。私はそれをずっと不思議に思っていた。だがこれでようやくわかった。唯一の救いは、一緒にいた友人が何も気づいていないということだけだ』。——ここで終っている。これをどう思う?」

「どう思うって……」
春海は顎に手を当てた。

あれとは一体、なんのことだろう? 村人が突然消えた?

まるで金田一耕助の小説のような話に、頭が混乱する。
それ以前に、昨日の柳田國男の本の内容も気になっていた。神は片目の人間が好き。あの言葉の意味は何だろう?

(やっぱり、この前、夢で見た青年——この屋敷に最後に住んでいたかもしれない片目の青年に関係することなのだろうか?)

久周に聞いてみようかと思った。でも、できなかった。なぜかはわからないが、聞くのが怖かった。

「おい……あれは……?」
呆然とした久周の声が降ってきて、春海はハッと顔を上げた。

「え、なに? どれ?」
「その四角い……ピアノがうつっている……」
「え、テレビ? あれ、そうか、君の時代にはなかったっけ?」
答えはなく、久周がただじっとテレビの画面に見入っているのがわかった。

「もしかして、気に入った? 何ならつけておこうか? 僕は今からセナと散歩に行くけど」
久周は夢から覚めたようにハッと気づくと、しばらく考え、
「あぁ、頼む」
と頷いた。まるで争闘作戦でも命じるような重々しい口調に、春海は思わず笑ってしまった。



「早く! 一緒に逃げよう!」
ぼんやりとした灯りの中、目の前に手が差し出された。広く大きな掌。

辺りは一面、闇だった。
チラチラと見え隠れするランタンのオレンジ色が、前を行く男の顔をうつしだす。端正なその横顔は引き締まっていて、血が通っていないかのように青白かった。白い軍服は闇の中、ぼんやりとした灰色に見える。

「久周? 一体、どこへ——」
問おうとした刹那、いきなり画面が切り替わった。

握っていた大きな手は煙のように消え、気がついたら座敷の真ん中に一人、ぽつんと立っていた。

今度は、一面の赤い世界だった。久周が見せてくれた光景にうつっていたポストの色より濃く、どす黒い赤。

「これは……」

——血だ。

周りの障子、長押や柱には、べっとりと大量の血がこびれついていた。畳はまるで、血の海に数日浸っていたかのように朱に染まっている。

その上に、十人ほどの人間が横たわっていた。ある者は仰向けに倒れ、ある者は俯せに倒れている。
仰向けになっている者たちの何人かは、だらりと手足を投げ出し、白く濁った目を天井に向けていた。
全員息絶えていることは、すぐにわかった。死体にはどれも首や腹、胸などに深い切り傷があり、そこからまだ温かい血がごぼごぼと噴き出している。

春海は一歩下がった。座敷の中には、消毒液のような匂いが濃い霧のように充満していた。

物音がして、パッと顔を上げる。見ると、奥の座敷に続く襖がわずかに開いていた。龍が彫られた欄間は唯一、血に染まることなく、睨みをきかせた眼で座敷の惨状をじっと見下ろしていた。
今更ながらに気づく。ここは自分の家だ。

「一体、どうゆうことなんだ……?」
戸惑いながらも、わずかに開いた障子をそっと覗く。

「……!?」
隣の座敷の中央に、人影が一つあった。障子や襖が全て閉ざされた暗闇の中、その人影はこちらに背を向けて立っている。眩しいほどの白い軍服は朱に染まり、片手に持った日本刀は、赤い油でギトつき、鈍い銀色に底光っている。

「——ようやく来たか」
ふと、人影が身じろぎをした。その顔が、ゆっくりと春海の方を振り向く。

はっと目を開ける。上半身を起すと、額や背中がびっしょりと汗で濡れていることに気がついた。
反射的に布団から手を出し、畳を触る。真新しいい草はすべすべとして柔らかく、濡れているところは一つもなかった。

春海は、ほっと息をつく。外でブウウンと新聞配達のバイクの音がして、今が明け方なのだと知る。
久周はいなかった。幽霊と年寄りは早起きなのか、日が昇り始めたと同時に暗い奥座敷に引っ込んでしまうのは、いつものことだった。

起き上がり、座敷の中を触って回る。障子、襖、欄間の彫刻……。どこも汚れているところはない。ましてや、血がついているところなど一つもなかった。

——あれは、ただの夢だったんだ。
春海はようやく詰めていた息を吐き出し、布団に座る。それから朝日がすっかりと昇るまで、春海の身体の震えが止まることはなかった。
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