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5話
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○●----------------------------------------------------●○
↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓
毎日昼の12:00時あたりのPV数を見て、
多い方の作品をその日22:00に更新したいと思いますmm
◆『君がいる光』
https://youtu.be/VPFL_vKpAR0
◆『春雪に咲く花』
https://youtu.be/N2HQCswnUe4
○●----------------------------------------------------●○
玄関でセナにハーネスをつけていると、後ろから久周が声をかけてきた。ドキリと心臓が跳ね上がる。
「ちょっと……お隣さんの家に。この屋敷のこととか、君のこととかも聞けるかもしれないし」
「そうか!」
久周の声が、ぱあっと雲が引いたあとの太陽のように輝く。
「よろしく頼むぞ。俺はこの家から出られないから」
「そうゆう取引だからね。僕も、自分の一人暮らしのためだし。じゃ、行ってくるね」
早口で言って玄関のサッシを開けると、
「いってらっしゃい。気をつけて」
と、後ろから久周が返してきた。
秋川家は、屋敷から徒歩五分も離れていないところにある。
深夜に降った雨のせいか、道路のアスファルトは濡れていた。むわんとした石油の匂いと、途中にある空き地に生えた青草の香りが混ざる。ひときわ大きなサルスベリの花が、道脇でしゃらしゃらと雫を降らせていた。
「まぁまぁ~わざわざすみませんねぇ」
都内で有名な菓子折を渡すと、玄関で出迎えてくれた奥さんが黄色い声を上げた。
「いえ、布団干していただいたり、この前も荷物運びを手伝っていただいたりして、正式な挨拶が遅れてすみません」
「いいのよ。お隣さんだし、こうゆうのは助け合よ。小さい集落だもの」
「ありがとうございます。それで……イネさんはいらっしゃいますか? あの屋敷についていくつかお聞きたいことがあるんですけど。他の人たちが、イネさんが一番詳しいんじゃないかって窺ったものですから」
「えぇ! いますよ。もう九十過ぎでボケ始めていますけど、それでも良かったらどうぞ」
「ありがとうございます。それで、あの……」
ちらりとセナを見ると、奥さんが「あぁ!」と高い声を上げた。
「一緒にどうぞ! うちにもモロちゃんがいますから!」
「モロ?」
「トイプーです」
「あぁ、トイプー」
秋川宅は数年前に改築したばかりの、洋式の家だった。フローリングの床に、クロス張りの壁。匂いも手触りもモダンな感じだったが、高齢者が住んでいるとあってか段差はなく、いたるところに手すりがついていて春海としても助かった。
「どうぞ。こっちです。おばあちゃん! お客さんですよ! お隣の三田さん!」
奥さんが和室のスライド式ドアを開けると、中から鋭い怒声が飛んできた。
「犬はよしてくれっ! 毛が飛ぶ!」
奥さんがギョッと春海を振り返り、和室のドアからおそるおそる顔を覗かせた。
「で、でも、おばあちゃん。この犬は特別な犬なんですよ!」
イネは何も答えず、慌てた奥さんが春海に頭を下げる。
「ほんとごめんなさい。最近、腰を悪くして外に出られないものですから、ずっと不機嫌で……このままだとボケも進行しちゃいそうで心配なんです。最近では何度も同じことを聞いてくると思えば、私が何を聞いてもぼおっと外を見たままで──」
「それで声を潜めているつもりかい! 丸聞こえだよ!」
和室から飛んできた罵声に、奥さんはカッと顔を赤くさせた。
「まったく、どこまで地獄耳なのかしらっ……!」
わなわなと震え始めた奥さんを、春海が笑顔で宥める。
「僕は大丈夫ですから。セナをお願いしてもいいですか?」
「え? えぇ! 喜んで! モロちゃんもきっと喜びます! 大きなお友達ができて! じゃぁ、私たちはリビングにいますから、終ったら声かけて下さい。さ、行きましょうか、セナちゃん」
奥さんはセナを連れてリビングに向かった。去り際、セナがくううんと気遣わしげな声で鳴く。春海は「大丈夫だよ」とその頭を一撫でしてから、和室のドアを開けた。
「お邪魔します」
畳に手をついていざり入ると、警戒したように見てくる鋭いイネの視線をひしひしと感じた。
和室は庭に面しているらしく、網戸から湿った土と葉のむせかえるような匂いが流れてくる。雨がまた降ってきたのだろう。樋をつたって落ちる雨だれが音楽のように響く。
「……あんた、目が悪いのかい?」
窓際の安楽イスに座ったイネが、不機嫌そうに上体をかがめた。
「えぇ、先天性の全盲です。そういう貴方は耳が悪いんですか?」
「……!? 何でわかったんだっ!? 嫁だって気がついていないのにっ!?」
きーんと響く大きな声に耳を覆いたい衝動をこらえて、春海はさらに相手に近づいた。できるだけ低い声で、はっきりと喋る。
「声を聞けばわかりますよ。自分の声も聞こえないから自然と怒鳴るみたいな言い方になってしまうんでしょう。特に、あのお嫁さんのような高い声は全然聞こえないから、何度も同じことを聞き返してしまう。そのせいで耄碌していると勘違いされる。でもさっきの内緒話のような低い声なら、少しくらい小さくても聞こえるから、お嫁さんには意地が悪いと嫌がられてしまう。あと犬を入れないのは、犬の足音や鳴き声が聞こえなくて、知らずに蹴ってしまったことがあったから……とかですかね? トイプーは小さくてちょこまかしていますから」
イネは目を見張ったあと、疑わしそうに言う。
「あんた……本当は目が見えているんだろう? だから犬が小さいとか、そんなことがわかるんだ。いるんだよね。見えているくせに重病ぶってこれみよがしに杖もったりして、世話を焼かれたがる連中が」
「確かに全盲だけでなく、弱視や視野狭窄の人が白杖を持つケースもあります。でもそうゆう人は世話を焼かれたがっている訳ではなくて、視力に何らかの問題があることを周囲に知らせて、無用なトラブルを避けるために持っているんです」
「ふん、どうだかね」
こりゃ、中々手強いぞ。春海は内心、舌を巻いた。しかしイネが耄碌していないことは、今の会話でもはっきりとわかった。
「補聴器は試してみたんですか? 今はデジタルとか色々でていてかなり性能がいいらしいですよ」
イネの警戒の色がさらに深まる。
「何で、あんたがそんなこと知っているんだい? あんたが悪いのは目だろう?」
「えぇ、でもコミュニティサークルに入っているんです。ネットですけど。今は色んな人がいますよ。知り合いの聴覚障害の高校生の女の子は、将来、外国を旅するために外国語を勉強しているし、味覚障害の男性も見習いのシェフとして頑張っているし」
イネがハッと息を飲み、長いため息をついた。
「そうかい……時代は変わったものだね……」
窓の外を見ているのか、イネの声はぼんやりと遠く聞こえた。しとしとと雨の音が部屋を包み込む。
「……若い頃はまさか、自分がこんな身体になるなんて思ってもみなかったよ。最近では目も耳も膝も腰も悪くなる一方で……この年になってようやく、あんたらの気持ちがわかるようになるなんてね……」
イネは窓から春海の方に顔を戻した。
「まさか、あの屋敷にあんたみたいなのが住むことになるとはね……これも何かの因果かね……」
「因果? ですか?」
この人は何か知っている。確信を深めた春海は、もう一歩居出る。指がイネの座るイスの足に触れた。
「イネさん。もしあの屋敷について、何か知っていることがあれば教えて欲しいんです。あそこで何があったんですか?」
ふるふると首を振る音がして、湿布のようなメンソールの香りがふわりと漂う。
「ないよ。教えられることは何も。何も知らないんだ。私はまだ小さかったから。でも、何だってあんたらはあの屋敷のことをそんなに聞きたがるんだ? まさか、あそこに財宝があるっていうホラ話を信じているんじゃあるまいに?」
財宝探しだったら、どんなに楽しいことか。春海は心の中で思った。
「……ん? ちょっと待って下さい。今、あんたらって言いました? もしかして僕以外にも、あの屋敷について聞きに来た人が?」
「青島の孫息子だよ。大学生か何か知らないけど、ろくに勉強もしないで遊んでばっかいた放蕩息子さ。ある日、ふらっと来てね、蔵のことについて色々聞いてきたね」
「蔵、ですか?」
庭の隅にある、漆喰塗りの建物を思い出す。結局、まだ一度も行ったことはなかった。
「そこには一体、何があるんですか?」
「前の住人の本とか着物とか、そういうものだよ」
「そういえば、あの屋敷には以前、誰が住んでいたんですか? 青島家の持ち物だとは聞いたことがあるんですけど」
「いや、実際は氷川家のものだったんだ」
「氷川家?」
「あぁ、代々、この水原集落の社職を担っていた一族で、元々は青島家の分家だったんだ。この水原は、室町時代、落ち武者である青島兄弟が居着いて拓殖していった土地だ。そのうち兄である青島は代々名主職、分家した弟は氷川を名乗り、代々社職を担っていたんだ」
「じゃぁ、あの屋敷には神主さん一家が住んでいたんですか?」
「いや、確か最後に住んでいたのは、神社の息子が一人で、その人は生まれつき身体が──」
イネはちらりと春海を見てから、続けた。
「──弱くて、屋敷に引きこもりがちだったから、私もよく知らないけどね」
神社の息子? ふいに夢の中で見た着物の青年の姿が甦る。確か、あの会話の中で彼は神社の息子だと言っていたような。
「ちなみに、その人は、ご存命なんですか? 話を聞きたいんですけど」
イネが、ギョッとイスから身体を浮かした。
「まさか。生きては、いない。もちろんだ」
強く言うと、腰かけ直す。
「もういいだろう。疲れた。雨のせいで耳もよく聞こえないし、腰も痛むし」
ぷいっと窓の方を向かれてしまい、春海はこれ以上聞き出すことは難しいと判断した。
「わかりました。最後に一つだけ聞いていいですか? 貴方は……青島久周という方を知っていますか?」
「久周?」
イネの声が、驚愕と歓喜の色で揺れた。
「いたよ。青島家の長男でね。本当にいい人だった。正義感が強くて、誰にでも優しくて。外人みたいに背が高くてね、どこにいても目立つ人だった。村の中には彼に熱を上げている娘が何人もいたよ。神社の息子とも仲が良くてね、よくこっそりと隣の屋敷に忍び込んでいたみたいだ」
当時を思い出しているのか、イネの声色が若やいだ華やかなものになる。たぶん彼女も、彼にお熱を上げていた一人なのだろう。
「その人は今……いや、どうして亡くなったんですか?」
「さあ。海軍に従事していて、戦地で亡くなったんじゃないかな。ある時からふっと見かけなくなったし、そのうち青島家自体が都内に越してしまってね」
「そう、ですか……」
久周が戦地で亡くなったのだとしたら、屋敷の他の幽霊たちと波長が合わないのも説明がつく。
(亡くなった、か……)
もちろん、久周が死んでいるのは知っていた。当たり前だ。幽霊なのだから。
だが改めてつきつけられると、ずっしりと胸にのしかかってくるものがある。
久周は、もうこの世のどこにもいない。どんなに願っても、見ることも、触れることもできない。
その事実が、どうして自分の心をこんなに掻き乱すのか。
「……彼のことについて知るにはどうしたらいいですか?」
イネはしばらく春海を見ていたかと思うと「そうだね」とため息に似た声を出した。
「確か、屋敷の蔵に彼のアルバムとかも置いてあったんじゃないかな。おととし、事故があった時にはちらっと見たからね」
「そうですか。ありがとうございました。ゆっくり休んで下さい」
立ち上がって和室を出ようとすると、イネが後ろから声をかけてきた。
「あんた、もし蔵に行くなら気をつけなよ。あの放蕩息子が落ちたのも、あそこなんだから」
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◆『君がいる光』
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◆『春雪に咲く花』
https://youtu.be/N2HQCswnUe4
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玄関でセナにハーネスをつけていると、後ろから久周が声をかけてきた。ドキリと心臓が跳ね上がる。
「ちょっと……お隣さんの家に。この屋敷のこととか、君のこととかも聞けるかもしれないし」
「そうか!」
久周の声が、ぱあっと雲が引いたあとの太陽のように輝く。
「よろしく頼むぞ。俺はこの家から出られないから」
「そうゆう取引だからね。僕も、自分の一人暮らしのためだし。じゃ、行ってくるね」
早口で言って玄関のサッシを開けると、
「いってらっしゃい。気をつけて」
と、後ろから久周が返してきた。
秋川家は、屋敷から徒歩五分も離れていないところにある。
深夜に降った雨のせいか、道路のアスファルトは濡れていた。むわんとした石油の匂いと、途中にある空き地に生えた青草の香りが混ざる。ひときわ大きなサルスベリの花が、道脇でしゃらしゃらと雫を降らせていた。
「まぁまぁ~わざわざすみませんねぇ」
都内で有名な菓子折を渡すと、玄関で出迎えてくれた奥さんが黄色い声を上げた。
「いえ、布団干していただいたり、この前も荷物運びを手伝っていただいたりして、正式な挨拶が遅れてすみません」
「いいのよ。お隣さんだし、こうゆうのは助け合よ。小さい集落だもの」
「ありがとうございます。それで……イネさんはいらっしゃいますか? あの屋敷についていくつかお聞きたいことがあるんですけど。他の人たちが、イネさんが一番詳しいんじゃないかって窺ったものですから」
「えぇ! いますよ。もう九十過ぎでボケ始めていますけど、それでも良かったらどうぞ」
「ありがとうございます。それで、あの……」
ちらりとセナを見ると、奥さんが「あぁ!」と高い声を上げた。
「一緒にどうぞ! うちにもモロちゃんがいますから!」
「モロ?」
「トイプーです」
「あぁ、トイプー」
秋川宅は数年前に改築したばかりの、洋式の家だった。フローリングの床に、クロス張りの壁。匂いも手触りもモダンな感じだったが、高齢者が住んでいるとあってか段差はなく、いたるところに手すりがついていて春海としても助かった。
「どうぞ。こっちです。おばあちゃん! お客さんですよ! お隣の三田さん!」
奥さんが和室のスライド式ドアを開けると、中から鋭い怒声が飛んできた。
「犬はよしてくれっ! 毛が飛ぶ!」
奥さんがギョッと春海を振り返り、和室のドアからおそるおそる顔を覗かせた。
「で、でも、おばあちゃん。この犬は特別な犬なんですよ!」
イネは何も答えず、慌てた奥さんが春海に頭を下げる。
「ほんとごめんなさい。最近、腰を悪くして外に出られないものですから、ずっと不機嫌で……このままだとボケも進行しちゃいそうで心配なんです。最近では何度も同じことを聞いてくると思えば、私が何を聞いてもぼおっと外を見たままで──」
「それで声を潜めているつもりかい! 丸聞こえだよ!」
和室から飛んできた罵声に、奥さんはカッと顔を赤くさせた。
「まったく、どこまで地獄耳なのかしらっ……!」
わなわなと震え始めた奥さんを、春海が笑顔で宥める。
「僕は大丈夫ですから。セナをお願いしてもいいですか?」
「え? えぇ! 喜んで! モロちゃんもきっと喜びます! 大きなお友達ができて! じゃぁ、私たちはリビングにいますから、終ったら声かけて下さい。さ、行きましょうか、セナちゃん」
奥さんはセナを連れてリビングに向かった。去り際、セナがくううんと気遣わしげな声で鳴く。春海は「大丈夫だよ」とその頭を一撫でしてから、和室のドアを開けた。
「お邪魔します」
畳に手をついていざり入ると、警戒したように見てくる鋭いイネの視線をひしひしと感じた。
和室は庭に面しているらしく、網戸から湿った土と葉のむせかえるような匂いが流れてくる。雨がまた降ってきたのだろう。樋をつたって落ちる雨だれが音楽のように響く。
「……あんた、目が悪いのかい?」
窓際の安楽イスに座ったイネが、不機嫌そうに上体をかがめた。
「えぇ、先天性の全盲です。そういう貴方は耳が悪いんですか?」
「……!? 何でわかったんだっ!? 嫁だって気がついていないのにっ!?」
きーんと響く大きな声に耳を覆いたい衝動をこらえて、春海はさらに相手に近づいた。できるだけ低い声で、はっきりと喋る。
「声を聞けばわかりますよ。自分の声も聞こえないから自然と怒鳴るみたいな言い方になってしまうんでしょう。特に、あのお嫁さんのような高い声は全然聞こえないから、何度も同じことを聞き返してしまう。そのせいで耄碌していると勘違いされる。でもさっきの内緒話のような低い声なら、少しくらい小さくても聞こえるから、お嫁さんには意地が悪いと嫌がられてしまう。あと犬を入れないのは、犬の足音や鳴き声が聞こえなくて、知らずに蹴ってしまったことがあったから……とかですかね? トイプーは小さくてちょこまかしていますから」
イネは目を見張ったあと、疑わしそうに言う。
「あんた……本当は目が見えているんだろう? だから犬が小さいとか、そんなことがわかるんだ。いるんだよね。見えているくせに重病ぶってこれみよがしに杖もったりして、世話を焼かれたがる連中が」
「確かに全盲だけでなく、弱視や視野狭窄の人が白杖を持つケースもあります。でもそうゆう人は世話を焼かれたがっている訳ではなくて、視力に何らかの問題があることを周囲に知らせて、無用なトラブルを避けるために持っているんです」
「ふん、どうだかね」
こりゃ、中々手強いぞ。春海は内心、舌を巻いた。しかしイネが耄碌していないことは、今の会話でもはっきりとわかった。
「補聴器は試してみたんですか? 今はデジタルとか色々でていてかなり性能がいいらしいですよ」
イネの警戒の色がさらに深まる。
「何で、あんたがそんなこと知っているんだい? あんたが悪いのは目だろう?」
「えぇ、でもコミュニティサークルに入っているんです。ネットですけど。今は色んな人がいますよ。知り合いの聴覚障害の高校生の女の子は、将来、外国を旅するために外国語を勉強しているし、味覚障害の男性も見習いのシェフとして頑張っているし」
イネがハッと息を飲み、長いため息をついた。
「そうかい……時代は変わったものだね……」
窓の外を見ているのか、イネの声はぼんやりと遠く聞こえた。しとしとと雨の音が部屋を包み込む。
「……若い頃はまさか、自分がこんな身体になるなんて思ってもみなかったよ。最近では目も耳も膝も腰も悪くなる一方で……この年になってようやく、あんたらの気持ちがわかるようになるなんてね……」
イネは窓から春海の方に顔を戻した。
「まさか、あの屋敷にあんたみたいなのが住むことになるとはね……これも何かの因果かね……」
「因果? ですか?」
この人は何か知っている。確信を深めた春海は、もう一歩居出る。指がイネの座るイスの足に触れた。
「イネさん。もしあの屋敷について、何か知っていることがあれば教えて欲しいんです。あそこで何があったんですか?」
ふるふると首を振る音がして、湿布のようなメンソールの香りがふわりと漂う。
「ないよ。教えられることは何も。何も知らないんだ。私はまだ小さかったから。でも、何だってあんたらはあの屋敷のことをそんなに聞きたがるんだ? まさか、あそこに財宝があるっていうホラ話を信じているんじゃあるまいに?」
財宝探しだったら、どんなに楽しいことか。春海は心の中で思った。
「……ん? ちょっと待って下さい。今、あんたらって言いました? もしかして僕以外にも、あの屋敷について聞きに来た人が?」
「青島の孫息子だよ。大学生か何か知らないけど、ろくに勉強もしないで遊んでばっかいた放蕩息子さ。ある日、ふらっと来てね、蔵のことについて色々聞いてきたね」
「蔵、ですか?」
庭の隅にある、漆喰塗りの建物を思い出す。結局、まだ一度も行ったことはなかった。
「そこには一体、何があるんですか?」
「前の住人の本とか着物とか、そういうものだよ」
「そういえば、あの屋敷には以前、誰が住んでいたんですか? 青島家の持ち物だとは聞いたことがあるんですけど」
「いや、実際は氷川家のものだったんだ」
「氷川家?」
「あぁ、代々、この水原集落の社職を担っていた一族で、元々は青島家の分家だったんだ。この水原は、室町時代、落ち武者である青島兄弟が居着いて拓殖していった土地だ。そのうち兄である青島は代々名主職、分家した弟は氷川を名乗り、代々社職を担っていたんだ」
「じゃぁ、あの屋敷には神主さん一家が住んでいたんですか?」
「いや、確か最後に住んでいたのは、神社の息子が一人で、その人は生まれつき身体が──」
イネはちらりと春海を見てから、続けた。
「──弱くて、屋敷に引きこもりがちだったから、私もよく知らないけどね」
神社の息子? ふいに夢の中で見た着物の青年の姿が甦る。確か、あの会話の中で彼は神社の息子だと言っていたような。
「ちなみに、その人は、ご存命なんですか? 話を聞きたいんですけど」
イネが、ギョッとイスから身体を浮かした。
「まさか。生きては、いない。もちろんだ」
強く言うと、腰かけ直す。
「もういいだろう。疲れた。雨のせいで耳もよく聞こえないし、腰も痛むし」
ぷいっと窓の方を向かれてしまい、春海はこれ以上聞き出すことは難しいと判断した。
「わかりました。最後に一つだけ聞いていいですか? 貴方は……青島久周という方を知っていますか?」
「久周?」
イネの声が、驚愕と歓喜の色で揺れた。
「いたよ。青島家の長男でね。本当にいい人だった。正義感が強くて、誰にでも優しくて。外人みたいに背が高くてね、どこにいても目立つ人だった。村の中には彼に熱を上げている娘が何人もいたよ。神社の息子とも仲が良くてね、よくこっそりと隣の屋敷に忍び込んでいたみたいだ」
当時を思い出しているのか、イネの声色が若やいだ華やかなものになる。たぶん彼女も、彼にお熱を上げていた一人なのだろう。
「その人は今……いや、どうして亡くなったんですか?」
「さあ。海軍に従事していて、戦地で亡くなったんじゃないかな。ある時からふっと見かけなくなったし、そのうち青島家自体が都内に越してしまってね」
「そう、ですか……」
久周が戦地で亡くなったのだとしたら、屋敷の他の幽霊たちと波長が合わないのも説明がつく。
(亡くなった、か……)
もちろん、久周が死んでいるのは知っていた。当たり前だ。幽霊なのだから。
だが改めてつきつけられると、ずっしりと胸にのしかかってくるものがある。
久周は、もうこの世のどこにもいない。どんなに願っても、見ることも、触れることもできない。
その事実が、どうして自分の心をこんなに掻き乱すのか。
「……彼のことについて知るにはどうしたらいいですか?」
イネはしばらく春海を見ていたかと思うと「そうだね」とため息に似た声を出した。
「確か、屋敷の蔵に彼のアルバムとかも置いてあったんじゃないかな。おととし、事故があった時にはちらっと見たからね」
「そうですか。ありがとうございました。ゆっくり休んで下さい」
立ち上がって和室を出ようとすると、イネが後ろから声をかけてきた。
「あんた、もし蔵に行くなら気をつけなよ。あの放蕩息子が落ちたのも、あそこなんだから」
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