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4話
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3/6(日)
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◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL)
https://youtu.be/L_ejA7vBPxc
◆『白い檻』(閉鎖病棟BL)
https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ
○●----------------------------------------------------●○
その後の数日間は、穏やかに過ぎていった。
私はリハビリのために庭を歩いたり、広間で本を読んだりして過ごした。
院内には、患者が思い思いのままに過ごせるプレイルームのような部屋があり、それは広間と呼ばれていた。
「あれぇ~何で〝人形〟がいるワケぇ~?」
広間の卓に座った私を見て、〝さかさま〟が目を丸くした。
「ワシが誘ったんじゃ」
向かいに座る〝長老〟が手元に落としていた視線をちらりと上げた。
〇六号室の患者である彼は、棟内では一番の古参ゆえ、〝長老〟の名で呼ばれていた。年は五十代ほど、鶏ガラのような体つきの小男で、常に宇宙の秘密を考えているかのような小難しい顔をしていた。
「〝眠り男〟が、局の途中で寝てしまってのぅ。代わりに出てもらうことにしたんじゃ」
「まぁ、いいけどぉ。でもこいつ、麻雀なんてやったことあるワケぇ?」
〝さかさま〟が疑わしそうな目で私を見てくる。私は首を振った。
「いや……でも、今、少しだけ教えてもらったから……」
「ふうん。なら、いいかぁ。どうせ人数揃わなくちゃ出来ないしィ」
「決定じゃな。よし、さっそく始めるぞ」
〝長老〟が、賽を振った。それが開始の合図となり、一同、ジャラジャラと牌を交ぜ始める。
私も手を動かしながら、ちらりと隣を盗み見た。
「……君、仕事はいいのかい?」
「えぇ、私は貴方の護衛。これも仕事のうちです」
静かに牌を並べながら、〝笑い犬〟が無表情で答えた。
患者と看護士が一緒に遊んでいるなんて、どこからどう見ても奇妙な光景だ。
しかし他の者たちは、特別不思議がっている様子はない。もしかしたら、これまでも何度か同じようなことがあったのかもしれない。頼まれたら断れない性格は、律儀な〝笑い犬〟らしい。
そうこうしている間に、全員が牌を並べ終った。
現在、〝眠り男〟から試合を引き継いだ私が一番負けていた。順位は、上から〝長老〟、〝笑い犬〟、〝さかさま〟となっている。
「そっいえばさぁ~〝王様〟が保護房に行ってから、今日で三日目だっけか? 今回、エライ長くね?」
親である〝さかさま〟が、牌を捨てながら言った。
「うむ。まぁ、最近の〝王様〟はとみに錯乱ぎみじゃったからのぅ。薬が合っていないんじゃないのか? のぅ、看護士殿」
〝長老〟が賢しげな目で、ちらりと 〝笑い犬〟を見る。
「さぁ、私は担当ではないので、わかりません」
しれっとした顔で、〝笑い犬〟は答えた。だが隣にいる私には見えていた。
彼が卓の下で〝王様〟に殴られた腹に拳をあて、ぎゅっと握り締めているのを。その拳は屈辱に耐えるかのようにぶるぶると震えていた。
「……ただ」
〝笑い犬〟が水面下の激情を感じさせない、淡々とした口調で付け加えた。
「近いうちに、アレが行われると聞きました。きっと〝先生〟もひどくなる〝王様〟の症状に手を焼いているのでしょう」
「アレって、まさかアレ!?」
〝さかさま〟がバンと勢い良く卓に手をつき、身を乗り出した。いくつかの牌が、盤上でぴょんと跳ね上がる。
「本当かよッ!? 〝王様〟はそれで平気なワケ!? 俺ヤだよッ。〝王様〟がまたアレにかけられるのなんて!」
「ふん。相変わらず、お前さんは〝王様〟びいきなのじゃのぅ」
ばらけてしまった牌を〝長老〟がイライラしながら戻した。
「当たり前だっつーの! だって〝王様〟は、ここでは一番まともなヤツだし」
「阿呆か。狂人の王と名付けたのは、一体どこのどいつじゃ? 相変わらず、さかさまな口じゃのぅ。イカレておるのか」
「はぁ? そんなの全員だろう?」
〝さかさま〟が一同を見回すと、しーんとその場が静まりかえった。
「──っと、リーチじゃ」
全員の隙を突いて、〝長老〟が点棒を置いた。「あっ、ずりぃ」と〝さかさま〟が身を乗り出す。
「じゃぁ、俺、ポン! ポン!」
「おいおい、勢いで鳴くな。そんなんじゃから、いつも揃わないんじゃ」
ブツブツと小言を言う〝長老〟の向かいで、私はそろそろと手を上げた。
「……えぇっと、私も鳴きたいんだけど……」
全員の視線が、一斉に私が開いた牌に向いた。
「これは何て鳴きかな? よくわからなくて……」
「「それは鳴きじゃない! ツモだっ!」」
〝さかさま〟と、〝長老〟が同時に叫んだ。
「ツモ?」
「ええいっ、アガリのことじゃ!」
〝長老〟は吼えると、私の自牌を見てぐぬぬと唸った。
「断ヤオ、一盃口、ドラドラ」
「……それは、どれくらいのもの?」
「簡単に言えば──」
〝長老〟は、クッと悔しそうに声をひそめた。
「現時点で、お前さんが一位だ」
言うなり、〝長老〟が頭を抱えた。
「まったく油断したっ! 初めてじゃというから、手加減してやっていたのに! これだから嫌なんじゃ! 昔からお前さんは、何にも考えていないような無垢な顔をして人を貶める、とんでもない冷血漢なんじゃ!」
あまりの言いように戸惑っていると、
「気にすんなよ」
と、〝さかさま〟がポンッと肩を叩いてきた。
「〝長老〟は賭け事になると、神経がオカシくなるんだ。そうゆう依存症なんだな。でも言ってること自体は間違ってないぜ。俺も、お前にはさんざんひどい目にあったし……」
〝さかさま〟は、チッと舌打ちをすると不機嫌そうに黙り込んでしまった。
これでは慰められているのか、責められているのか、よくわからない。
「クソッ! IQが何だ!」
〝長老〟が卓を叩き、こちらを指さしてくる。
「まだ一荘ある! 次こそは、絶対に勝ってやるからのぅっ!」
それから数時間、その場にいた全員が〝長老〟のお許しが出るまで、席を離れることはできなかった。
「アレとは、何だい?」
広間から部屋に戻る途中、前を歩く〝笑い犬〟に聞いてみた。閉鎖病棟のモルタルの床に、二人分の足音が響き渡る。
「アレ、ですか?」
「そう。さっき、みんなが言っていた」
「あぁ」
と〝笑い犬〟は宙を見やったあと、首を振った。
「貴方は知らなくていいことです。それに私自身、まだまだ未熟者で、あの治療法についてはよく知らないので。さぁ、どうぞ」
〝笑い犬〟は、舞踏会で淑女をエスコートするように恭しく鉄格子を開いた。そして私が中に入ったのを確認し、鉄格子を閉めると、一言。
「次、他の患者と接する時は、私に声を掛けてからにして下さい」
「……? なぜ?」
「彼らは、貴方のことを良く思っていません。何かあってからでは遅いですから」
『無垢な顔をして人を貶める、とんでもない冷血漢』
〝長老〟の言葉が甦ってくる。ついで〝さかさま〟の言葉も。
「……以前の私は、そんなに嫌な奴だったのかな?」
〝笑い犬〟はわずかに躊躇う気色を見せ、頷いた。
「そうですね。貴方は感情が乏しいせいか、他人の気持ちにも疎かった。普通の人なら良心が咎めて出来ないような言葉や行動も、平気でしてしまう。そんなところがありました」
「……つまり、かなり嫌な奴、だったということだね」
自嘲の笑みがもれる。
今日は楽しく──とまではいかないが、それなりに和やかに過ごせたつもりだったのに、まさか〝さかさま〟も〝長老〟も内心では、そうではなかったなんて。
怖いな、と思った。
ここの患者たちは、表面に見せている顔と、裏にもっている顔がまるで違う。
むやみに彼らを信用したらいけないのかもしれない。
不安が顔に出ていたのだろうか、〝笑い犬〟が、わずかに口端を弛ませた。
「心配しないで下さい。これは、あくまでも昔の話。今の貴方なら、彼らもすぐ受け入れてくれるでしょう。このまま記憶が戻らなければ──いや、消してしまいさえすれば」
「……ずっと気になっていたんだけど、そんなに上手くいくものなのかな? 記憶を消すって」
「出来ます。〝先生〟ならば。彼は、この分野の最高権威ですから。明日から、さっそく記憶をコントロールする治療が始まります。心配することはない。〝先生〟に従ってさえいれば、何もかも上手くいきます」
〝笑い犬〟はそう言い切ると、「おやすみなさい」と残して棟から去って行った。
※
消灯時間を大分過ぎる頃になっても、中々眠れなかった。
グルグルと様々なことが頭をかけ巡り、かえって眼が冴えてしまう。
ベッドからのっそりと体を起こす。高窓からさす月の淡い光の中、ジッと耳を澄ます。
深夜。患者たちは誰もが眠りにつき、閉鎖病棟の中は静寂に包まれていた。
隣の部屋からも、何の物音もしない。あの日以来、〝王様〟は一度も保護房から帰ってきていないようだった。
正直、ホッとしていた。
私は怖かった。あの圧倒的なまでの存在感と暴力が。
だが同時に、気にもなっていた。
『記憶を取り戻せ』。
なぜ、彼はそんなことを言ったのだろうか。
(ダメだ……余計、混乱してきた……)
もう一度、ベッドに横たわる。白でも黒でもない、青白い月光色に染まった病室は普段よりも居心地良く感じた。
「……?」
病室の前で何かが動いた。上半身を起し、ジッと目を凝らすと、大きな人影が〇五室と〇一号室の間を行ったり来たりしているのが見えた。
(あれは……)
「〝眠り男〟……?」
あの巨体は、間違いない。
〝眠り男〟は日中、ずっと寝ているため、まだ会ったことはないのだが、話に聞いていた通りの容貌をしていた。
天井につきそうなほどの長身。岩のようにがっしりとした肩幅と胸。それに反して、小づくりで小さくまとまった顔の造作。
(でも、どうして……?)
見ると、〇五号室の鉄格子は完全に開け放されていた。
あぁ、そうだ、と〝笑い犬〟との会話が甦ってくる。
夢遊病を患っている〝眠り男〟のために、彼の病室──〇五号室の鍵は夜だけは開けてあるのだった。
「夢は現、現は夢。夢の夢こそ現なり」
ブツブツと呟きが聞こえてきた。
私は気になってベッドを下り、鉄格子に近づいた。鉄格子に手をかけた時、ギシリと音がしてしまい、〝眠り男〟が廊下の中央でピタリと止まった。くるりと私の方を向き、じっと見下ろしてくる。
いや、見てはいない。実際には、その目は閉じられているのに、なぜか何もかも見通されている気分になった。
「夢は現、現は夢。生は死、死は生。破壊は救済、救済は破壊」
淡々とした〝眠り男〟の声が、廊下に響く。他の房の患者たちが起き出してくる気配はなかった。熟睡しているのか、もしくは彼らにとっては慣れた日常なのか。
暗闇の中、静かに立つ〝眠り男〟は、〝笑い犬〟が言っていたような木訥とした印象とは違い、まるで予言者のような、どこか浮き世離れしたような雰囲気をもっていた。
「常人は狂人。主人は奴隷。王様は愚者。人形は──」
「ちょっと待って。王様は、何だって……?」
言ってから、後悔した。夢遊病を起している人間は、身体は起きているが脳は眠っている状態だ。そんな相手に、質問などしても意味がない。
「王様は、愚者。まれにみる愚者」
予想外にも、〝眠り男〟は答えた。私は驚きつつも、さらに質問してみることにした。
「王様って、もしかして〇二号室の〝王様〟のことかい?」
こくりと、相手が頷く。私はさらに近づき、鉄格子をギュッと握りしめた。鉄格子はひんやりとして冷たいのに、私の掌はうっすらと汗をかいていた。
「教えて欲しいんだ。〝王様〟は一体、何者なんだ?」
〝眠り男〟は私をジッと見たあと、答えた。
「……〝王様〟は愚者。まれに見る愚者。彼は一人のためだけに、全てを捨てようとしている」
「一人? それは一体、誰?」
「〝人形〟」
「〝人形〟──って、私のこと?」
〝眠り男〟は首を振った。
「違う。〝人形〟は、もういない。〝王様〟の頭の中にしか」
ますます混乱した。
そもそも自分は、なぜこんなことを聞いているのか。
私にとって〝王様〟は恐怖の対象でしかない。近づかないと、〝先生〟や〝笑い犬〟とも約束した。
なのに、なぜこんなに気になるのだろうか。
私を抱き締め、寂しそうに笑ったあの顔が、どうしてこうも頭から離れないのだろうか。
(……いや、いい。やめよう。考えるのは)
私は鉄格子から、そっと離れた。月の光からさえも逃れるように、後ろの暗がりに身を潜める。
カチャン。
鈍い金属の音が響いた。見ると、〝眠り男〟が私の病室の鉄格子に手をかけていた。閉じられた目で、暗闇と同化する私を真っ直ぐにとらえる。
「……〝王様〟は寂しい人だ。彼の城は、もう壊れかけている。時間がない。誰かが助けなければ。踏み越えなければ、茨の道を。でないと〝王様〟は消えてしまう。永遠に」
「消えるって……」
ごくりと唾を飲んだ。
〝眠り男〟の口調には、鬼気迫ったものがあった。だが、その言葉は抽象的すぎて、どう捉えていいのかわからない。
ただ、一つだけわかることといえば……。
(〝眠り男〟は、嘘をついていない)
と、いうことだけだった。
嘘をつくという行為は、脳にとって高度な技術を要する。脳の一部しか起きていない夢遊状態で嘘をつくことは不可能だ。
誰が本当のことを言っているのかわからないこの病院の中では、そういう人間が一人でもいてくれることが唯一の救いだった。
私は、〝眠り男〟を真っ直ぐに見つめた。
「お願いだ、教えてくれ。〝王様〟は怖い? 優しい? どちらが本当の〝王様〟なんだ?」
答えはすぐに返ってきた。
「〝王様〟は、優しい。誰よりも。そして孤独だ。だからお願い。〝王様〟を救って」
そう言うと、〝眠り男〟はフラフラと自分の病室へ帰って行ってしまった。
「待って!」
呼び止めようとして、鉄格子を掴む。すると、キイッと音をたてて扉が開いた。
信じられない思いで、鉄格子を見つめる。
(もしかして、さっき〝眠り男〟が……?)
向かいの部屋を見ると、〝眠り男〟は既にベッドにつき、寝息をたてていた。朝になれば、自分が徘徊していたことすら、覚えていないだろう。
(どうしよう……?)
開いた鉄格子を前に、立ち尽くす。
ふいに、ある衝動がむくりと湧き上がってきた。
──〝王様〟と話がしてみたい。
会って聞いてみたい。
逃げろというのは、何なのか。
なぜ、逃げなければならないのか。
記憶を取り戻せとは。
聞きたいことは山ほどあった。
同時に、不安もあった。
もし本当に、全てが〝王様〟の妄想だったとしたら?
(……それでもいい)
このモヤモヤした気持ちがすっきりするなら。
私は辺りを確認し、鉄格子を開けた。そして物音をたてないように注意しながら、そっと一歩を踏み出す。
3/6(日)
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その後の数日間は、穏やかに過ぎていった。
私はリハビリのために庭を歩いたり、広間で本を読んだりして過ごした。
院内には、患者が思い思いのままに過ごせるプレイルームのような部屋があり、それは広間と呼ばれていた。
「あれぇ~何で〝人形〟がいるワケぇ~?」
広間の卓に座った私を見て、〝さかさま〟が目を丸くした。
「ワシが誘ったんじゃ」
向かいに座る〝長老〟が手元に落としていた視線をちらりと上げた。
〇六号室の患者である彼は、棟内では一番の古参ゆえ、〝長老〟の名で呼ばれていた。年は五十代ほど、鶏ガラのような体つきの小男で、常に宇宙の秘密を考えているかのような小難しい顔をしていた。
「〝眠り男〟が、局の途中で寝てしまってのぅ。代わりに出てもらうことにしたんじゃ」
「まぁ、いいけどぉ。でもこいつ、麻雀なんてやったことあるワケぇ?」
〝さかさま〟が疑わしそうな目で私を見てくる。私は首を振った。
「いや……でも、今、少しだけ教えてもらったから……」
「ふうん。なら、いいかぁ。どうせ人数揃わなくちゃ出来ないしィ」
「決定じゃな。よし、さっそく始めるぞ」
〝長老〟が、賽を振った。それが開始の合図となり、一同、ジャラジャラと牌を交ぜ始める。
私も手を動かしながら、ちらりと隣を盗み見た。
「……君、仕事はいいのかい?」
「えぇ、私は貴方の護衛。これも仕事のうちです」
静かに牌を並べながら、〝笑い犬〟が無表情で答えた。
患者と看護士が一緒に遊んでいるなんて、どこからどう見ても奇妙な光景だ。
しかし他の者たちは、特別不思議がっている様子はない。もしかしたら、これまでも何度か同じようなことがあったのかもしれない。頼まれたら断れない性格は、律儀な〝笑い犬〟らしい。
そうこうしている間に、全員が牌を並べ終った。
現在、〝眠り男〟から試合を引き継いだ私が一番負けていた。順位は、上から〝長老〟、〝笑い犬〟、〝さかさま〟となっている。
「そっいえばさぁ~〝王様〟が保護房に行ってから、今日で三日目だっけか? 今回、エライ長くね?」
親である〝さかさま〟が、牌を捨てながら言った。
「うむ。まぁ、最近の〝王様〟はとみに錯乱ぎみじゃったからのぅ。薬が合っていないんじゃないのか? のぅ、看護士殿」
〝長老〟が賢しげな目で、ちらりと 〝笑い犬〟を見る。
「さぁ、私は担当ではないので、わかりません」
しれっとした顔で、〝笑い犬〟は答えた。だが隣にいる私には見えていた。
彼が卓の下で〝王様〟に殴られた腹に拳をあて、ぎゅっと握り締めているのを。その拳は屈辱に耐えるかのようにぶるぶると震えていた。
「……ただ」
〝笑い犬〟が水面下の激情を感じさせない、淡々とした口調で付け加えた。
「近いうちに、アレが行われると聞きました。きっと〝先生〟もひどくなる〝王様〟の症状に手を焼いているのでしょう」
「アレって、まさかアレ!?」
〝さかさま〟がバンと勢い良く卓に手をつき、身を乗り出した。いくつかの牌が、盤上でぴょんと跳ね上がる。
「本当かよッ!? 〝王様〟はそれで平気なワケ!? 俺ヤだよッ。〝王様〟がまたアレにかけられるのなんて!」
「ふん。相変わらず、お前さんは〝王様〟びいきなのじゃのぅ」
ばらけてしまった牌を〝長老〟がイライラしながら戻した。
「当たり前だっつーの! だって〝王様〟は、ここでは一番まともなヤツだし」
「阿呆か。狂人の王と名付けたのは、一体どこのどいつじゃ? 相変わらず、さかさまな口じゃのぅ。イカレておるのか」
「はぁ? そんなの全員だろう?」
〝さかさま〟が一同を見回すと、しーんとその場が静まりかえった。
「──っと、リーチじゃ」
全員の隙を突いて、〝長老〟が点棒を置いた。「あっ、ずりぃ」と〝さかさま〟が身を乗り出す。
「じゃぁ、俺、ポン! ポン!」
「おいおい、勢いで鳴くな。そんなんじゃから、いつも揃わないんじゃ」
ブツブツと小言を言う〝長老〟の向かいで、私はそろそろと手を上げた。
「……えぇっと、私も鳴きたいんだけど……」
全員の視線が、一斉に私が開いた牌に向いた。
「これは何て鳴きかな? よくわからなくて……」
「「それは鳴きじゃない! ツモだっ!」」
〝さかさま〟と、〝長老〟が同時に叫んだ。
「ツモ?」
「ええいっ、アガリのことじゃ!」
〝長老〟は吼えると、私の自牌を見てぐぬぬと唸った。
「断ヤオ、一盃口、ドラドラ」
「……それは、どれくらいのもの?」
「簡単に言えば──」
〝長老〟は、クッと悔しそうに声をひそめた。
「現時点で、お前さんが一位だ」
言うなり、〝長老〟が頭を抱えた。
「まったく油断したっ! 初めてじゃというから、手加減してやっていたのに! これだから嫌なんじゃ! 昔からお前さんは、何にも考えていないような無垢な顔をして人を貶める、とんでもない冷血漢なんじゃ!」
あまりの言いように戸惑っていると、
「気にすんなよ」
と、〝さかさま〟がポンッと肩を叩いてきた。
「〝長老〟は賭け事になると、神経がオカシくなるんだ。そうゆう依存症なんだな。でも言ってること自体は間違ってないぜ。俺も、お前にはさんざんひどい目にあったし……」
〝さかさま〟は、チッと舌打ちをすると不機嫌そうに黙り込んでしまった。
これでは慰められているのか、責められているのか、よくわからない。
「クソッ! IQが何だ!」
〝長老〟が卓を叩き、こちらを指さしてくる。
「まだ一荘ある! 次こそは、絶対に勝ってやるからのぅっ!」
それから数時間、その場にいた全員が〝長老〟のお許しが出るまで、席を離れることはできなかった。
「アレとは、何だい?」
広間から部屋に戻る途中、前を歩く〝笑い犬〟に聞いてみた。閉鎖病棟のモルタルの床に、二人分の足音が響き渡る。
「アレ、ですか?」
「そう。さっき、みんなが言っていた」
「あぁ」
と〝笑い犬〟は宙を見やったあと、首を振った。
「貴方は知らなくていいことです。それに私自身、まだまだ未熟者で、あの治療法についてはよく知らないので。さぁ、どうぞ」
〝笑い犬〟は、舞踏会で淑女をエスコートするように恭しく鉄格子を開いた。そして私が中に入ったのを確認し、鉄格子を閉めると、一言。
「次、他の患者と接する時は、私に声を掛けてからにして下さい」
「……? なぜ?」
「彼らは、貴方のことを良く思っていません。何かあってからでは遅いですから」
『無垢な顔をして人を貶める、とんでもない冷血漢』
〝長老〟の言葉が甦ってくる。ついで〝さかさま〟の言葉も。
「……以前の私は、そんなに嫌な奴だったのかな?」
〝笑い犬〟はわずかに躊躇う気色を見せ、頷いた。
「そうですね。貴方は感情が乏しいせいか、他人の気持ちにも疎かった。普通の人なら良心が咎めて出来ないような言葉や行動も、平気でしてしまう。そんなところがありました」
「……つまり、かなり嫌な奴、だったということだね」
自嘲の笑みがもれる。
今日は楽しく──とまではいかないが、それなりに和やかに過ごせたつもりだったのに、まさか〝さかさま〟も〝長老〟も内心では、そうではなかったなんて。
怖いな、と思った。
ここの患者たちは、表面に見せている顔と、裏にもっている顔がまるで違う。
むやみに彼らを信用したらいけないのかもしれない。
不安が顔に出ていたのだろうか、〝笑い犬〟が、わずかに口端を弛ませた。
「心配しないで下さい。これは、あくまでも昔の話。今の貴方なら、彼らもすぐ受け入れてくれるでしょう。このまま記憶が戻らなければ──いや、消してしまいさえすれば」
「……ずっと気になっていたんだけど、そんなに上手くいくものなのかな? 記憶を消すって」
「出来ます。〝先生〟ならば。彼は、この分野の最高権威ですから。明日から、さっそく記憶をコントロールする治療が始まります。心配することはない。〝先生〟に従ってさえいれば、何もかも上手くいきます」
〝笑い犬〟はそう言い切ると、「おやすみなさい」と残して棟から去って行った。
※
消灯時間を大分過ぎる頃になっても、中々眠れなかった。
グルグルと様々なことが頭をかけ巡り、かえって眼が冴えてしまう。
ベッドからのっそりと体を起こす。高窓からさす月の淡い光の中、ジッと耳を澄ます。
深夜。患者たちは誰もが眠りにつき、閉鎖病棟の中は静寂に包まれていた。
隣の部屋からも、何の物音もしない。あの日以来、〝王様〟は一度も保護房から帰ってきていないようだった。
正直、ホッとしていた。
私は怖かった。あの圧倒的なまでの存在感と暴力が。
だが同時に、気にもなっていた。
『記憶を取り戻せ』。
なぜ、彼はそんなことを言ったのだろうか。
(ダメだ……余計、混乱してきた……)
もう一度、ベッドに横たわる。白でも黒でもない、青白い月光色に染まった病室は普段よりも居心地良く感じた。
「……?」
病室の前で何かが動いた。上半身を起し、ジッと目を凝らすと、大きな人影が〇五室と〇一号室の間を行ったり来たりしているのが見えた。
(あれは……)
「〝眠り男〟……?」
あの巨体は、間違いない。
〝眠り男〟は日中、ずっと寝ているため、まだ会ったことはないのだが、話に聞いていた通りの容貌をしていた。
天井につきそうなほどの長身。岩のようにがっしりとした肩幅と胸。それに反して、小づくりで小さくまとまった顔の造作。
(でも、どうして……?)
見ると、〇五号室の鉄格子は完全に開け放されていた。
あぁ、そうだ、と〝笑い犬〟との会話が甦ってくる。
夢遊病を患っている〝眠り男〟のために、彼の病室──〇五号室の鍵は夜だけは開けてあるのだった。
「夢は現、現は夢。夢の夢こそ現なり」
ブツブツと呟きが聞こえてきた。
私は気になってベッドを下り、鉄格子に近づいた。鉄格子に手をかけた時、ギシリと音がしてしまい、〝眠り男〟が廊下の中央でピタリと止まった。くるりと私の方を向き、じっと見下ろしてくる。
いや、見てはいない。実際には、その目は閉じられているのに、なぜか何もかも見通されている気分になった。
「夢は現、現は夢。生は死、死は生。破壊は救済、救済は破壊」
淡々とした〝眠り男〟の声が、廊下に響く。他の房の患者たちが起き出してくる気配はなかった。熟睡しているのか、もしくは彼らにとっては慣れた日常なのか。
暗闇の中、静かに立つ〝眠り男〟は、〝笑い犬〟が言っていたような木訥とした印象とは違い、まるで予言者のような、どこか浮き世離れしたような雰囲気をもっていた。
「常人は狂人。主人は奴隷。王様は愚者。人形は──」
「ちょっと待って。王様は、何だって……?」
言ってから、後悔した。夢遊病を起している人間は、身体は起きているが脳は眠っている状態だ。そんな相手に、質問などしても意味がない。
「王様は、愚者。まれにみる愚者」
予想外にも、〝眠り男〟は答えた。私は驚きつつも、さらに質問してみることにした。
「王様って、もしかして〇二号室の〝王様〟のことかい?」
こくりと、相手が頷く。私はさらに近づき、鉄格子をギュッと握りしめた。鉄格子はひんやりとして冷たいのに、私の掌はうっすらと汗をかいていた。
「教えて欲しいんだ。〝王様〟は一体、何者なんだ?」
〝眠り男〟は私をジッと見たあと、答えた。
「……〝王様〟は愚者。まれに見る愚者。彼は一人のためだけに、全てを捨てようとしている」
「一人? それは一体、誰?」
「〝人形〟」
「〝人形〟──って、私のこと?」
〝眠り男〟は首を振った。
「違う。〝人形〟は、もういない。〝王様〟の頭の中にしか」
ますます混乱した。
そもそも自分は、なぜこんなことを聞いているのか。
私にとって〝王様〟は恐怖の対象でしかない。近づかないと、〝先生〟や〝笑い犬〟とも約束した。
なのに、なぜこんなに気になるのだろうか。
私を抱き締め、寂しそうに笑ったあの顔が、どうしてこうも頭から離れないのだろうか。
(……いや、いい。やめよう。考えるのは)
私は鉄格子から、そっと離れた。月の光からさえも逃れるように、後ろの暗がりに身を潜める。
カチャン。
鈍い金属の音が響いた。見ると、〝眠り男〟が私の病室の鉄格子に手をかけていた。閉じられた目で、暗闇と同化する私を真っ直ぐにとらえる。
「……〝王様〟は寂しい人だ。彼の城は、もう壊れかけている。時間がない。誰かが助けなければ。踏み越えなければ、茨の道を。でないと〝王様〟は消えてしまう。永遠に」
「消えるって……」
ごくりと唾を飲んだ。
〝眠り男〟の口調には、鬼気迫ったものがあった。だが、その言葉は抽象的すぎて、どう捉えていいのかわからない。
ただ、一つだけわかることといえば……。
(〝眠り男〟は、嘘をついていない)
と、いうことだけだった。
嘘をつくという行為は、脳にとって高度な技術を要する。脳の一部しか起きていない夢遊状態で嘘をつくことは不可能だ。
誰が本当のことを言っているのかわからないこの病院の中では、そういう人間が一人でもいてくれることが唯一の救いだった。
私は、〝眠り男〟を真っ直ぐに見つめた。
「お願いだ、教えてくれ。〝王様〟は怖い? 優しい? どちらが本当の〝王様〟なんだ?」
答えはすぐに返ってきた。
「〝王様〟は、優しい。誰よりも。そして孤独だ。だからお願い。〝王様〟を救って」
そう言うと、〝眠り男〟はフラフラと自分の病室へ帰って行ってしまった。
「待って!」
呼び止めようとして、鉄格子を掴む。すると、キイッと音をたてて扉が開いた。
信じられない思いで、鉄格子を見つめる。
(もしかして、さっき〝眠り男〟が……?)
向かいの部屋を見ると、〝眠り男〟は既にベッドにつき、寝息をたてていた。朝になれば、自分が徘徊していたことすら、覚えていないだろう。
(どうしよう……?)
開いた鉄格子を前に、立ち尽くす。
ふいに、ある衝動がむくりと湧き上がってきた。
──〝王様〟と話がしてみたい。
会って聞いてみたい。
逃げろというのは、何なのか。
なぜ、逃げなければならないのか。
記憶を取り戻せとは。
聞きたいことは山ほどあった。
同時に、不安もあった。
もし本当に、全てが〝王様〟の妄想だったとしたら?
(……それでもいい)
このモヤモヤした気持ちがすっきりするなら。
私は辺りを確認し、鉄格子を開けた。そして物音をたてないように注意しながら、そっと一歩を踏み出す。
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