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6 切なさと本音
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さっきまでいい天気だったのに、今、窓の外には曇天模様が広がっていて、ますます気持ちが暗くなった。
心晴(こはる)がいなくなるなんて、考えたくない。何かの間違いであってほしかった。
「引っ越すって、そんな遠くに?」
「隣の県だよ。でも、車で2時間半はかかるから、今みたいにしょっちゅうひなたと会えなくなる……」
心晴は、しぶしぶそれを受け入れたみたいな口調で事情を話した。
「中途採用だけど、お母さん正社員の仕事見つけたんだ。支社勤務ならここに居られるけど、入社後すぐ本社で働いてほしいって面接の時に言われてたみたい……」
「それで引っ越しを?」
「急だよね、こんなの……」
心晴のお母さんは、お父さんが亡くなってからずっと、パートタイムの仕事を掛け持ちして家計を支えてきた。正社員より時間の融通が利くからという理由でそのスタイルを貫いていたけど、経済面を考えると正社員勤めの方が何かと安定しているので、以前から正社員の仕事も探していたらしい。
心晴がワゴンのバイトを頑張っているのも、そういう時給が高いバイトなら親に負担をかけずにすむから。そのことを考えると、心晴のお母さんが新しい仕事を見つけたことは、心晴の家にとっていいことのはずだ。
「でも、心晴は納得いかないって感じだね」
「そうだね。あたし、こういう時が来たら絶対お母さんの応援してあげようって思ってた。でも、まさかこんな早くそんな日が来るなんて……。こういうこと覚悟してたつもりなのに、いざこうなると、なんて言うか」
ため息をつくと、心晴はようやく飲み物に少しだけ口をつけた。
「複雑な気分だよ。お母さんのことは好きだし協力したいと思うけど、あたしにもあたしの生活があるから。ひなたやイサキと離れたくないし……」
「そうだよね……」
心晴の背中をなで、私は言った。
「心晴だけここに残ることはできないの?」
「あたしもそうしたいけど、お母さんはどうしてもあたしについてきてほしいって……。ここまでやってこれたのはあたしのおかげだから、一人で知らない所に住むのは心細いって。そんなこと言われたら行きたくないなんて言えなくて……」
「心晴……」
「お父さん死んでからもここまで無事に暮らしてこれたのは、お母さんが頑張ってくれたおかげだもんね……」
自分の都合だけ考えたらここに残りたい。でも、心晴は最初に引っ越すと言った。もう答えは決まってるんだ……。
「私も心晴がいなくなるのは寂しいよ。できることなら引き止めたい。行かないでほしいよ。でも、おばさんの再出発を応援したいんだよね」
「うん……。あたしのワガママでお母さんの就職がなしになるのも嫌だから。ごめんね、ひなた……」
「謝ることないよ。2時間半なんてすぐだし!」
車もまだ持ってないクセに、何を言ってるんだろう。受け身な自分が情けなくなった。私が想像するよりもっと心晴はつらいのに、何の助けにもなれないなんてーー。
落ち込む私とは正反対に、心晴は気持ちを切り替え明るく言った。
「だよねっ!2時間半なんてすぐだよね!今までが近かったから恵まれ過ぎてたんだよ。うん。そう思うことにしよっ」
「心晴……」
「離れてたって、あたし達は仲良しだよ。スマホで顔見ながら話せるし、寂しくなんてないんだから!」
心晴は強いな。私なんかと大違いーー。
「次はひなたの番。何か話したいことあったんじゃない?」
「ううん、何でもないよっ」
「隠すなんて水くさいよ~、言って?」
「……この前紹介してもらったレンタル彼氏のことなんだけど」
「凜翔(りひと)君!?」
心晴の声が心なしかうわずった気がしたけど、そこには突っ込まず、最近のことを話した。ここ数日バイトで忙しそうにしていた心晴にはまだ話せていなかった。
「そっかぁ。あたしがバイトに呼ばれた後、凜翔君とそんなことになってたなんて。偶然会うのもビックリだけど、なんかもう、本彼の優(ゆう)君より恋人っぽい時間過ごしてるね」
「心晴もそう思う!?」
「思うよ~!でも、優君とも毎日大学で会ってるんだよね?」
私はうなずいた。そう。優とも毎日顔を合わせ、バイトがない日は遊びに行ったりちょっと高いご飯を食べに行ったりしている。たまに講義もかぶるし。
「優といると、安心する。昭とは全然違って意地悪なこと言ってこないし、傷付けないように接してくれてるのが分かる。なのに、何でだろ……。最近、凜翔のことばっかり頭に浮かんでくる。今日なんて最悪だったんだよ?昭(あき)のこと凜翔と見間違うし、声も聞き間違えるし!ありえないよね!?」
「それは重症だね」
「だよね?」
両手で頭を抱え、私はうつむいた。
「紹介してくれた心晴の前でこんなこと言うのひどいんだけど、レンタル彼氏って恋心を売りにしてるような人達だから絶対ハマらない!って決めてた。凜翔のこともすぐに忘れるつもりだった」
でも、これって全然忘れてないっ!
「家の場所はおろか、連絡先すら教えてくれないような人を気にしてたってムダなの分かってるのに~っ!」
たまらずもだえる私を、心晴は笑顔でなだめた。
「たしかに凜翔君って謎多いけど、ひなたの話聞いてる感じだと、危ない感じはしないけどなぁ」
「どこが?何もかも怪しく思えてしょうがないんだけどっ」
「車のこととかさ。男の人って車好きな人多いから、乗せる人にも厳しいって聞いたことがあるんだよ。凜翔君みたいに免許取りたてならなおさら、色んな人乗せてあちこち走りたいって思うだろうし」
たしかに。心晴も、車を買ったばかりの頃、毎日私を誘ってどこへでも連れて行ってくれた。電車とバスがあれば不自由しないこの土地にいても、車で出かけると別の発見があって楽しかった。
「でも、凜翔君、言ってたんだよね?車に乗せる女の子は心晴が初めてだって」
「言ってたけどウソかもよ?そんなの、本当はどうかこっちには分かんないし」
昭みたく、息を吸うようにウソをつける人は、きっと世の中にたくさんいる。
「凜翔の言葉も、してくれたことも、全部嬉しかったのに、どれもツクリモノなんじゃないかって疑いたくなったりもして……」
「だけど、ひなたは信じたいんだよね?凜翔君のこと」
「うん……」
「だったら、信じるしかないよ」
「そんな簡単に……」
「難しいけど、結局、皆そうだと思うよ。相手のこと全部見える人なんていない。だったら、自分が見た相手を信じ抜くしかないんだよ」
その通りだ。
凜翔だけじゃない。私だって、凜翔に本当の自分を全部見せてるわけじゃない。それでも、彼といる時間が楽しかったのは真実。
「それに、あたし思うんだけどさ。凜翔君って、ひなたのこと好きだと思うんだよね。少なくとも、女の子として意識してる!車に乗せるのがいい証拠」
「そんなことないよ。だって、レンタル彼氏はお客さん相手に恋愛したら罰金払わなきゃいけないし……」
昨日見たホームページのことを、私は持ち出した。
「そんなリスク冒すようなこと、凜翔は絶対しない…!」
「ひなたの言う通りかもしれない。凜翔君は、ただでさえ色んなリスク背負ってそういう仕事してると思う。だから、良くも悪くも慎重になってるのかもしれないね」
お客さんとの接し方や、自分のプライベート。凜翔は全てに気を張っているかもしれないと、心晴は言った。
「その上で、ひなたがどう思うかだよね。凜翔君がレンタル彼氏やってる理由によっては、もう関わらない方がいいかもしれないし」
それは、最近私も気になってる。
「でも、関わらない方がいいと思っても考えちゃうんだよね?今のひなたを見てれば、答えはもう出てるような気がするけどなぁ」
「う……」
「急ぐことないよ。優君もいるし、ひなたの気持ちの向くままに決めたらさ」
「とはいえ、また会える保証はどこにもないんだよね……」
「だよねー……。同じ大学なら会いそうなのに、今まで全然顔合わさなかったんだもんね?……そうだ!」
心晴は弾かれたように自分のカバンの中に手を突っ込み、ガサガサと何かを取り出した。
「ごめん!凜翔君と初対面の前に渡すつもりで印刷したのに、すっかり忘れてた!」
「これ……!」
ヨレヨレになった四つ折りのA4用紙を広げると、凜翔の顔写真付きプロフィールが載っていた。
「もしかして、店のホームページの?」
「そう!それ見れば凜翔君の行動範囲が分かるかも!」
プロフィールには、スタッフの名前や血液型といった基本的な自己紹介をはじめ、好きな食べ物や特技が書いてあった。紙面を見た私は、ここ最近で一番集中力を発揮していた。
凜翔のプロフィール。営業用に多少ウソが混ざっているのだとしても、意外なことばかりだった。
「凜翔、辛い物が好きなんだ……。デート中も、この前カフェで会った時も、甘い物ばっか頼んでたのに」
「それって、甘党のひなたに合わせてたんじゃない?」
なにげない心晴の一言に、大げさなくらいドキッとしてしまう。
「特技は、楽器の演奏…?」
「すごいね!凜翔君、音楽男子?」
「そんな話、聞いたことないなぁ」
「一番下に恋愛経験って欄(らん)もあるよ」
「そんなことまで!?」
どの項目より気になる!食い入るように、その欄を読んだ。
『恋愛経験:初恋は年上の女性です。彼女はいたことありません。
仕事への意気込み:このお仕事を通して、女性の気持ちが分かる男になりたいです!自分磨きだと思っています。』
「初恋が年上で、女の子と付き合ったことがない?あのスペックで?今でも充分完璧なクセに自分磨き?……絶対ウソだ」
「ひなたっ、気をたしかにっ!」
「はあ……。なんか、今すぐにでも魂が抜けそうな気分」
なんだろう。言いようのない気持ちに疲れ脱力した。凜翔のプロフィールを見て彼のことが少しだけ分かった気がする。でも、見る前より分からなくなったのも本当。
爽やかな微笑を浮かべる凜翔のプロフィール写真を見つめながらしばらくボンヤリしていた。そのせいで、心晴のささやきは耳に入って来なかった。
「凜翔君と幸せになれるといいね」
凜翔のことばかり考えてしまうのに、それからも会えることはなかった。偶然は、そう何度も重なるものじゃないらしい。
ショッピングモールや教育学部の学生しか使わない学内の施設、あるいはあのカフェに行けば偶然を装って凜翔に会えるのかもしれないけど、それだと本当のストーカーになってしまうので行かなかった。他の人をいそいそ探すのも優に対してやましいし……。
それに、できることなら自然に会いたい。凜翔に会えば、こうして意味なく彼のことばかり頭を占める状態も治まる気がして。
会えないまま半月が過ぎ、11月になった。凜翔との初デートから1ヶ月が経ちそうだった。
「ひなたのとこは何やるの?」
「……」
「ひなた?」
「ご、ごめんっ」
しまった。優と学食へ昼食を摂りに来てたんだった!
「何の話だった?」
「大学祭のことだよ。映画研究会は出し物決まった?」
「うん。いつもと同じ、体育館で人気映画の上映会。他のサークルの子達からはもっと工夫すればいいのにって言われる」
「そうなんだ。でも、俺はそれ好きだよ。去年の上映会も面白かったし」
この時期になると、学内は普段より活気づく。11月末に行われる大学祭の準備で、各サークルが盛り上がるからだ。
「優はバスケ同好会だったよね。何やるか決まったの?」
「今年も食べ物。豚汁作って売るんだって。バスケ関係なくない?」
「いいと思うよ。豚汁好きだし、バスケ同好会の屋台も絶対行くね」
「特別サービスするよ。他の人には内緒で」
変わらない優の優しさにホッとする半面、最近は胸が痛む。私は、ちゃんと彼女やれてるのかな?
「あのさ、ひなた」
「何?」
「……」
一拍置くと、優は緊張した面持ちで話を切り出した。
「大学祭終わったらすぐ、旅行行かない?っていっても、隣の県だからすぐ着くような場所なんだけど……」
「ってことは、日帰り?」
「……泊まりなんだけど、どう?」
優は、ためらいがちにこっちの様子を見た。泊まりの旅行。色んな意味で躊躇(ちゅうちょ)し、返事につまる。それって、つまりそういうことだよね?
「来年になったら本格的に就活しないといけなくなるし、行くなら今のうちかなって。大学祭終わればサークルや同好会の活動も落ち着くし、付き合ってから全然そういうイベントっぽいことしてあげられなかったから」
「そんなの気にしなくていいのに……。それに、大学祭の後は大事な用事があって、旅行は無理かもしれないんだ」
優にはまだ話せていなかった、心晴のことを簡潔に話した。
「心晴んちの引っ越しがちょうど大学祭の直後で、荷物運びとか手伝う約束してるの。そのまま向こうに行って、数日向こうに泊まらせてもらう予定で……」
手伝いたいというのはもちろんだけど、それは心晴のお願いでもあった。お母さんと一緒とはいえ、よく知らない土地で暮らすことはやっぱり不安だと心晴は言ってた。でも、引っ越し後からしばらく私が泊まれば、新しい土地でやっていく心の準備もできそうだと喜んでくれた。
「ごめんね、優。旅行の提案はホントに嬉しいけど、出来る限りのことで今は心晴のこと支えたいんだ。今同じバイト先にいる彼氏とも遠距離恋愛になるから寂しいと思うし……」
「そうなんだ。心晴ちゃん大変だったんだね。分かったよ。今は心晴ちゃんのことだけ考えてあげて」
「ありがとう…!」
優には申し訳ないけど、ホッとした。それは、心晴の手伝いを認めてもらえたことに対してではなく、優と旅行に行かずにすむという安堵(あんど)だったのに、私は自覚しようとせず、本音を曖昧(あいまい)にした。
その感情と向き合ってしまったら、今の平穏な生活がガラリと変わってしまう気がして……。
優との付き合いで、気持ちのバランスを取っていたんだと思う。凜翔のことばかり考えてしまわないように。すでに、その均衡(きんこう)は崩れていたのにーー。
それを証拠に、この時優が切ない顔をしていることに、私は全く気付かなかった。
それから数日後。
普段より長引いたサークル活動の帰り、私は校舎内を早歩きで移動していた。ついさっきまで部室で見ていた映画のブルーレイが、ホラーものだったからだ。
映画好きな先輩達は、大学祭の出し物にふさわしい候補作を絞るため、熱心に何本もの映画を見ている。そういう時間は好きだけど、ホラーはいまだに苦手ジャンルだ。
省エネモードで薄暗い校内は、恐ろしい映像を鮮明に思い出させる。こわい。
昇降口に向け夢中で歩いていると、サークル棟から綺麗な音色が聴こえてきた。
「ピアノ…?」
テレビなどでもよく流れている有名なクラシックだった。優しい曲調に、恐怖心も薄れていく。
音のする方につられていくと、サークル棟の二階にある軽音楽部の部室前にたどり着いた。間違いない。音はここからしている!
ノックをしようとして、やめた。関係者でもないのに訪ねるって、完全に怪しい人だよ。やめとこ!……でも、どんな人が弾いてるのか気になるなぁ。
それに、軽音楽部の人ってギターやドラムで派手な音楽を掻(か)き鳴らしてるイメージだったから、こんな繊細なピアノを奏でる人がいることが意外だ。
好奇心でウズウズしつつも中に入る勇気がなくウロウロしていると、
「ウチの部に何か用ですか?」
とても可愛い女の子がやってきた。1年生?小柄だし、顔も可愛すぎて直視できないほどだった。威圧感もハンパない。彼女は怪訝(けげん)な顔をしている。
「すいません、用事じゃないんですけど、ここから綺麗な音が聴こえてきたので、つい」
「そうですか……。聴いていきます?」
「いいんですか?」
「少しなら。練習の邪魔にならないよう、隅にいて下さい」
「わ、分かりましたっ!」
モデルとかやってそうなくらい可愛いのに、容姿の甘さからは想像つかないほど、彼女の対応はクールでそっけない。気後れしつつ彼女に続いて部屋に入り、驚いた。
小綺麗に整頓された軽音楽部の部室。アップライトのピアノに向き合っていたのは、あんなに会いたいと願っていた凜翔だった。凜翔も、目を丸くし演奏の手をとめた。
「ひなた……。どうして?紗希(さき)と知り合いだっけ?」
凜翔は、ここへ入れてくれた女の子を視線で示す。この子、紗希ちゃんっていうんだ。名前も可愛い。
「凜翔のピアノ聴きたいんだって。部室の前でウロウロしててうっとおしかったから面倒だし入れたの」
「そんな言い方しないで、紗希。彼女は俺の知り合いなんだ」
口の悪さを凜翔にたしなめられ、紗希ちゃんは無口になる。明らかに拗(す)ねている様子だ。
もしかして、凜翔の彼女ってこの子なの……?部屋の隅、ムスッとした顔でマイクを磨く紗希ちゃんを見て、全身の血が逆流した。
多くを語らなくても分かり合っている。そんな雰囲気を漂わせる二人を見て、私はショックを受けた。恥ずかしい……。凜翔のことばかり考えて彼のプロフィールまでチェックしてしまった自分が……。
心晴(こはる)がいなくなるなんて、考えたくない。何かの間違いであってほしかった。
「引っ越すって、そんな遠くに?」
「隣の県だよ。でも、車で2時間半はかかるから、今みたいにしょっちゅうひなたと会えなくなる……」
心晴は、しぶしぶそれを受け入れたみたいな口調で事情を話した。
「中途採用だけど、お母さん正社員の仕事見つけたんだ。支社勤務ならここに居られるけど、入社後すぐ本社で働いてほしいって面接の時に言われてたみたい……」
「それで引っ越しを?」
「急だよね、こんなの……」
心晴のお母さんは、お父さんが亡くなってからずっと、パートタイムの仕事を掛け持ちして家計を支えてきた。正社員より時間の融通が利くからという理由でそのスタイルを貫いていたけど、経済面を考えると正社員勤めの方が何かと安定しているので、以前から正社員の仕事も探していたらしい。
心晴がワゴンのバイトを頑張っているのも、そういう時給が高いバイトなら親に負担をかけずにすむから。そのことを考えると、心晴のお母さんが新しい仕事を見つけたことは、心晴の家にとっていいことのはずだ。
「でも、心晴は納得いかないって感じだね」
「そうだね。あたし、こういう時が来たら絶対お母さんの応援してあげようって思ってた。でも、まさかこんな早くそんな日が来るなんて……。こういうこと覚悟してたつもりなのに、いざこうなると、なんて言うか」
ため息をつくと、心晴はようやく飲み物に少しだけ口をつけた。
「複雑な気分だよ。お母さんのことは好きだし協力したいと思うけど、あたしにもあたしの生活があるから。ひなたやイサキと離れたくないし……」
「そうだよね……」
心晴の背中をなで、私は言った。
「心晴だけここに残ることはできないの?」
「あたしもそうしたいけど、お母さんはどうしてもあたしについてきてほしいって……。ここまでやってこれたのはあたしのおかげだから、一人で知らない所に住むのは心細いって。そんなこと言われたら行きたくないなんて言えなくて……」
「心晴……」
「お父さん死んでからもここまで無事に暮らしてこれたのは、お母さんが頑張ってくれたおかげだもんね……」
自分の都合だけ考えたらここに残りたい。でも、心晴は最初に引っ越すと言った。もう答えは決まってるんだ……。
「私も心晴がいなくなるのは寂しいよ。できることなら引き止めたい。行かないでほしいよ。でも、おばさんの再出発を応援したいんだよね」
「うん……。あたしのワガママでお母さんの就職がなしになるのも嫌だから。ごめんね、ひなた……」
「謝ることないよ。2時間半なんてすぐだし!」
車もまだ持ってないクセに、何を言ってるんだろう。受け身な自分が情けなくなった。私が想像するよりもっと心晴はつらいのに、何の助けにもなれないなんてーー。
落ち込む私とは正反対に、心晴は気持ちを切り替え明るく言った。
「だよねっ!2時間半なんてすぐだよね!今までが近かったから恵まれ過ぎてたんだよ。うん。そう思うことにしよっ」
「心晴……」
「離れてたって、あたし達は仲良しだよ。スマホで顔見ながら話せるし、寂しくなんてないんだから!」
心晴は強いな。私なんかと大違いーー。
「次はひなたの番。何か話したいことあったんじゃない?」
「ううん、何でもないよっ」
「隠すなんて水くさいよ~、言って?」
「……この前紹介してもらったレンタル彼氏のことなんだけど」
「凜翔(りひと)君!?」
心晴の声が心なしかうわずった気がしたけど、そこには突っ込まず、最近のことを話した。ここ数日バイトで忙しそうにしていた心晴にはまだ話せていなかった。
「そっかぁ。あたしがバイトに呼ばれた後、凜翔君とそんなことになってたなんて。偶然会うのもビックリだけど、なんかもう、本彼の優(ゆう)君より恋人っぽい時間過ごしてるね」
「心晴もそう思う!?」
「思うよ~!でも、優君とも毎日大学で会ってるんだよね?」
私はうなずいた。そう。優とも毎日顔を合わせ、バイトがない日は遊びに行ったりちょっと高いご飯を食べに行ったりしている。たまに講義もかぶるし。
「優といると、安心する。昭とは全然違って意地悪なこと言ってこないし、傷付けないように接してくれてるのが分かる。なのに、何でだろ……。最近、凜翔のことばっかり頭に浮かんでくる。今日なんて最悪だったんだよ?昭(あき)のこと凜翔と見間違うし、声も聞き間違えるし!ありえないよね!?」
「それは重症だね」
「だよね?」
両手で頭を抱え、私はうつむいた。
「紹介してくれた心晴の前でこんなこと言うのひどいんだけど、レンタル彼氏って恋心を売りにしてるような人達だから絶対ハマらない!って決めてた。凜翔のこともすぐに忘れるつもりだった」
でも、これって全然忘れてないっ!
「家の場所はおろか、連絡先すら教えてくれないような人を気にしてたってムダなの分かってるのに~っ!」
たまらずもだえる私を、心晴は笑顔でなだめた。
「たしかに凜翔君って謎多いけど、ひなたの話聞いてる感じだと、危ない感じはしないけどなぁ」
「どこが?何もかも怪しく思えてしょうがないんだけどっ」
「車のこととかさ。男の人って車好きな人多いから、乗せる人にも厳しいって聞いたことがあるんだよ。凜翔君みたいに免許取りたてならなおさら、色んな人乗せてあちこち走りたいって思うだろうし」
たしかに。心晴も、車を買ったばかりの頃、毎日私を誘ってどこへでも連れて行ってくれた。電車とバスがあれば不自由しないこの土地にいても、車で出かけると別の発見があって楽しかった。
「でも、凜翔君、言ってたんだよね?車に乗せる女の子は心晴が初めてだって」
「言ってたけどウソかもよ?そんなの、本当はどうかこっちには分かんないし」
昭みたく、息を吸うようにウソをつける人は、きっと世の中にたくさんいる。
「凜翔の言葉も、してくれたことも、全部嬉しかったのに、どれもツクリモノなんじゃないかって疑いたくなったりもして……」
「だけど、ひなたは信じたいんだよね?凜翔君のこと」
「うん……」
「だったら、信じるしかないよ」
「そんな簡単に……」
「難しいけど、結局、皆そうだと思うよ。相手のこと全部見える人なんていない。だったら、自分が見た相手を信じ抜くしかないんだよ」
その通りだ。
凜翔だけじゃない。私だって、凜翔に本当の自分を全部見せてるわけじゃない。それでも、彼といる時間が楽しかったのは真実。
「それに、あたし思うんだけどさ。凜翔君って、ひなたのこと好きだと思うんだよね。少なくとも、女の子として意識してる!車に乗せるのがいい証拠」
「そんなことないよ。だって、レンタル彼氏はお客さん相手に恋愛したら罰金払わなきゃいけないし……」
昨日見たホームページのことを、私は持ち出した。
「そんなリスク冒すようなこと、凜翔は絶対しない…!」
「ひなたの言う通りかもしれない。凜翔君は、ただでさえ色んなリスク背負ってそういう仕事してると思う。だから、良くも悪くも慎重になってるのかもしれないね」
お客さんとの接し方や、自分のプライベート。凜翔は全てに気を張っているかもしれないと、心晴は言った。
「その上で、ひなたがどう思うかだよね。凜翔君がレンタル彼氏やってる理由によっては、もう関わらない方がいいかもしれないし」
それは、最近私も気になってる。
「でも、関わらない方がいいと思っても考えちゃうんだよね?今のひなたを見てれば、答えはもう出てるような気がするけどなぁ」
「う……」
「急ぐことないよ。優君もいるし、ひなたの気持ちの向くままに決めたらさ」
「とはいえ、また会える保証はどこにもないんだよね……」
「だよねー……。同じ大学なら会いそうなのに、今まで全然顔合わさなかったんだもんね?……そうだ!」
心晴は弾かれたように自分のカバンの中に手を突っ込み、ガサガサと何かを取り出した。
「ごめん!凜翔君と初対面の前に渡すつもりで印刷したのに、すっかり忘れてた!」
「これ……!」
ヨレヨレになった四つ折りのA4用紙を広げると、凜翔の顔写真付きプロフィールが載っていた。
「もしかして、店のホームページの?」
「そう!それ見れば凜翔君の行動範囲が分かるかも!」
プロフィールには、スタッフの名前や血液型といった基本的な自己紹介をはじめ、好きな食べ物や特技が書いてあった。紙面を見た私は、ここ最近で一番集中力を発揮していた。
凜翔のプロフィール。営業用に多少ウソが混ざっているのだとしても、意外なことばかりだった。
「凜翔、辛い物が好きなんだ……。デート中も、この前カフェで会った時も、甘い物ばっか頼んでたのに」
「それって、甘党のひなたに合わせてたんじゃない?」
なにげない心晴の一言に、大げさなくらいドキッとしてしまう。
「特技は、楽器の演奏…?」
「すごいね!凜翔君、音楽男子?」
「そんな話、聞いたことないなぁ」
「一番下に恋愛経験って欄(らん)もあるよ」
「そんなことまで!?」
どの項目より気になる!食い入るように、その欄を読んだ。
『恋愛経験:初恋は年上の女性です。彼女はいたことありません。
仕事への意気込み:このお仕事を通して、女性の気持ちが分かる男になりたいです!自分磨きだと思っています。』
「初恋が年上で、女の子と付き合ったことがない?あのスペックで?今でも充分完璧なクセに自分磨き?……絶対ウソだ」
「ひなたっ、気をたしかにっ!」
「はあ……。なんか、今すぐにでも魂が抜けそうな気分」
なんだろう。言いようのない気持ちに疲れ脱力した。凜翔のプロフィールを見て彼のことが少しだけ分かった気がする。でも、見る前より分からなくなったのも本当。
爽やかな微笑を浮かべる凜翔のプロフィール写真を見つめながらしばらくボンヤリしていた。そのせいで、心晴のささやきは耳に入って来なかった。
「凜翔君と幸せになれるといいね」
凜翔のことばかり考えてしまうのに、それからも会えることはなかった。偶然は、そう何度も重なるものじゃないらしい。
ショッピングモールや教育学部の学生しか使わない学内の施設、あるいはあのカフェに行けば偶然を装って凜翔に会えるのかもしれないけど、それだと本当のストーカーになってしまうので行かなかった。他の人をいそいそ探すのも優に対してやましいし……。
それに、できることなら自然に会いたい。凜翔に会えば、こうして意味なく彼のことばかり頭を占める状態も治まる気がして。
会えないまま半月が過ぎ、11月になった。凜翔との初デートから1ヶ月が経ちそうだった。
「ひなたのとこは何やるの?」
「……」
「ひなた?」
「ご、ごめんっ」
しまった。優と学食へ昼食を摂りに来てたんだった!
「何の話だった?」
「大学祭のことだよ。映画研究会は出し物決まった?」
「うん。いつもと同じ、体育館で人気映画の上映会。他のサークルの子達からはもっと工夫すればいいのにって言われる」
「そうなんだ。でも、俺はそれ好きだよ。去年の上映会も面白かったし」
この時期になると、学内は普段より活気づく。11月末に行われる大学祭の準備で、各サークルが盛り上がるからだ。
「優はバスケ同好会だったよね。何やるか決まったの?」
「今年も食べ物。豚汁作って売るんだって。バスケ関係なくない?」
「いいと思うよ。豚汁好きだし、バスケ同好会の屋台も絶対行くね」
「特別サービスするよ。他の人には内緒で」
変わらない優の優しさにホッとする半面、最近は胸が痛む。私は、ちゃんと彼女やれてるのかな?
「あのさ、ひなた」
「何?」
「……」
一拍置くと、優は緊張した面持ちで話を切り出した。
「大学祭終わったらすぐ、旅行行かない?っていっても、隣の県だからすぐ着くような場所なんだけど……」
「ってことは、日帰り?」
「……泊まりなんだけど、どう?」
優は、ためらいがちにこっちの様子を見た。泊まりの旅行。色んな意味で躊躇(ちゅうちょ)し、返事につまる。それって、つまりそういうことだよね?
「来年になったら本格的に就活しないといけなくなるし、行くなら今のうちかなって。大学祭終わればサークルや同好会の活動も落ち着くし、付き合ってから全然そういうイベントっぽいことしてあげられなかったから」
「そんなの気にしなくていいのに……。それに、大学祭の後は大事な用事があって、旅行は無理かもしれないんだ」
優にはまだ話せていなかった、心晴のことを簡潔に話した。
「心晴んちの引っ越しがちょうど大学祭の直後で、荷物運びとか手伝う約束してるの。そのまま向こうに行って、数日向こうに泊まらせてもらう予定で……」
手伝いたいというのはもちろんだけど、それは心晴のお願いでもあった。お母さんと一緒とはいえ、よく知らない土地で暮らすことはやっぱり不安だと心晴は言ってた。でも、引っ越し後からしばらく私が泊まれば、新しい土地でやっていく心の準備もできそうだと喜んでくれた。
「ごめんね、優。旅行の提案はホントに嬉しいけど、出来る限りのことで今は心晴のこと支えたいんだ。今同じバイト先にいる彼氏とも遠距離恋愛になるから寂しいと思うし……」
「そうなんだ。心晴ちゃん大変だったんだね。分かったよ。今は心晴ちゃんのことだけ考えてあげて」
「ありがとう…!」
優には申し訳ないけど、ホッとした。それは、心晴の手伝いを認めてもらえたことに対してではなく、優と旅行に行かずにすむという安堵(あんど)だったのに、私は自覚しようとせず、本音を曖昧(あいまい)にした。
その感情と向き合ってしまったら、今の平穏な生活がガラリと変わってしまう気がして……。
優との付き合いで、気持ちのバランスを取っていたんだと思う。凜翔のことばかり考えてしまわないように。すでに、その均衡(きんこう)は崩れていたのにーー。
それを証拠に、この時優が切ない顔をしていることに、私は全く気付かなかった。
それから数日後。
普段より長引いたサークル活動の帰り、私は校舎内を早歩きで移動していた。ついさっきまで部室で見ていた映画のブルーレイが、ホラーものだったからだ。
映画好きな先輩達は、大学祭の出し物にふさわしい候補作を絞るため、熱心に何本もの映画を見ている。そういう時間は好きだけど、ホラーはいまだに苦手ジャンルだ。
省エネモードで薄暗い校内は、恐ろしい映像を鮮明に思い出させる。こわい。
昇降口に向け夢中で歩いていると、サークル棟から綺麗な音色が聴こえてきた。
「ピアノ…?」
テレビなどでもよく流れている有名なクラシックだった。優しい曲調に、恐怖心も薄れていく。
音のする方につられていくと、サークル棟の二階にある軽音楽部の部室前にたどり着いた。間違いない。音はここからしている!
ノックをしようとして、やめた。関係者でもないのに訪ねるって、完全に怪しい人だよ。やめとこ!……でも、どんな人が弾いてるのか気になるなぁ。
それに、軽音楽部の人ってギターやドラムで派手な音楽を掻(か)き鳴らしてるイメージだったから、こんな繊細なピアノを奏でる人がいることが意外だ。
好奇心でウズウズしつつも中に入る勇気がなくウロウロしていると、
「ウチの部に何か用ですか?」
とても可愛い女の子がやってきた。1年生?小柄だし、顔も可愛すぎて直視できないほどだった。威圧感もハンパない。彼女は怪訝(けげん)な顔をしている。
「すいません、用事じゃないんですけど、ここから綺麗な音が聴こえてきたので、つい」
「そうですか……。聴いていきます?」
「いいんですか?」
「少しなら。練習の邪魔にならないよう、隅にいて下さい」
「わ、分かりましたっ!」
モデルとかやってそうなくらい可愛いのに、容姿の甘さからは想像つかないほど、彼女の対応はクールでそっけない。気後れしつつ彼女に続いて部屋に入り、驚いた。
小綺麗に整頓された軽音楽部の部室。アップライトのピアノに向き合っていたのは、あんなに会いたいと願っていた凜翔だった。凜翔も、目を丸くし演奏の手をとめた。
「ひなた……。どうして?紗希(さき)と知り合いだっけ?」
凜翔は、ここへ入れてくれた女の子を視線で示す。この子、紗希ちゃんっていうんだ。名前も可愛い。
「凜翔のピアノ聴きたいんだって。部室の前でウロウロしててうっとおしかったから面倒だし入れたの」
「そんな言い方しないで、紗希。彼女は俺の知り合いなんだ」
口の悪さを凜翔にたしなめられ、紗希ちゃんは無口になる。明らかに拗(す)ねている様子だ。
もしかして、凜翔の彼女ってこの子なの……?部屋の隅、ムスッとした顔でマイクを磨く紗希ちゃんを見て、全身の血が逆流した。
多くを語らなくても分かり合っている。そんな雰囲気を漂わせる二人を見て、私はショックを受けた。恥ずかしい……。凜翔のことばかり考えて彼のプロフィールまでチェックしてしまった自分が……。
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