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第十四話 大人
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赤い花の写真の下で、自分が送ったウサギのスタンプが「おかえり!」と笑っている。もう一か月はそのままの画面を凌介は何度開いて閉じたかわからない。〈着きました〉と〈戻りました〉。そんな、たった二通きりのメッセージ。それぞれに一枚ずつ写真がついていて、一つ目はプレートの上で湯気をたてるステーキ肉、そして二つ目が険しそうな山肌に揺れる赤い花だった。
スタンプで返信する以外、凌介からメッセージを送ったりはしなかった。具体的な用事もないし、多忙とわかっている相手にくだらない雑談を投げかけて、一晩泊めたくらいで調子に乗ってるなんて思われたら藪ヘビだ。それにトーク画面に流れる穏やかな時間を進めてしまうのが怖かった。
でも本当は、ずっと長本先生に訊きたいことがあった。凌介より一回り以上長い人生のなかで、「先生、仕事辞めたことありますか?」と。でももう遅い。
〈仕事、辞めようと思います〉
一か月ぶりにトーク画面を動かしたのは結局、そんな凌介のメッセージだった。既読の文字はまだつかない。
最近、凌介はまた夢を見る。駐機場でどす黒い炎を上げる機体を何もできず見上げている夢だ。しばらくすると今度は自分が機内にいて、しまいにはジェット燃料の臭いに胸を焼かれて飛び起きる。
酷い夢見の理由は、どう考えても日々強くなる異動のプレッシャーのせいだ。こんな有様じゃ、たとえ現場に戻ったところで……。しかし一方で、もっと航空機の技術や知識を深めたいという矛盾した夢を凌介はこのごろ抱きはじめていた。相変わらず定期的にチェックしている長本研のウェブサイトはお遊びみたいなブログを理解するので精いっぱいなのに、ふとした拍子にジャンプした航空や宇宙技術の研究室の数々に凌介はすっかり惹きつけられた。どうせ寝たって悪い夢を見るのだ。それならいっそと、そうした研究室紹介ページを巡るのが最近の凌介の日課になっていた。
職場を去ると告げたとき、上司は困った顔をしながらも引き留めたりはしなかった。スタッフの入れ替わりはよくあることだし、何より人をよく見ている人だ。整備部門への出戻りをもちかける度に自分の瞳に暗い影が落ちることに気がついていたのだろうと凌介は思っている。
「課長、これ、お願いします。ご迷惑かけてすみませんが」
「いや、まぁ、とにかく確かに受け取った。で、これからどうするんだ?」
凌介が生まれて初めて書いた退職届を引き出しにしまいながら秋高課長はそう切り出した。責める調子はなく、純粋な好奇心からの疑問らしかった。だから凌介も淡々と用意していた口上を述べた。
「少し、実家に帰ってのんびりしようと思います、自分でも甘いと思うんですけど、いろいろ整理したくて」
「ふぅん、実家なんだな、海外とかじゃなくて」
「ああ、たしかに、そういう手もありますね」
「まぁ何かあったら気楽に連絡してくれ。人手は常に不足してるから」
課長はあっけらかんとそう告げると、今、退職届を入れたのと同じ引き出しからメビウスのボックスを取り出し、そのまま休憩室に消えていった。
そんな理解ある上司に凌介が唯一後ろめたいのは、退職にもっともらしい理由がほしくて心療内科を再診したことだ。おまけにあっさりドクターストップが出たのだ。使えるものはなんでも使ったほうがいい。嘘も方便ってやつだ。
だから佳樹から音沙汰がないのも、いい加減な自分に罰が当たったのだろうと凌介は思っていた。向こう数か月は海外出張だらけと言っていたから成田に来ていないはずはないのに、メッセージの返事すらないのだ。
ようやく返信があったのは、てっきり嫌われてしまったのだろうと半ば諦めていた頃。退職届を出してから一週間後のことだった。
〈遅くなってほんとにすいません。ちょっとバタバタしてまして〉
佳樹のまた赤の他人に戻ったような堅苦しい文面に凌介は思わず笑った。次のひとことに悩んでいる様子だったから、結局、凌介から退職のなりゆきを告げた。また少し体調を崩したこと、とはいえ深刻な状態ではなく、どちらかといえば引き留められないための言い訳に過ぎないこと、それから、しばらく実家に戻ること。ぶつ切れの連投が一段落するのを見計らったかのように、〈よかった。安心した〉とフキダシがあらわれた。
〈だからもう成田に来てもらっても会えないんですよ。悲しい〉
そうなるのは自分のせいなのに、不思議と佳樹に対して罪悪感は湧かなかった。もちろん悲しいのは本音だし、実際、彼と会う機会もしばらくないだろう。でも友達ってたとえば数年会わなくたってずっと友達のはずだ。それなら自分たちも名もない関係のままでいたいと包み隠さぬ思いを伝えた。
〈だから、忘れられちゃうのは嫌です〉
〈私も〉
〈ほんと?それなら嬉しい。また佳樹に会いに行くから〉
そう送った数秒後にピヨンと通知音がして、了承を意味する絵文字が浮かんだ。
スタンプで返信する以外、凌介からメッセージを送ったりはしなかった。具体的な用事もないし、多忙とわかっている相手にくだらない雑談を投げかけて、一晩泊めたくらいで調子に乗ってるなんて思われたら藪ヘビだ。それにトーク画面に流れる穏やかな時間を進めてしまうのが怖かった。
でも本当は、ずっと長本先生に訊きたいことがあった。凌介より一回り以上長い人生のなかで、「先生、仕事辞めたことありますか?」と。でももう遅い。
〈仕事、辞めようと思います〉
一か月ぶりにトーク画面を動かしたのは結局、そんな凌介のメッセージだった。既読の文字はまだつかない。
最近、凌介はまた夢を見る。駐機場でどす黒い炎を上げる機体を何もできず見上げている夢だ。しばらくすると今度は自分が機内にいて、しまいにはジェット燃料の臭いに胸を焼かれて飛び起きる。
酷い夢見の理由は、どう考えても日々強くなる異動のプレッシャーのせいだ。こんな有様じゃ、たとえ現場に戻ったところで……。しかし一方で、もっと航空機の技術や知識を深めたいという矛盾した夢を凌介はこのごろ抱きはじめていた。相変わらず定期的にチェックしている長本研のウェブサイトはお遊びみたいなブログを理解するので精いっぱいなのに、ふとした拍子にジャンプした航空や宇宙技術の研究室の数々に凌介はすっかり惹きつけられた。どうせ寝たって悪い夢を見るのだ。それならいっそと、そうした研究室紹介ページを巡るのが最近の凌介の日課になっていた。
職場を去ると告げたとき、上司は困った顔をしながらも引き留めたりはしなかった。スタッフの入れ替わりはよくあることだし、何より人をよく見ている人だ。整備部門への出戻りをもちかける度に自分の瞳に暗い影が落ちることに気がついていたのだろうと凌介は思っている。
「課長、これ、お願いします。ご迷惑かけてすみませんが」
「いや、まぁ、とにかく確かに受け取った。で、これからどうするんだ?」
凌介が生まれて初めて書いた退職届を引き出しにしまいながら秋高課長はそう切り出した。責める調子はなく、純粋な好奇心からの疑問らしかった。だから凌介も淡々と用意していた口上を述べた。
「少し、実家に帰ってのんびりしようと思います、自分でも甘いと思うんですけど、いろいろ整理したくて」
「ふぅん、実家なんだな、海外とかじゃなくて」
「ああ、たしかに、そういう手もありますね」
「まぁ何かあったら気楽に連絡してくれ。人手は常に不足してるから」
課長はあっけらかんとそう告げると、今、退職届を入れたのと同じ引き出しからメビウスのボックスを取り出し、そのまま休憩室に消えていった。
そんな理解ある上司に凌介が唯一後ろめたいのは、退職にもっともらしい理由がほしくて心療内科を再診したことだ。おまけにあっさりドクターストップが出たのだ。使えるものはなんでも使ったほうがいい。嘘も方便ってやつだ。
だから佳樹から音沙汰がないのも、いい加減な自分に罰が当たったのだろうと凌介は思っていた。向こう数か月は海外出張だらけと言っていたから成田に来ていないはずはないのに、メッセージの返事すらないのだ。
ようやく返信があったのは、てっきり嫌われてしまったのだろうと半ば諦めていた頃。退職届を出してから一週間後のことだった。
〈遅くなってほんとにすいません。ちょっとバタバタしてまして〉
佳樹のまた赤の他人に戻ったような堅苦しい文面に凌介は思わず笑った。次のひとことに悩んでいる様子だったから、結局、凌介から退職のなりゆきを告げた。また少し体調を崩したこと、とはいえ深刻な状態ではなく、どちらかといえば引き留められないための言い訳に過ぎないこと、それから、しばらく実家に戻ること。ぶつ切れの連投が一段落するのを見計らったかのように、〈よかった。安心した〉とフキダシがあらわれた。
〈だからもう成田に来てもらっても会えないんですよ。悲しい〉
そうなるのは自分のせいなのに、不思議と佳樹に対して罪悪感は湧かなかった。もちろん悲しいのは本音だし、実際、彼と会う機会もしばらくないだろう。でも友達ってたとえば数年会わなくたってずっと友達のはずだ。それなら自分たちも名もない関係のままでいたいと包み隠さぬ思いを伝えた。
〈だから、忘れられちゃうのは嫌です〉
〈私も〉
〈ほんと?それなら嬉しい。また佳樹に会いに行くから〉
そう送った数秒後にピヨンと通知音がして、了承を意味する絵文字が浮かんだ。
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