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第九話 満たされて

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「濡れてないといえば濡れてないけど」

「濡れてるといえば濡れてますね。シャワー先どうぞ」

「いいの?」

「飯の御礼です。洗濯はさすがに間に合わなさそうなんで、そのへんにかけといて自然乾燥に期待するしかないですけど」

「ぜんぜん大丈夫。泊めてもらっといておまけに洗濯なんて厚かましいこと言わない」

 そう言うと佳樹は横たえたスーツケースのロックを解除して、うーんとひとつ伸びをした。いきおいついでにアンダーシャツもろとも上衣を脱ぎ捨てたとき、ふと凌介の鼻孔にさっきの芋焼酎の湯気みたいな甘ったるい香りが漂った。

「うわ、いいからだですね。ジムとか行ってるんですか?」

 思わずそう訊ねたほど、そそる。身をかがめてあれこれ荷物を漁っても揺れるような贅肉はないのに、筋肉質というわけでもない。柔らかで優しげなボディラインはウェストで一度内側にへこみ、腰骨のところでまたうっすら外側にカーブを描いていた。

「ジムとかそんな時間あるわけないでしょ。でもまぁ調査のおかげかも。機材担いで山道を歩くから。じゃあ、お言葉に甘えてお先にシャワー借ります」

「あ、はい。タオル自由に使ってください。ドライヤーは鏡の裏にかかってます」

 凌介がハンガーを差し出すと、佳樹は脱ぎ捨てた衣類をひっかけてよこした。布地に宿る彼のぬくもりも、礼を述べながら浴室に消えていく後ろ姿の残像も消えない。消えてほしくないと凌介は思った。

「やば……」

 ロフト梯子に腰掛け、また立ち上がり、うろうろと冷蔵庫に行きついた果てに、気づけば凌介は缶ビールのプルタブに指をかけていた。別に飲み足りないわけじゃない。でも、今夜は酔っぱらって寝てしまわないといけない。そう思っていた。

「いや、でも、なんていうかな、セックスじゃなくて……」

 その続きはうまく言葉にならなかった。凌介の葛藤などおかまいなしに1Kを仕切るアコーディオンカーテンが開いたのは、缶が半分ほど空になった頃だった。

「あ、中井くん、なに自分だけ飲んでんの」

「いや、まぁちょっと、せっかくもらったから……。飲みます……?」

「ううん。私はもういいや」

「そうですか。アイスは?」

 三十九歳の准教授は迷うことなく「食べる」と答えた。新商品のストロベリーチーズケーキ味とミルクティー味は、宿の礼とは言いながらも、自分が食べたくて購入したとしか思えなかった。

「じゃあ僕も飲み終わったらもらうので、お好きなほうどうぞ」

「いいの?うーん、ストロベリーチーズケーキかな」

「……半分こすればいいんじゃないですか」

「それもそうね」

 そう答えた佳樹はもうカップアイスに夢中で、めくった内蓋をねぶろうとしてハッとして動きを止めるまで、凌介がすぐそばにいることさえ忘れていたようだった。

「あ、ごめん、行儀悪いね」

「いえいえ、僕もそれやりたい派ですよ。なんか妙に美味いよね、蓋についたやつって」

 凌介のフォローに佳樹は照れくさそうにうつむくと、ちろりと薄い舌を出しそっと内蓋の上を滑らせた。なんとなく居心地が悪くて身じろいだ後、凌介は残ったビールを飲み干し、自らも氷菓に手を伸ばした。佳樹の真似をして内蓋にうっすら舌を這わしたとき、柔らかく緩んだ瞳がこちらを見つめているのに気づいた。

「なんですか?」

「……私も凌介って呼んでいい?」

「……もちろんです。年齢からいっても順当」

「うるさい。ねぇ、ミルクティー美味い?」

「美味いですよ。食べます?」

 シャンプーの匂いをさせた黒い頭が上下に揺れ、半開きの唇の向こうに整った歯列がのぞき、黒い瞳は凌介が乳脂肪の塊をかきとる様子をキラキラした様子で追いかけていた。

「じゃあ、はい、佳樹先生、アーン?」

 もちろんただの冗談だ。幼児相手でもあるまいし。目の前で薄い唇があんぐり開いても、まだ凌介自身そう思っていた。スプーンをUターンさせ自分の口に運んだのだってほんのいたずらだ。口に含んだアイスは上品でひやっこくて甘かった。佳樹は恨めしそうに「アーン」したままだった。ややあって、凌介の舌先に熱く柔らかなものが触れた。

「ふっ、ん……」

「んっ……ふ……あ……」

 体温で溶け始めたクリームが舌から舌へ甘みを伝える。凌介からそうしたような気もするし、佳樹のほうから食らいついてきた気もする。どちらにせよ内蓋まで舐める二人は、口端からこぼすようなもったいない真似もするはずなかった。

「んむ……んっ……はぁ……」

「ん、……っ、もう……びっくりした……。どっちが美味しかったですか?」

「……凌介も、食べてみれば?」

 照れ臭いのか、佳樹は視線を逸らしながら言った。照れ臭いのは凌介だって同じだ。だから意趣返しとばかりに今度は凌介のほうから味見をねだった。

「アーンってやってくださいよ」

 素直に頷いた目元はうっすら赤い。けっこう酔っているのかもしれない。だいたいそうでもなければ、いい大人がさっそくアイスをかきとって舌ったらずに「アーン」なんて言うはずない。そして気づけば凌介の口内も甘酸っぱいベリーソースで溢れていた。

「ん、あっま……いけど、美味いですね」

「もうひとくちいる?」

 その問いに答える代わりに凌介は大きく口を開いた。

「んっ」

「んむ……っはぁ……」

 はじめは赤と白のマーブル模様だった口内は、次第に色の境界もぼやけ、紅茶のベージュも加わればもう苺なんだかチーズなんだかわからない。乳臭くて、けれど甘いキスをふたりはカップの底が尽きるまで続けた。

「よし、じゃあ僕もシャワー浴びてきます」

「え……?」

「いや、変な意味じゃないから。ロフト狭いですけど先に布団入っててください」

 あっさり立ち上がった凌介を佳樹の呆けたまなざしが追いかけた。しかし佳樹の目はすぐに正気を取り戻し、くっついていた肩と肩が離れた。

「……ロフトの梯子、滑りやすいんで気をつけてくださいね」

「別に床でいいのに」

「それで風邪ひいたらフライト辛いですよ。あ、あと歯磨き、台所のシンクでしてもらっていいんで」

「あ、そうだった、歯磨き……」

 そう呟いて再びバックパックをガサゴソやりだした背中を尻目に、凌介は何事もなかったかのようにバスルームのガラス戸をひいた。

 でも、決して何事もなくはなかった。だってそうじゃなければキスだけでこんなに昂ぶるもんか。今にも悲鳴を上げそうな凌介の下肢に佳樹が気づいたかどうかはわからない。けれど凌介の見間違いでなければ佳樹のそこもわずかに兆していた。
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