35 / 352
3巻
3-3
しおりを挟む
「えー、グレスハート王国の人がそれ言う?」
んん? どういうこと?
「私おじい様から、グレスハート王国の王子が獣人を国に迎え入れ、従者にしたって聞いてたんだけど……違うの?」
首を傾げられて、俺は目をパチクリする。
それ……俺たちのことだよな?
急に自分たちの話題になって、言葉が出てこなかった。隣でカイルが、かろうじて頷く。
「違わないが……」
「じゃあ本当なんだ? おじい様とお父様がその話に感動してね。擁護宣言したのよ。他の国の王子が立ち上がったのに、獣人の恩恵を受けている自分たちが黙ってていいのかって」
「そんな……渡り聞いた話で、そう決めたと? 本当じゃなかったら……いや、本当だとしても、国を離れて後悔していないのか?」
カイルは信じられないという表情で、ライラを見つめた。ライラは少し考えるように唸る。
「確かに国を離れて寂しい気もするけど、うちの家族はスッキリしてるから、これでよかったと思うわ」
そう言って、カイルに微笑んだ。
アリスに視線を移すと、彼女は俺たちに向かって小さく頷く。
あぁ、そうか。ライラを俺たちに紹介したいって、こういうことだったのか。
他にも仲間はいる、と……。あの判断は間違っていなかった、と。
ヤバい……何だか堪えなければ泣いてしまいそうだ。
カイルも、きっとそうだよね……。
俺はチラリと隣のカイルを見る。
そして……驚愕した。
涙を堪えているせいか、カイルが顔を真っ赤にして震えていたのだ。
「っ!!」
「ちょっ、カイル?」
小さく声をかけ、慌ててカイルの背中をさする。
いっそのこと泣きなよっ! 無理しないでさ!
だが、カイルは目をガッと見開き震えるばかりだ。
ねぇ、息吸ってる? 堪えるために息止めてるんじゃないの? 瞼くらい閉じたらいいのにっ!
「え、何? 怒ってるの?」
ライラに訝しげに見られて、俺はカイルの代わりにブンブンと頭を振る。
「違う違う! ライラの家の話に感動してるんだよ。ね? カイル」
俺の問いかけに、カイルは息を詰めたまま頷いた。ますます顔が赤くなっている。
ねぇっ! 死ぬよっ!?
「変わった感動の仕方するのね……」
ライラは呆気にとられて、ポカンとしていた。うん。そうなるよね。
俺もカイルと気持ちを分かち合おうと思ったんだけど、カイルの様子にビックリしていたら置いてけぼりになった。
カイルの喜びだけは、誰よりもわかったけどね。
2
本日は選択教科の一つである、調理の初授業だ。
学年の女子の大半が受講するためか、調理室はとても広い。六人用の大きな机が十台並んでも余りある広さだ。
さらに隣の部屋にはかまど用の部屋があり、そこには十基のかまどが設置されていた。
城の厨房にも、大小様々なかまどがあったのを思い出す。
学校の授業では一度に使用することになるから、これだけの数が必要なのだろう。
今回の受講人数は女子三十五人と、男子十二人で計四十七人。おおよそ六人ずつ、八グループに分かれることになった。
グループを組む相手は自由でいいらしく、俺とカイルとアリスとライラの他に、近くにいたオルガという女子とターブという男子に入ってもらった。
「こんなに男子が少ないとは思いませんでした」
カイルが教室を見回し、俺はそれに頷いた。
「うん。そうだね」
「やはり男子は調理が苦手だからでしょうか?」
首を傾げるカイルに、アリスが笑う。
「これでも多いほうよ、多分。去年は数人しかいなかったって聞いたもの」
そうなのか。作るのは面倒だけど、美味しいものを食べられるんだから、男子にだってお得だと思うんだが……。
すると調理の先生がパンパンと手を叩いて、注目を促した。教卓の前にいる男の先生を見る。
「はぁい、グループができたわね! では、改めて自己紹介しまぁす! 調理担当のスティーブ・ゲッテンバーです。皆、よろしくね!」
うふふと笑うゲッテンバー先生は、ボディビルダー並みのマッスルボディだった。
短髪の赤毛で、外は寒いにもかかわらずピチピチのTシャツ。その上にはピンク色の、フリルたっぷりのエプロンをつけている。
「今年は男子生徒が多くて、先生とーっても嬉しいです!」
ゲッテンバー先生がそう言ってカイルにウィンクすると、カイルはゾクリと肩を震わせた。
どうやら、カイルは気に入られたらしい。
仕草や口調からして、心は乙女なのかもしれない。キャラ……濃いなぁ。
「さて、今日は比較的簡単な焼き菓子を作りますよぉ」
黒板には焼き菓子のレシピが、絵つきで書かれている。
絵が可愛ければ、文字さえも可愛い。これを書いたのゲッテンバー先生なんだろうなぁ……。
材料と工程を見ると、この焼き菓子のレシピはクッキーか。確かにこれだったら、混ぜて形を作って焼くだけなので、わりと簡単だろう。
グレスハートの街の子も、親子でお菓子を作ると言ったらクッキーが定番だった気がする。
すると何人かの生徒から、不安そうなざわめきが聞こえた。
不思議に思った俺に、ライラがそっと耳打ちする。
「平民の子は料理したことある子が多いけど、上流階級だと全くやったことないって子もいるのよ」
なるほど。平民の子は母親の手伝いをするものの、コックのいる家だとそもそも厨房にすら入らないか。
「ライラはできるの?」
ふと気になって聞いてみた。ライラだって、元お嬢様なのだ。私財はあるのだから、今もコックが家にいるかもしれない。
ライラは「失礼ねぇ」と口を少し尖らせる。
「壊滅的な誰かさんと一緒にしないでよ。多少はできるわ。得意ではないけど。だから困ったらよろしく!」
真面目な顔でお願いするライラに、笑いながら頷く。
ゲッテンバー先生が、再び手を叩いた。
「初めてでも大丈夫よ。材料は用意してあるもの。バターを柔らかくして、砂糖を入れて白くなるまで練って、卵を入れて、粉を少しずつ加えながら優しく混ぜるだけ。簡単でしょ?」
黒板のレシピを、工程ごとに指しながら説明していく。黒板の上の方を示すと、先生のマッスルな腕の筋肉がよく見えた。
うわぁ、すごい筋肉だなぁ。筋肉第一主義のヒューバート兄さんが見たら、感動しそうだ。
「生地を寝かせるのに半刻ほどかかるので、生地がまとまったらお茶でもして待ちましょ」
ゲッテンバー先生はそう言うと、口に手を当てて「うふふ」と笑う。
「ではグループごとに、ここに書かれた順番で仲良く進めてちょうだい。わからなくて困ったら先生を呼んでくださいね。はじめ~!」
先生の言葉で生徒のざわめきと、調理器具の音がし始める。
「作業は分担してやる? ボウルは一つだけだし」
アリスの言葉に、俺は頷いた。
「そうだね。工程ごとに交代して、形を作るのは皆でやろう」
そう言って、器具を並べながら順番を決める。
初めにカイルがバターをクリーム状になるまで練り、それが終わったら俺が砂糖を混ぜる係だ。
俺はカイルを待っている間、砂糖を見つめて唸った。
混ぜる砂糖は細かいほうが馴染むんだよな。ここの砂糖は、ちょっと粗めだ。ザラメほどではないが、日本の上白糖より少し粒が大きい。
「先生、すり鉢ってありますか?」
先生のところまで行って質問すると、ゲッテンバー先生が頬に手を当てて首を傾げた。
「あらフィル君。あるけど、何に使うの?」
「砂糖を細かくします。バターと馴染みやすくなるので」
そう説明すると、ゲッテンバー先生は目を大きく見開いた。
「あら、初めて聞いたわ! それはフィル君のお家の技なのかしら? いいわ、できたら食べさせてちょうだいね」
「はーい」
俺はすり鉢を借りると、砂糖を細かくし始めた。
周りの生徒が、不思議そうに見ている。ライラも俺の作業を覗いて、訝しげに聞いた。
「何やってるの? そんな工程なかったけど……」
「バターと馴染むんだよ、細かいほうが」
同じ班のオルガも、感心してか「へぇ」と呟いた。
「バター、終わりました」
カイルの言葉に、ちょうど砂糖を細かくし終えた俺は元気に返事をする。
「はいはーい」
すり鉢の砂糖をサラサラと入れて、白くなるまで手早く混ぜた。
「はい、次ライラ」
「ちょっとフィル君! 早すぎるわよ! 何なのっ! 料理人なの?」
ライラはと言えば、中に入れる卵をようやく一個割ったところだった。
……卵を割るのに、どんだけ時間かかってるの。
とりあえず俺の担当は終わったため、生地ができるまでライラたちを見守ることにする。
暇になったので、同じ班のもう一人の男子、ターブ・レストンに声をかけた。ターブの担当は、寝かせた後の生地伸ばしだから、順番はまだ先だ。
「ターブだっけ? ちゃんと話すの初めてだよね」
にっこりと笑うと、ターブはぎこちなく頷く。
「あ、うん」
だがそのままターブは黙り込み、沈黙が訪れた。何故か俺の目を見ようとしない。
俺は首を捻る。
俺、ターブに何かしただろうか?
……ん? ターブ?
「あれ、君、もしかして……」
俺がそう言うと、ターブの肩がギクリと揺れる。
「知り合いですか?」
カイルが、チラッとターブを見る。彼の様子に、カイルも違和感を覚えたようだ。
「いや、僕の知り合いじゃなくて、レイの知り合いだよね?」
思い出した。どっかで聞いた名前だなと引っかかってたんだ。
レイの元カノの弟。レイの話じゃ、シスコンだとか……。
お姉さんは女の子好きのレイに愛想を尽かしたが、シスコン・ターブの恨みは消えていない。
歓迎会の時、ターブがマクベアー先輩の対戦相手としてレイを推薦し、結局、レイだけじゃなく俺やカイル、トーマまで試合をすることになったんだよなぁ。
わかってスッキリした。カイルも言われて思い出したのか、「ああ」と声を漏らす。
ターブは大きなため息を吐き、深々と頭を下げた。
「あの時はすまなかった。正直、レイにまだ恨みはあるが、君たちを巻き込むつもりはなかったんだ」
反省してか俯いたままのターブの肩を、俺は慌ててポンポンと叩き、こちらに向き直らせる。
「ま、まぁ、結果的に問題なかったし」
だから歓迎会の時のことは黙ってて、と目で語り、「シーッ」と口に人差し指を立てた。
「あの時って……何かあったの?」
アリスは担当の粉を混ぜる作業を終えたらしく、俺の隣に来て小首を傾げた。
「な、何もないよ」
俺はへらっと笑う。アリスは俺をじっと見た後、苦笑して頷いた。
「わかったわ。もう生地ができたからお茶にしましょう」
明らかに俺の言葉を信じてないなぁ。
「ごめん……」
口を滑らせた、としょんぼりするターブに、俺はにこりと微笑む。
「とりあえずお茶にしよう。同じ班の仲間としてね」
生地を寝かせている間、俺たちはティータイムをとることにした。授業中にまったりとお茶が飲めるのは、何だか得した気分だ。
惜しむらくは、あまりに手早く作業を終えたせいで、まだ終わっていない他のグループの作業音やざわめきが聞こえることか。
「カイル君とフィル君のおかげで、早くできちゃったわ。手際いいのね」
オルガはお茶を飲んで一息つくと、そう言った。
アッシュブラウンの髪を三つ編みにしている彼女は、少し早口で喋るのが特徴的だ。
「好きなんだ、料理」
城でも前世の食べ物恋しさに、いろいろ作ったりしてたしなぁ。
レシピがわかっていても、この世界で再現するのって意外と難しいんだ。
何せこちらは、お店に行けば何でも食材が揃う日本ではない。作りたいのに、必要な食材がない場合もある。
そういう時は、見た目は違っても味が同じもの、味や特徴が似ていて代用になりそうなものを探して、活用するしかなかった。
「実家じゃ、カイルも巻き込んでやってたよ」
初めは料理長と一緒に試行錯誤していたんだけど、料理長は忙しいのでカイルとやるようになったんだ。
俺が、「ね」とカイルを見ると、彼ははにかんで頷いた。
「そうですね。それで鍛えられました」
その言葉に、皆が「へぇ」と驚く。
カイルは、もともと料理ができたわけじゃない。
食べ物は、腐ってなくて食べられれば充分。魚や肉は、焼いて塩を振れば充分。
そんな感じだったから、グルメに対して貪欲な俺に、初めは全然理解を示してくれなかったもんなぁ。
こっちの世界の料理だって、素朴で美味しいけどさ。色んな味を知っちゃってるとなぁ。無性に食べたくなるんだよね。
俺は日本での食事に思いを馳せながら、ハーブティーを一口飲む。
すると、どこからか「フーフー」と息を吹く音が聞こえてきた。
ターブが紅茶を一生懸命冷ましているようだ。そんなに猫舌なのか……。
強く吹くからか、そのたびにカールのかかった金髪が、ふわふわと持ち上がっていた。
……何だか俺の召喚獣の光鶏、コハクを思い出す。
「そう言えば、ターブは何で調理を選んだの? 料理とか得意なの?」
調理を選択する男子は少ないから、ちょっと気になる。
冷めたお茶にようやく口をつけたターブは、にっこりと微笑んだ。今までしょんぼりした顔ばかりだったので、初めて明るい表情を見たかもしれない。
「得意ではないんだけど、姉さんが可愛いお菓子好きだからさ」
そう言ってにこにこと笑う。
「お姉さんにあげるの? 素敵ね」
アリスが褒めると、ターブは少し照れた。
「ゲッテンバー先生に習うと、可愛いお菓子や料理を作れるようになるらしいんだ」
お姉さんにあげるために、得意でない調理を選択するとは……健気すぎるっ!
俺はこみ上げてくる気持ちを抑え、口元を手で覆った。
そんなにお姉さんのこと好きなんだなぁ。
すると「あれ?」とライラが首を傾げた。
「お姉さん確か、一学年上よね? 二年にもゲッテンバー先生の授業があるじゃない。あげちゃったら、お姉さんがいっぱい食べることにならない?」
その質問に、ターブは顔を曇らせる。
「姉さん、調理の授業は取ってないんだ。才能がなくて……。一年の時に受けて、単位取れなかったから……」
お姉さんも、レイと一緒で壊滅的なのか……。元カップルの、意外な共通点。
つか調理で単位取れないって、何をやらかしたんだろう。ゲッテンバー先生は、単位に関してわりと甘いって聞くのに。
しかし、それは追及してはいけない気がした。
「そ……そっか! じゃあ、そろそろ作業再開しよう。美味しくて可愛いクッキー作ってあげないとね?」
俺が微笑むと、ターブはこっくりと頷いた。
ターブが寝かせた生地を薄く伸ばす。それを六等分にして、個別に成形することにした。
ゲッテンバー先生の授業では、型抜きで成形するようだ。型はいくつかあって、それを使って生地をくり抜いていく。
動物や花、ハート型なんかもあった。ハートはこちらでも可愛いものの象徴なんだな。
ゲッテンバー先生曰く、型抜きした後、楊枝で可愛い顔を描いてあげるのがオススメとのことだった。
これなら可愛いクッキーになるし、ターブのお姉さんも気に入るだろう。
「ゲッテンバー先生、できました」
型抜きして天板に載せたクッキーを、かまどの部屋に持っていく。
「あら、早いわね。それに可愛くできてるわ! じゃあ、表面が乾く前に焼きましょう」
かまどは煮炊きができるような形と、ピザ窯のような形が横並びになっているタイプだった。今回はオーブンとして使いたいので、窯側を使用する。
「先生が薪を燃やして熱くしておいたから、あとは入れるだけよ。火傷しないようにね」
ゲッテンバー先生が窯の扉を開けると、熱風が吹き出した。
火はもう小さかったが、窯の中はだいぶ熱い。
炭の燃える朱色が煌々と中を照らしていて、その美しさに見入ってしまいそうだ。
ん? あれは……。
中では火の妖精二匹が、手をつないで踊っていた。とても楽しそうで、思わず笑みがこぼれる。
クッキーの並んだ天板を差し入れると、火の妖精たちは端に寄りながら興味ありげに見ていた。
【あ! 何か入ってきた!】
【きたね!】
【燃やしていいかな?】
【いいね!】
妖精たちがそう言うと、だんだん小さい火が揺らめきだす。
ちょ! ダメダメ!!
「クッキー燃やしちゃ駄目だからねっ!」
思わず出てしまった声に、俺は慌てて口を押さえ、ゆっくり振り返る。
やってしまった。これでは窯に話しかける不思議ちゃんだ。
皆、聞いてたり……する?
おそるおそる周りの反応を窺う。
オルガたちやゲッテンバー先生、それに近くにいた他の班の子たちは、俺を見つめ目を瞬かせていた。
聞かれてたっ! 聞き逃してくれていたらと思ったのにっ!
しかし、皆はそんな俺からバッと顔を逸らすと、何かを堪えているかのように震えだした。
ん……? どうした? 笑ってんのか?
笑うならいっそのこと、もっと大きく笑い飛ばして欲しい。
皆の様子に首を傾げていると、ゲッテンバー先生がいきなり俺を持ち上げて抱きしめた。
「うわっ!」
「フィル君たらっ、何て可愛いのっっ!」
はいぃぃ? 何言ってるの突然。
そう思ったけれど、ゲッテンバー先生が締め上げるのでそれどころではなくなった。
「先生……苦しい。胸板が厚い……」
俺がギブアップだとパシパシ腕を叩くと、先生は慌てて腕の力を緩めてくれた。
「あら、ごめんなさい! 愛しい衝動を抑えきれなくて!」
おほほと笑いながら、そっと床に下ろしてくれる。
抑えてよ先生……。
「だってフィル君たら、『燃やしちゃ駄目だからね!』なんて可愛いこと言うんですもの」
ゲッテンバー先生の言葉に、皆がうんうんと大きく頷く。
「フィル君ってしっかりしているけど、私たちより年下なんだもんねぇ」
ライラは腕組みしながら、しみじみと呟く。頭を撫でたいと言わんばかりの表情をしていた。
つまり……幼い子の戯言と受け取ってくれたのか?
不思議ちゃんだと思われなかったのはいいけど……。可愛いお子ちゃま扱いにショックを受ける。
俺、死んだ年齢に現世の歳をプラスにしたらアラサーなのにっ!
そんな風に落ち込む俺の肩を、カイルがポンと叩いた。
理由はわかってますから、という顔だ。
「…………ありがと」
焼き上がるまでは、それから十五分ほどかかった。クッキーの焼けるいい香りに包まれ、俺のショックは和らいでいく。俺も相当単純だ。
クッキーを取り出すために扉を再び開けると、火の妖精たちがトテトテと窯から出てきた。そして、えっへんというようにお腹を突き出す。
【燃やしてないよ!】
【ないね!】
「ありがとね」
俺はこっそりお礼を言う。俺が微笑むと、火の妖精はますますお腹を突き出した。
ゲッテンバー先生にクッキーの天板を出してもらい、焼き上がりを見る。
「美味しそうにできたわね」
アリスの言葉に俺は頷く。窯で焼くのは難しいのだが、火の妖精のおかげか焦げることもなく上手に焼けている。
しかし、天板を覗き込んだターブは情けない顔で叫んだ。
「あぁぁっ!!」
「ど、どうしたの?」
ターブの視線の先を見る。その辺りは確か、ターブが成形した範囲だ。
「あ……」
オルガが声を漏らす。一番大きなハートのクッキーに、少しだけ亀裂が入っていた。
大きくしたいと分厚めにしていたから、焼く時に膨張して割れちゃったのか。
「あらぁ、ひびが入っちゃったわね」
ゲッテンバー先生の言葉を聞いて、ターブはしょんぼりと肩を落とす。
「小さいのもあるじゃない。これをお姉さんにあげればいいのよ」
ライラは明るい声で、ターブの背中を叩く。ゲッテンバー先生も、ターブの頭を撫でて慰めた。
「料理は愛情なんだからっ! 見た目じゃないのよっ!」
「はい……」
ターブは頷くが、気持ちは落ちきってしまったようだ。
随分と張り切っていたからなぁ。
んん? どういうこと?
「私おじい様から、グレスハート王国の王子が獣人を国に迎え入れ、従者にしたって聞いてたんだけど……違うの?」
首を傾げられて、俺は目をパチクリする。
それ……俺たちのことだよな?
急に自分たちの話題になって、言葉が出てこなかった。隣でカイルが、かろうじて頷く。
「違わないが……」
「じゃあ本当なんだ? おじい様とお父様がその話に感動してね。擁護宣言したのよ。他の国の王子が立ち上がったのに、獣人の恩恵を受けている自分たちが黙ってていいのかって」
「そんな……渡り聞いた話で、そう決めたと? 本当じゃなかったら……いや、本当だとしても、国を離れて後悔していないのか?」
カイルは信じられないという表情で、ライラを見つめた。ライラは少し考えるように唸る。
「確かに国を離れて寂しい気もするけど、うちの家族はスッキリしてるから、これでよかったと思うわ」
そう言って、カイルに微笑んだ。
アリスに視線を移すと、彼女は俺たちに向かって小さく頷く。
あぁ、そうか。ライラを俺たちに紹介したいって、こういうことだったのか。
他にも仲間はいる、と……。あの判断は間違っていなかった、と。
ヤバい……何だか堪えなければ泣いてしまいそうだ。
カイルも、きっとそうだよね……。
俺はチラリと隣のカイルを見る。
そして……驚愕した。
涙を堪えているせいか、カイルが顔を真っ赤にして震えていたのだ。
「っ!!」
「ちょっ、カイル?」
小さく声をかけ、慌ててカイルの背中をさする。
いっそのこと泣きなよっ! 無理しないでさ!
だが、カイルは目をガッと見開き震えるばかりだ。
ねぇ、息吸ってる? 堪えるために息止めてるんじゃないの? 瞼くらい閉じたらいいのにっ!
「え、何? 怒ってるの?」
ライラに訝しげに見られて、俺はカイルの代わりにブンブンと頭を振る。
「違う違う! ライラの家の話に感動してるんだよ。ね? カイル」
俺の問いかけに、カイルは息を詰めたまま頷いた。ますます顔が赤くなっている。
ねぇっ! 死ぬよっ!?
「変わった感動の仕方するのね……」
ライラは呆気にとられて、ポカンとしていた。うん。そうなるよね。
俺もカイルと気持ちを分かち合おうと思ったんだけど、カイルの様子にビックリしていたら置いてけぼりになった。
カイルの喜びだけは、誰よりもわかったけどね。
2
本日は選択教科の一つである、調理の初授業だ。
学年の女子の大半が受講するためか、調理室はとても広い。六人用の大きな机が十台並んでも余りある広さだ。
さらに隣の部屋にはかまど用の部屋があり、そこには十基のかまどが設置されていた。
城の厨房にも、大小様々なかまどがあったのを思い出す。
学校の授業では一度に使用することになるから、これだけの数が必要なのだろう。
今回の受講人数は女子三十五人と、男子十二人で計四十七人。おおよそ六人ずつ、八グループに分かれることになった。
グループを組む相手は自由でいいらしく、俺とカイルとアリスとライラの他に、近くにいたオルガという女子とターブという男子に入ってもらった。
「こんなに男子が少ないとは思いませんでした」
カイルが教室を見回し、俺はそれに頷いた。
「うん。そうだね」
「やはり男子は調理が苦手だからでしょうか?」
首を傾げるカイルに、アリスが笑う。
「これでも多いほうよ、多分。去年は数人しかいなかったって聞いたもの」
そうなのか。作るのは面倒だけど、美味しいものを食べられるんだから、男子にだってお得だと思うんだが……。
すると調理の先生がパンパンと手を叩いて、注目を促した。教卓の前にいる男の先生を見る。
「はぁい、グループができたわね! では、改めて自己紹介しまぁす! 調理担当のスティーブ・ゲッテンバーです。皆、よろしくね!」
うふふと笑うゲッテンバー先生は、ボディビルダー並みのマッスルボディだった。
短髪の赤毛で、外は寒いにもかかわらずピチピチのTシャツ。その上にはピンク色の、フリルたっぷりのエプロンをつけている。
「今年は男子生徒が多くて、先生とーっても嬉しいです!」
ゲッテンバー先生がそう言ってカイルにウィンクすると、カイルはゾクリと肩を震わせた。
どうやら、カイルは気に入られたらしい。
仕草や口調からして、心は乙女なのかもしれない。キャラ……濃いなぁ。
「さて、今日は比較的簡単な焼き菓子を作りますよぉ」
黒板には焼き菓子のレシピが、絵つきで書かれている。
絵が可愛ければ、文字さえも可愛い。これを書いたのゲッテンバー先生なんだろうなぁ……。
材料と工程を見ると、この焼き菓子のレシピはクッキーか。確かにこれだったら、混ぜて形を作って焼くだけなので、わりと簡単だろう。
グレスハートの街の子も、親子でお菓子を作ると言ったらクッキーが定番だった気がする。
すると何人かの生徒から、不安そうなざわめきが聞こえた。
不思議に思った俺に、ライラがそっと耳打ちする。
「平民の子は料理したことある子が多いけど、上流階級だと全くやったことないって子もいるのよ」
なるほど。平民の子は母親の手伝いをするものの、コックのいる家だとそもそも厨房にすら入らないか。
「ライラはできるの?」
ふと気になって聞いてみた。ライラだって、元お嬢様なのだ。私財はあるのだから、今もコックが家にいるかもしれない。
ライラは「失礼ねぇ」と口を少し尖らせる。
「壊滅的な誰かさんと一緒にしないでよ。多少はできるわ。得意ではないけど。だから困ったらよろしく!」
真面目な顔でお願いするライラに、笑いながら頷く。
ゲッテンバー先生が、再び手を叩いた。
「初めてでも大丈夫よ。材料は用意してあるもの。バターを柔らかくして、砂糖を入れて白くなるまで練って、卵を入れて、粉を少しずつ加えながら優しく混ぜるだけ。簡単でしょ?」
黒板のレシピを、工程ごとに指しながら説明していく。黒板の上の方を示すと、先生のマッスルな腕の筋肉がよく見えた。
うわぁ、すごい筋肉だなぁ。筋肉第一主義のヒューバート兄さんが見たら、感動しそうだ。
「生地を寝かせるのに半刻ほどかかるので、生地がまとまったらお茶でもして待ちましょ」
ゲッテンバー先生はそう言うと、口に手を当てて「うふふ」と笑う。
「ではグループごとに、ここに書かれた順番で仲良く進めてちょうだい。わからなくて困ったら先生を呼んでくださいね。はじめ~!」
先生の言葉で生徒のざわめきと、調理器具の音がし始める。
「作業は分担してやる? ボウルは一つだけだし」
アリスの言葉に、俺は頷いた。
「そうだね。工程ごとに交代して、形を作るのは皆でやろう」
そう言って、器具を並べながら順番を決める。
初めにカイルがバターをクリーム状になるまで練り、それが終わったら俺が砂糖を混ぜる係だ。
俺はカイルを待っている間、砂糖を見つめて唸った。
混ぜる砂糖は細かいほうが馴染むんだよな。ここの砂糖は、ちょっと粗めだ。ザラメほどではないが、日本の上白糖より少し粒が大きい。
「先生、すり鉢ってありますか?」
先生のところまで行って質問すると、ゲッテンバー先生が頬に手を当てて首を傾げた。
「あらフィル君。あるけど、何に使うの?」
「砂糖を細かくします。バターと馴染みやすくなるので」
そう説明すると、ゲッテンバー先生は目を大きく見開いた。
「あら、初めて聞いたわ! それはフィル君のお家の技なのかしら? いいわ、できたら食べさせてちょうだいね」
「はーい」
俺はすり鉢を借りると、砂糖を細かくし始めた。
周りの生徒が、不思議そうに見ている。ライラも俺の作業を覗いて、訝しげに聞いた。
「何やってるの? そんな工程なかったけど……」
「バターと馴染むんだよ、細かいほうが」
同じ班のオルガも、感心してか「へぇ」と呟いた。
「バター、終わりました」
カイルの言葉に、ちょうど砂糖を細かくし終えた俺は元気に返事をする。
「はいはーい」
すり鉢の砂糖をサラサラと入れて、白くなるまで手早く混ぜた。
「はい、次ライラ」
「ちょっとフィル君! 早すぎるわよ! 何なのっ! 料理人なの?」
ライラはと言えば、中に入れる卵をようやく一個割ったところだった。
……卵を割るのに、どんだけ時間かかってるの。
とりあえず俺の担当は終わったため、生地ができるまでライラたちを見守ることにする。
暇になったので、同じ班のもう一人の男子、ターブ・レストンに声をかけた。ターブの担当は、寝かせた後の生地伸ばしだから、順番はまだ先だ。
「ターブだっけ? ちゃんと話すの初めてだよね」
にっこりと笑うと、ターブはぎこちなく頷く。
「あ、うん」
だがそのままターブは黙り込み、沈黙が訪れた。何故か俺の目を見ようとしない。
俺は首を捻る。
俺、ターブに何かしただろうか?
……ん? ターブ?
「あれ、君、もしかして……」
俺がそう言うと、ターブの肩がギクリと揺れる。
「知り合いですか?」
カイルが、チラッとターブを見る。彼の様子に、カイルも違和感を覚えたようだ。
「いや、僕の知り合いじゃなくて、レイの知り合いだよね?」
思い出した。どっかで聞いた名前だなと引っかかってたんだ。
レイの元カノの弟。レイの話じゃ、シスコンだとか……。
お姉さんは女の子好きのレイに愛想を尽かしたが、シスコン・ターブの恨みは消えていない。
歓迎会の時、ターブがマクベアー先輩の対戦相手としてレイを推薦し、結局、レイだけじゃなく俺やカイル、トーマまで試合をすることになったんだよなぁ。
わかってスッキリした。カイルも言われて思い出したのか、「ああ」と声を漏らす。
ターブは大きなため息を吐き、深々と頭を下げた。
「あの時はすまなかった。正直、レイにまだ恨みはあるが、君たちを巻き込むつもりはなかったんだ」
反省してか俯いたままのターブの肩を、俺は慌ててポンポンと叩き、こちらに向き直らせる。
「ま、まぁ、結果的に問題なかったし」
だから歓迎会の時のことは黙ってて、と目で語り、「シーッ」と口に人差し指を立てた。
「あの時って……何かあったの?」
アリスは担当の粉を混ぜる作業を終えたらしく、俺の隣に来て小首を傾げた。
「な、何もないよ」
俺はへらっと笑う。アリスは俺をじっと見た後、苦笑して頷いた。
「わかったわ。もう生地ができたからお茶にしましょう」
明らかに俺の言葉を信じてないなぁ。
「ごめん……」
口を滑らせた、としょんぼりするターブに、俺はにこりと微笑む。
「とりあえずお茶にしよう。同じ班の仲間としてね」
生地を寝かせている間、俺たちはティータイムをとることにした。授業中にまったりとお茶が飲めるのは、何だか得した気分だ。
惜しむらくは、あまりに手早く作業を終えたせいで、まだ終わっていない他のグループの作業音やざわめきが聞こえることか。
「カイル君とフィル君のおかげで、早くできちゃったわ。手際いいのね」
オルガはお茶を飲んで一息つくと、そう言った。
アッシュブラウンの髪を三つ編みにしている彼女は、少し早口で喋るのが特徴的だ。
「好きなんだ、料理」
城でも前世の食べ物恋しさに、いろいろ作ったりしてたしなぁ。
レシピがわかっていても、この世界で再現するのって意外と難しいんだ。
何せこちらは、お店に行けば何でも食材が揃う日本ではない。作りたいのに、必要な食材がない場合もある。
そういう時は、見た目は違っても味が同じもの、味や特徴が似ていて代用になりそうなものを探して、活用するしかなかった。
「実家じゃ、カイルも巻き込んでやってたよ」
初めは料理長と一緒に試行錯誤していたんだけど、料理長は忙しいのでカイルとやるようになったんだ。
俺が、「ね」とカイルを見ると、彼ははにかんで頷いた。
「そうですね。それで鍛えられました」
その言葉に、皆が「へぇ」と驚く。
カイルは、もともと料理ができたわけじゃない。
食べ物は、腐ってなくて食べられれば充分。魚や肉は、焼いて塩を振れば充分。
そんな感じだったから、グルメに対して貪欲な俺に、初めは全然理解を示してくれなかったもんなぁ。
こっちの世界の料理だって、素朴で美味しいけどさ。色んな味を知っちゃってるとなぁ。無性に食べたくなるんだよね。
俺は日本での食事に思いを馳せながら、ハーブティーを一口飲む。
すると、どこからか「フーフー」と息を吹く音が聞こえてきた。
ターブが紅茶を一生懸命冷ましているようだ。そんなに猫舌なのか……。
強く吹くからか、そのたびにカールのかかった金髪が、ふわふわと持ち上がっていた。
……何だか俺の召喚獣の光鶏、コハクを思い出す。
「そう言えば、ターブは何で調理を選んだの? 料理とか得意なの?」
調理を選択する男子は少ないから、ちょっと気になる。
冷めたお茶にようやく口をつけたターブは、にっこりと微笑んだ。今までしょんぼりした顔ばかりだったので、初めて明るい表情を見たかもしれない。
「得意ではないんだけど、姉さんが可愛いお菓子好きだからさ」
そう言ってにこにこと笑う。
「お姉さんにあげるの? 素敵ね」
アリスが褒めると、ターブは少し照れた。
「ゲッテンバー先生に習うと、可愛いお菓子や料理を作れるようになるらしいんだ」
お姉さんにあげるために、得意でない調理を選択するとは……健気すぎるっ!
俺はこみ上げてくる気持ちを抑え、口元を手で覆った。
そんなにお姉さんのこと好きなんだなぁ。
すると「あれ?」とライラが首を傾げた。
「お姉さん確か、一学年上よね? 二年にもゲッテンバー先生の授業があるじゃない。あげちゃったら、お姉さんがいっぱい食べることにならない?」
その質問に、ターブは顔を曇らせる。
「姉さん、調理の授業は取ってないんだ。才能がなくて……。一年の時に受けて、単位取れなかったから……」
お姉さんも、レイと一緒で壊滅的なのか……。元カップルの、意外な共通点。
つか調理で単位取れないって、何をやらかしたんだろう。ゲッテンバー先生は、単位に関してわりと甘いって聞くのに。
しかし、それは追及してはいけない気がした。
「そ……そっか! じゃあ、そろそろ作業再開しよう。美味しくて可愛いクッキー作ってあげないとね?」
俺が微笑むと、ターブはこっくりと頷いた。
ターブが寝かせた生地を薄く伸ばす。それを六等分にして、個別に成形することにした。
ゲッテンバー先生の授業では、型抜きで成形するようだ。型はいくつかあって、それを使って生地をくり抜いていく。
動物や花、ハート型なんかもあった。ハートはこちらでも可愛いものの象徴なんだな。
ゲッテンバー先生曰く、型抜きした後、楊枝で可愛い顔を描いてあげるのがオススメとのことだった。
これなら可愛いクッキーになるし、ターブのお姉さんも気に入るだろう。
「ゲッテンバー先生、できました」
型抜きして天板に載せたクッキーを、かまどの部屋に持っていく。
「あら、早いわね。それに可愛くできてるわ! じゃあ、表面が乾く前に焼きましょう」
かまどは煮炊きができるような形と、ピザ窯のような形が横並びになっているタイプだった。今回はオーブンとして使いたいので、窯側を使用する。
「先生が薪を燃やして熱くしておいたから、あとは入れるだけよ。火傷しないようにね」
ゲッテンバー先生が窯の扉を開けると、熱風が吹き出した。
火はもう小さかったが、窯の中はだいぶ熱い。
炭の燃える朱色が煌々と中を照らしていて、その美しさに見入ってしまいそうだ。
ん? あれは……。
中では火の妖精二匹が、手をつないで踊っていた。とても楽しそうで、思わず笑みがこぼれる。
クッキーの並んだ天板を差し入れると、火の妖精たちは端に寄りながら興味ありげに見ていた。
【あ! 何か入ってきた!】
【きたね!】
【燃やしていいかな?】
【いいね!】
妖精たちがそう言うと、だんだん小さい火が揺らめきだす。
ちょ! ダメダメ!!
「クッキー燃やしちゃ駄目だからねっ!」
思わず出てしまった声に、俺は慌てて口を押さえ、ゆっくり振り返る。
やってしまった。これでは窯に話しかける不思議ちゃんだ。
皆、聞いてたり……する?
おそるおそる周りの反応を窺う。
オルガたちやゲッテンバー先生、それに近くにいた他の班の子たちは、俺を見つめ目を瞬かせていた。
聞かれてたっ! 聞き逃してくれていたらと思ったのにっ!
しかし、皆はそんな俺からバッと顔を逸らすと、何かを堪えているかのように震えだした。
ん……? どうした? 笑ってんのか?
笑うならいっそのこと、もっと大きく笑い飛ばして欲しい。
皆の様子に首を傾げていると、ゲッテンバー先生がいきなり俺を持ち上げて抱きしめた。
「うわっ!」
「フィル君たらっ、何て可愛いのっっ!」
はいぃぃ? 何言ってるの突然。
そう思ったけれど、ゲッテンバー先生が締め上げるのでそれどころではなくなった。
「先生……苦しい。胸板が厚い……」
俺がギブアップだとパシパシ腕を叩くと、先生は慌てて腕の力を緩めてくれた。
「あら、ごめんなさい! 愛しい衝動を抑えきれなくて!」
おほほと笑いながら、そっと床に下ろしてくれる。
抑えてよ先生……。
「だってフィル君たら、『燃やしちゃ駄目だからね!』なんて可愛いこと言うんですもの」
ゲッテンバー先生の言葉に、皆がうんうんと大きく頷く。
「フィル君ってしっかりしているけど、私たちより年下なんだもんねぇ」
ライラは腕組みしながら、しみじみと呟く。頭を撫でたいと言わんばかりの表情をしていた。
つまり……幼い子の戯言と受け取ってくれたのか?
不思議ちゃんだと思われなかったのはいいけど……。可愛いお子ちゃま扱いにショックを受ける。
俺、死んだ年齢に現世の歳をプラスにしたらアラサーなのにっ!
そんな風に落ち込む俺の肩を、カイルがポンと叩いた。
理由はわかってますから、という顔だ。
「…………ありがと」
焼き上がるまでは、それから十五分ほどかかった。クッキーの焼けるいい香りに包まれ、俺のショックは和らいでいく。俺も相当単純だ。
クッキーを取り出すために扉を再び開けると、火の妖精たちがトテトテと窯から出てきた。そして、えっへんというようにお腹を突き出す。
【燃やしてないよ!】
【ないね!】
「ありがとね」
俺はこっそりお礼を言う。俺が微笑むと、火の妖精はますますお腹を突き出した。
ゲッテンバー先生にクッキーの天板を出してもらい、焼き上がりを見る。
「美味しそうにできたわね」
アリスの言葉に俺は頷く。窯で焼くのは難しいのだが、火の妖精のおかげか焦げることもなく上手に焼けている。
しかし、天板を覗き込んだターブは情けない顔で叫んだ。
「あぁぁっ!!」
「ど、どうしたの?」
ターブの視線の先を見る。その辺りは確か、ターブが成形した範囲だ。
「あ……」
オルガが声を漏らす。一番大きなハートのクッキーに、少しだけ亀裂が入っていた。
大きくしたいと分厚めにしていたから、焼く時に膨張して割れちゃったのか。
「あらぁ、ひびが入っちゃったわね」
ゲッテンバー先生の言葉を聞いて、ターブはしょんぼりと肩を落とす。
「小さいのもあるじゃない。これをお姉さんにあげればいいのよ」
ライラは明るい声で、ターブの背中を叩く。ゲッテンバー先生も、ターブの頭を撫でて慰めた。
「料理は愛情なんだからっ! 見た目じゃないのよっ!」
「はい……」
ターブは頷くが、気持ちは落ちきってしまったようだ。
随分と張り切っていたからなぁ。
298
お気に入りに追加
29,379
あなたにおすすめの小説

てめぇの所為だよ
章槻雅希
ファンタジー
王太子ウルリコは政略によって結ばれた婚約が気に食わなかった。それを隠そうともせずに臨んだ婚約者エウフェミアとの茶会で彼は自分ばかりが貧乏くじを引いたと彼女を責める。しかし、見事に返り討ちに遭うのだった。
『小説家になろう』様・『アルファポリス』様の重複投稿、自サイトにも掲載。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました
ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

押し付けられた仕事は致しません。
章槻雅希
ファンタジー
婚約者に自分の仕事を押し付けて遊びまくる王太子。王太子の婚約破棄茶番によって新たな婚約者となった大公令嬢はそれをきっぱり拒否する。『わたくしの仕事ではありませんので、お断りいたします』と。
書きたいことを書いたら、まとまりのない文章になってしまいました。勿体ない精神で投稿します。
『小説家になろう』『Pixiv』(敬称略)に重複投稿、自サイトにも掲載しています。

愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

公爵令嬢はアホ係から卒業する
依智川ゆかり
ファンタジー
『エルメリア・バーンフラウト! お前との婚約を破棄すると、ここに宣言する!!」
婚約相手だったアルフォード王子からそんな宣言を受けたエルメリア。
そんな王子は、数日後バーンフラウト家にて、土下座を披露する事になる。
いや、婚約破棄自体はむしろ願ったり叶ったりだったんですが、あなた本当に分かってます?
何故、私があなたと婚約する事になったのか。そして、何故公爵令嬢である私が『アホ係』と呼ばれるようになったのか。
エルメリアはアルフォード王子……いや、アホ王子に話し始めた。
彼女が『アホ係』となった経緯を、嘘偽りなく。
*『小説家になろう』でも公開しています。

先にわかっているからこそ、用意だけならできたとある婚約破棄騒動
志位斗 茂家波
ファンタジー
調査して準備ができれば、怖くはない。
むしろ、当事者なのに第3者視点でいることができるほどの余裕が持てるのである。
よくある婚約破棄とは言え、のんびり対応できるのだ!!
‥‥‥たまに書きたくなる婚約破棄騒動。
ゲスト、テンプレ入り混じりつつ、お楽しみください。


【短編】婚約破棄?「喜んで!」食い気味に答えたら陛下に泣きつかれたけど、知らんがな
みねバイヤーン
恋愛
「タリーシャ・オーデリンド、そなたとの婚約を破棄す」「喜んで!」
タリーシャが食い気味で答えると、あと一歩で間に合わなかった陛下が、会場の入口で「ああー」と言いながら膝から崩れ落ちた。田舎領地で育ったタリーシャ子爵令嬢が、ヴィシャール第一王子殿下の婚約者に決まったとき、王国は揺れた。王子は荒ぶった。あんな少年のように色気のない体の女はいやだと。タリーシャは密かに陛下と約束を交わした。卒業式までに王子が婚約破棄を望めば、婚約は白紙に戻すと。田舎でのびのび暮らしたいタリーシャと、タリーシャをどうしても王妃にしたい陛下との熾烈を極めた攻防が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。