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9巻
9-2
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「発見当初は被害が出たみたいですが、今はほぼありません。動物はボルケノが魔獣化した時に、ほとんど別の森に逃げていきましたし、一般人も結界が張られた後は無事のようです」
「といっても、全く影響が出ていないわけでもないんですけどね。どうやら、他の動物たちも気が立っているらしいです。先日のリガールも、魔獣のいる森から逃げてきた可能性がありますし」
肩をすくめるリックに、俺は腕組みして小さく唸った。
魔獣が近くにいると、周りの動物にも悪影響が出るらしいもんな。
ボルケノか。通常でも大きくて気性が荒い猪だが、魔獣化したら相当強くて凶暴なんだろうな。
魔獣討伐を請け負っているクリティア聖教会が、手に負えないなんてよっぽどだ。
でも、そういう強敵をコクヨウは好んで倒したがるんだよね。
女騎士さんとの話はコクヨウにばれずに済んだけど、森に近づくほど魔獣のことは皆の話題に上がるだろうし、そのうちコクヨウの耳に入ったりして……。
そうなったら『行って退治する』って言い出しそう。なぜなら、あの子は暴れん坊だから。
俺たちは今まで魔獣を二匹退治してきた。コクヨウの力や俺の鉱石があれば、今回も倒せるかもしれない。だが、魔獣は種類によって能力が異なるので、そう簡単ではないとも思う。
第一、今回は王族としての旅だ。アルフォンス兄さんだって、危険なことを許してはくれないだろう。
でもなぁ、このままだとコルトフィアの人たちが安心できない上に、ボルケノ問題を解決しないとアルフォンス兄さんの結婚がどんどん延期されるんだよぉ。
俺が頭を抱えていると、エリオットたちが慰めの言葉をかける。
「大丈夫ですよ。先ほども言いましたが、危ない道は通りませんので」
「そうです。当面の心配は、この街から早く出られるかどうかです!」
グッと拳を握ったリックの言葉に、他の皆がハッとした。
そうだった。ボルケノの前にその問題があったな。
「強く断ればいいんじゃないですか? 身分はこちらのほうが上なんですから」
そう言うカイルに、俺も再び腕組みをして強く頷いた。
「だよね。法律で決まっているわけではないけど、グレスハートの王族は代々側室を持たない方々ばかりだし。アルフォンス兄さまも一途な性格だから、キャサリンさんには悪いけれど見込みはないと思うんだよね」
だが、エリオットは困り顔でため息を吐く。
「正式な婚姻の申し入れなどがあれば、こちらも断れるんです。しかし、先方はまずは親密になってからと考えているのか、明確な意思表示をしてこないんですよ。婚姻の申し入れの前に断るのは、コルトフィアでは侮辱にあたりますから、今の段階で拒否することは難しく……」
「そっか、それは困ったなぁ」
皇太子ともなれば他国のしきたりを知ってしかるべき。いくら身分が違えど、先に断ってはアルフォンス兄さんに『物知らずか、礼儀知らずな皇太子』といった噂が立ってしまうというわけか。
眉を寄せる俺に、リックがにっこりと笑う。
「きっとアルフォンス殿下が、上手に対応してくださいますよ。今回の旅にはフィル様がいますからね。あのアルフォンス殿下が、フィル様を何日も放っておくはずがありません!」
…………その力説もどうなのかな。
まぁ、アルフォンス兄さんも自分で対処すると言っていたし、少し様子を見るか。
俺は「ふぅ」と息を吐いて、何気なくテラスの外の広場へ目を向けた。
すると、ちょうどその時、白とグレーの動物の一群が広場に入ってきた。
クルクルと渦を巻く角には見覚えがある。先ほどの民芸品店に置いてあったヴィノの角だ。
「あれって、もしかしてヴィノ?」
俺が立ち上がって聞くと、リックが大きく頷いた。
「フィル様、さすが運がいいですね。そうです。ヴィノです。食事は終わりましたから、皆で近くまで行きましょう。おかみさん! ここに勘定置いておくよ。美味しい卵焼き、また食べに来るから」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
俺たちがおかみさんや奥の料理人にそう言うと、おかみさんたちは「またおいで」と手を振った。
ヴィノは広場の片隅にある動物用の水飲み場に、大人しく列をなしていた。数にして、十数頭はいるだろうか。
体高は八十センチくらいあって、かなり大きい。足も太くてしっかりしているので、子供どころか大人でも乗れそうだ。
全身を覆うウェーブがかった長毛は、首を境目にして頭側がグレー、体側が白色に分かれていた。ただ、顔は白く、頭の毛が前髪のようにかかって半分ほど隠れている。
「うわぁ、可愛いなぁ」
会いたかったヴィノの姿に、思わず頬が緩む。
俺がヴィノを見ていると、隣でアリスが小首を傾げた。
「毛で前が隠れてますけど、見えるんでしょうか?」
すると、列の傍らで水筒の水を飲んでいた男性が、肩を揺らして笑った。
「山羊は目が横についてるからな。前が隠れてても問題ないさ。むしろ視界は広いほうだ。可愛いく見えるかもしれんが、成獣のヴィノは気性が荒い。このヴィノも俺や家族以外には懐かんから、あまり近づくなよ」
片頬を上げてニヤリと笑われ、俺はがっかりする。
「そっか。毛並みが綺麗だから、撫でさせてもらいたかったのに」
すると、それを聞いたヴィノたちが俺に興味を示して近づいてきた。
【ほぅ、随分心地よい気を感じるな。何だ? 俺たちを撫でたいのか?】
【毛並みを褒めてくれたし、別にいいぞ】
そう言って、俺の周りを囲んでくる。
「撫でさせてくれるの? どうもありが……え? あ、ちょ……ま……」
ヴィノたちに体や鼻先で押されて、気がつけば俺は一人、ヴィノの群れの真ん中にいた。
「おい坊主、平気か? 気が立ってるわけじゃなさそうだが、どうなってんだこりゃ」
「ご無事ですか?」
ヴィノ遣いの男性や、カイルたちが心配そうに俺に声をかける。
「大丈夫……って、うわっ!」
俺が手を挙げて応えている途中で、数頭のヴィノが服を噛んで上に引き上げた。そうして、俺は一番大きなヴィノの背に押し上げられる。
どうやら背中に乗せてくれたらしい。
「わぁ、ふわふわで気持ちいいや!」
ウェーブのかかった毛は、予想していたよりも柔らかかった。
【そうだろう】
俺を乗せてくれたヴィノは、少し得意げに頭を上げる。
「乗せてくれてありがとう」
俺はお礼を言いながら、ヴィノに抱きついた。その様子を見ていたヴィノ遣いが、呆然とする。
「あのヴィノが自ら背に乗せるとは……。いったい坊主……いや、坊ちゃんは何者なんだ」
「えっ!」
何者って……王子だとバレたってことじゃないよね?
ただ、ヴィノに乗ってモフっただけで、特に何もしていない。
目を瞬かせていると、リックとエリオットは戸惑った表情で言う。
「ヴィノは角や毛糸、乳製品など大きな恩恵を与えてくれるため、昔からコルトフィア国民に神の使いとして敬われているのです」
「その上、気性が荒く人に媚びない性格をしているので、何年もかけて信頼関係を築かないと、まず乗せてくれません」
「え、そうなの?」
先にそういう動物だって言っておいてよ……。思いっきり背中に乗って、モフってしまった。
いや、事前に聞いていても、ヴィノたちが俺を乗せるのを防ぐことができたかは疑問であるが……。
ヴィノ遣いの男性は、感嘆に似た息を吐いた。
「坊ちゃんすごいな。うちの村でも騎乗できる者は限られている。しかもヴィノは、悪しき心や弱き心を見抜くとも言われていてな。狡いことを考えたり、自信を失ったりしている時は、俺だって近寄らせてくれないんだ」
「気持ちもわかっちゃうんですか?」
俺が驚くと、ヴィノたちは肯定するかのように「メェェ」と鳴いた。
【目を見りゃわかるんだよな。ロデルが自信をなくしてる時は、特にわかりやすい】
【そうそう。その点、お前さんはいい目をしてるぜ】
ヴィノ遣いのおじさんは、どうやらロデルという名前らしい。
目かぁ。人間が感じることのできないものが、動物には察知できるのだろうか?
時々コクヨウたちも、俺の気持ちを察してるんじゃないかって思うことがあるもんな。
俺はありがとうの意味を込めて、周りのヴィノたちの頭を撫でる。すると、ヴィノは嬉しそうに顔を寄せてきた。
「ヴィノたちがこんなに好意を寄せているんだ。坊ちゃんが何者かはわからんが良い子なんだな」
ロデルさんに褒められて、俺は少し照れる。
「ありがとうございます。あの、お仕事中すみませんでした。僕、そろそろ降りますね」
そう言ってヴィノから降りようとしたが、周りのヴィノがそれを阻止する。
【まだ乗ったばかりだろう】
【遠慮するな。もっと乗ってなよ】
【そうだそうだ】
「え、いや、あの……」
降りなきゃと思うのに、鼻先で押してくる仕草が可愛いすぎる。
でも、いつまでもこうして乗っているわけにもいかないしなぁ。
ヴィノの行動に困る俺を見て、アリスがクスクスと笑う。
「まだ乗っていてもらいたいみたいですね」
ロデルさんは信じられないといった顔で、ヴィノたちを見回す。
「あのヴィノたちが、こんなふうに甘えた仕草をするなんてなぁ。しかし、困った。ヴィノ遣いはヴィノの気持ちを尊重することで、恩恵を受けているんだ。ヴィノに無理強いはできない」
腕組みをして考え込むと、俺たちに向かって言う。
「そうだ。坊ちゃんたちに時間があるなら、もうしばらくの間ヴィノたちに付き合って散歩してもらえないかな? 少し歩けば、ヴィノたちも気が済むだろうから」
ヴィノに乗って散歩なんて滅多にできることじゃないし、俺はいいんだけど……。
俺がエリオットたちの顔を窺うと、彼らは頷いた。
「街から出ないなら、かまいませんよ」
「じゃあ、お散歩しようか」
俺が言うと、ヴィノたちは嬉しげに「メェェ」と鳴いた。
そうして俺たちは、ピレッドの街をヴィノと散歩することになった。
【動物の言葉がわかる子供に出会えるとはなぁ】
【俺、初めて会ったぜ】
会話の中で俺が言葉を理解しているとわかると、ヴィノたちはさらに俺のことを気に入ったようだ。
俺が乗っているヴィノは群れのリーダーらしく、俺を先頭にしてヴィノの群れとロデルさん、その後ろからカイルたちがついて来ていた。
散歩っていうより、パレードみたいになってるな。
ヴィノに乗っているからか、街の人たちは驚いた顔でこちらを見ている。
俺はキャスケットの帽子を目深にかぶり、小声でヴィノに言う。
「君たちはこの国で随分すごい存在なんだね」
ヴィノは少し鼻先を上げて、得意げに言った。
【まあな。俺たちの種族は昔からずっと、この地の人間に恩恵を与えてるからな。ヴィノにまつわる迷信も多いんだぞ】
「迷信?」
【ヴィノが威嚇する者は悪人であるとか、ヴィノの群れが家に祝福に来れば婚姻が早まるとかな】
一つ目の迷信は、先ほど聞いた『ヴィノは悪しき心を見抜く』という話からできたものだろうが、二つ目の話はいくら何でもあり得ないよね。
群れが来たからって、婚姻の時期が左右されるものでもないだろう。
俺は小さく笑って、後ろにいるロデルさんに話しかけた。
「噂に聞いたんですけど……。ヴィノの群れが家に祝福にくると婚姻が早まるって話、コルトフィアでは信じられているんですか?」
「ああ、皆信じているよ。実際に早まるしね」
否定されるかと思ったら、あっさり肯定されて俺は驚いた。
「ヴィノにはそんな力があるんですか?」
目を丸くするアリスに、ロデルさんは笑う。
「いやいや、それには仕掛けがあるんだよ。ヴィノの群れは目立つだろう? 家にヴィノが来て皆が注目する中、女性の家から男性が出てくる。そうやってご近所公認の二人となれば、周りにせっつかれて婚姻が早まるってことさ」
なるほど。外堀を埋められるわけね。
「ヴィノ遣いにも依頼が入る時があるよ。どうにも相手の態度が煮え切らないから、男性が家を訪れている時にヴィノの群れを連れて来いってな」
ロデルさんが笑って肩をすくめると、リックが同情した様子を見せる。
「へぇ、そんなことまで請け負うのか。大変だな」
「全部は引き受けんさ。ヴィノは人の好き嫌いが激しいからな。ヴィノが乗り気じゃないとやらんよ。というか、できない」
【当たり前だ。何で好きでもない人間に祝福を与えないといけないんだ】
リーダーのヴィノが言うと、群れのヴィノたちも同意とばかりに鳴く。
「本当は今日、領主のところに群れを連れて来るよう頼まれたんだがな。名前を出した途端、ヴィノたちが嫌がったんで断ったんだ」
ロデルさんが苦笑すると、ヴィノたちは再び「メェメェ」鳴いて不機嫌を表す。
【領主は嫌いだ。嫌な目をしてる】
【あの娘っ子もな! 動物だからと、俺たちを毛嫌いしてるのが丸わかりだ】
どうやら領主親子は、ヴィノたちに嫌われているらしい。
もしかして、領主親子が祝福するように頼んだのは、アルフォンス兄さんが来ているから?
「そうだとすると、ヴィノに祝福を断られて良かったかも」
ボソリと本音を呟くと、ヴィノのリーダーが俺を振り返った。
【ん? お前も俺たちと同意見か?】
◇ ◇ ◇
カップの中のハーブティーを見つめ、私――アルフォンス・グレスハートは考え事をしていた。
フィルは今頃何をしているかな。楽しく街を観光している頃だろうか?
今朝会った時の、帽子をかぶったフィルの姿を思い出すと頬が緩む。
神聖なものとされている綺麗な青みがかった銀髪を隠すのはもったいないが、あの大きめの帽子はフィルが小人のように見えて可愛かった。
この旅行でフィルに似合う帽子を買ってあげてもいいな。それとも衣服といったらティリアだから、ティリアで探そうか。いっそのこと作るっていう手も……。
「……ス殿下、アルフォンス殿下。あの、私の話で何か可笑しいところはございましたか?」
思考の渦に入り込んでいた私は、ティーカップに落としていた視線をゆっくりと上げる。
目の前にはピレッドの領主であるゲルト・ホイベルクとその奥方のクラウディア夫人、そして一人娘のキャサリン嬢がいた。
……話か。全然聞いていなかったな。
ご婦人方のお喋りは長いものだが、キャサリン嬢は特にその傾向が強い。
話が上手でないにしろ、会話をすることを心がけてくれればまだいいのだが、彼女は私に言葉を挟む余地を与えてはくれなかった。
私が話の中に婚約者であるルーゼリア王女の名前を出し、キャサリン嬢の好意が迷惑であることを匂わせているから余計なのかもしれないが、これでは会話とは言えない。
私がにっこりと微笑んで聞いてなかったことをごまかすと、キャサリン嬢は頬を赤く染めた。
その隣では領主が、額ににじむ汗を拭いて笑う。
「申し訳ありません。殿下を前にして嬉しさのあまり話が止まらなかったようで」
「いや、私も挨拶に来ただけなのに長居をしてしまった」
正直に言えば、長居させられたと表現したいところだが……。
私はティーカップを置き、立ち上がった。
「まだいらしたばかりではありませんか……」
「ええ、おもてなしも充分にできておりませんし……」
クラウディア夫人とキャサリン嬢がそう言ったが、私はそれを視線で止める。
「これ以上のもてなしはせずとも良い。また、山越えの準備が整い次第出発するが、見送りは必要ない」
「そんなに急いで出発されずとも、もう少しゆっくり滞在なされては……」
領主がそう言って引き止めた時だった。強めのノックとともに、屋敷の衛兵が入ってくる。
「ご歓談中のところ申し訳ありません!」
「無礼であるぞ! アルフォンス殿下がいらっしゃるのに何事だっ!」
顔を真っ赤にして叱責する領主に、衛兵は深く頭を下げる。
「申し訳ありません! 非常事態でして、ヴィノの群れが屋敷に現れました!」
その言葉に、キャサリン嬢が驚きながらも嬉しそうな声を上げた。
「えぇ! どうしてヴィノの群れが? あぁ、もしかして祝福を!?」
ヴィノの祝福がどういったものかを思い出して、私は微かに眉をひそめる。
ヴィノが自ら進んでここを訪れるとは考えにくい。となると、領主の手引きだろうか。
「そ、それが、通常の祝福とは少し……いや、かなり違う状況でありまして……」
どう説明したらいいのかわからないといった様子の衛兵に、領主親子は苛立ちを見せる。
「違う状況とは何なのだ。わけのわからんことを言いおって!」
「祝福じゃないなら何なの? どういうこと? ヴィノは何しに来たの?」
二人で同時に質問されては、まともに報告もできないだろうに。
私は動揺している衛兵に近づき、穏やかに微笑んだ。
「いったい何が起こったのか、順序立てて落ち着いて話してごらん」
そう言うと、護衛は胸に手を置いてゆっくりと息を整える。
「……畏れ多くも、アルフォンス殿下に申し上げます。私が門に立っていますと、ヴィノに乗った少年を先頭に、ヴィノの群れがすごい勢いで走ってきました。そして、軽々と屋敷の高い門を飛び越えたのです!」
ヴィノに乗った……少年?
「ヴィノに乗った少年だと?」
衛兵の報告に、領主は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ヴィノは気性が荒いのだぞ。ヴィノ遣いだとしても扱うのが難しい。だというのに、子供を背に乗せるとは思えんな。第一、なぜ子供がヴィノを率いて我が屋敷に来るのだ」
するとキャサリン嬢がハッとして、父親である領主の袖を引く。
「お父様、わかりましたわ。ヴィノが祝福を与えようと屋敷に来たのです。その時、少年がたまたまヴィノの背に乗ってしまい、それを振りほどこうとしてヴィノが暴れているのですわ」
「お……おぉ、そうか。そうかもしれぬな。キャサリンは賢い」
強引な推測だと思うが、娘の言うことに領主はにこにこと目尻を下げた。
しかし、衛兵は小さな声でそれに異を唱える。
「畏れながらそれは難しいかと……。高い柵を飛び越えてきたのです。偶然背に乗っただけならば、その前に振り落とされていると思います。ですが、あれはしばし呆然となってしまうほど、一体となった美しい飛躍でした」
その言葉に、領主は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「何が美しい飛躍だ! 門も守れずして生意気を言いおって!」
「も、申し訳ありません!!」
頭を下げる衛兵をなおも怒鳴りつけようとしたので、私は軽く手を挙げてそれを止めた。
「まずは邸内に入ったそのヴィノの群れを確認するのが先だろう」
「さようでございますね、殿下。……では、そこへ案内せよ!」
領主は私に恭しく頭を下げ、それから衛兵に向かって声を荒らげる。
衛兵の案内で向かった場所は、正面玄関前の庭だった。数十頭のヴィノが「メェメェ」と鳴きながら、行儀よく横一列に並んでいる。
そしてヴィノたちのいる庭を隔てた奥からは、門や柵の間から街の住民たちがこちらを覗いていた。
「なんだ、ヴィノの群れはいるが、ヴィノに乗った子供などいないではないか……」
「やっぱりヴィノが祝福に来てくれたのだわ!」
拍子抜けした領主の言葉にかぶせるように、キャサリン嬢は歓喜の声を上げる。
衛兵は戸惑った様子で辺りをキョロキョロと見回し、小声で別の衛兵に声をかけた。
「おい、あの少年はどこに行ったんだ。目を離すなと言っただろう」
すると、尋ねられた衛兵は震える指で屋敷の上を指さす。
その指先をたどって屋敷を振り返れば、波がかった長毛を風にたなびかせたヴィノが一頭、屋根の上にいた。
その一際大きな体のヴィノの背には、小さな少年が悠然と騎乗している。
つばを掴んで帽子を目深にかぶっているせいで顔はよく見えないが、その凛々しくも愛らしい姿には見覚えがあった。
やはり、フィルだったのか。
門の外にカイルやリックたちもいたから、何となくそんな気はしていた。
いや、扱いづらいヴィノを巧みに操る少年と聞いた時点で、予感はあったのだ。
フィルを見上げた私は、領主に悟られぬように微笑む。
相変わらず皆を驚かせることをするな。
だが、目立つことを嫌うフィルが、なぜ屋根の上にいるのだろうか。
「ど、どうやってあんなところにっ! 何があったのだっ!」
愕然とする領主家族に、指をさしていた衛兵は呆けたまま言う。
「窓の縁や庇、壁のわずかな出っ張りを使って上まで登ってしまったのです。いくらヴィノが崖を歩く動物だとしても、人間を乗せてあのように登るなど考えられません。神の……神の御業としか……」
「何を馬鹿なことを言っているかっ! けしからん! 早く屋根から引きずり下ろせっ!」
領主がそう叫んだ時、庭のヴィノたちが一斉に「ベェェェ」と鳴き始めた。
「といっても、全く影響が出ていないわけでもないんですけどね。どうやら、他の動物たちも気が立っているらしいです。先日のリガールも、魔獣のいる森から逃げてきた可能性がありますし」
肩をすくめるリックに、俺は腕組みして小さく唸った。
魔獣が近くにいると、周りの動物にも悪影響が出るらしいもんな。
ボルケノか。通常でも大きくて気性が荒い猪だが、魔獣化したら相当強くて凶暴なんだろうな。
魔獣討伐を請け負っているクリティア聖教会が、手に負えないなんてよっぽどだ。
でも、そういう強敵をコクヨウは好んで倒したがるんだよね。
女騎士さんとの話はコクヨウにばれずに済んだけど、森に近づくほど魔獣のことは皆の話題に上がるだろうし、そのうちコクヨウの耳に入ったりして……。
そうなったら『行って退治する』って言い出しそう。なぜなら、あの子は暴れん坊だから。
俺たちは今まで魔獣を二匹退治してきた。コクヨウの力や俺の鉱石があれば、今回も倒せるかもしれない。だが、魔獣は種類によって能力が異なるので、そう簡単ではないとも思う。
第一、今回は王族としての旅だ。アルフォンス兄さんだって、危険なことを許してはくれないだろう。
でもなぁ、このままだとコルトフィアの人たちが安心できない上に、ボルケノ問題を解決しないとアルフォンス兄さんの結婚がどんどん延期されるんだよぉ。
俺が頭を抱えていると、エリオットたちが慰めの言葉をかける。
「大丈夫ですよ。先ほども言いましたが、危ない道は通りませんので」
「そうです。当面の心配は、この街から早く出られるかどうかです!」
グッと拳を握ったリックの言葉に、他の皆がハッとした。
そうだった。ボルケノの前にその問題があったな。
「強く断ればいいんじゃないですか? 身分はこちらのほうが上なんですから」
そう言うカイルに、俺も再び腕組みをして強く頷いた。
「だよね。法律で決まっているわけではないけど、グレスハートの王族は代々側室を持たない方々ばかりだし。アルフォンス兄さまも一途な性格だから、キャサリンさんには悪いけれど見込みはないと思うんだよね」
だが、エリオットは困り顔でため息を吐く。
「正式な婚姻の申し入れなどがあれば、こちらも断れるんです。しかし、先方はまずは親密になってからと考えているのか、明確な意思表示をしてこないんですよ。婚姻の申し入れの前に断るのは、コルトフィアでは侮辱にあたりますから、今の段階で拒否することは難しく……」
「そっか、それは困ったなぁ」
皇太子ともなれば他国のしきたりを知ってしかるべき。いくら身分が違えど、先に断ってはアルフォンス兄さんに『物知らずか、礼儀知らずな皇太子』といった噂が立ってしまうというわけか。
眉を寄せる俺に、リックがにっこりと笑う。
「きっとアルフォンス殿下が、上手に対応してくださいますよ。今回の旅にはフィル様がいますからね。あのアルフォンス殿下が、フィル様を何日も放っておくはずがありません!」
…………その力説もどうなのかな。
まぁ、アルフォンス兄さんも自分で対処すると言っていたし、少し様子を見るか。
俺は「ふぅ」と息を吐いて、何気なくテラスの外の広場へ目を向けた。
すると、ちょうどその時、白とグレーの動物の一群が広場に入ってきた。
クルクルと渦を巻く角には見覚えがある。先ほどの民芸品店に置いてあったヴィノの角だ。
「あれって、もしかしてヴィノ?」
俺が立ち上がって聞くと、リックが大きく頷いた。
「フィル様、さすが運がいいですね。そうです。ヴィノです。食事は終わりましたから、皆で近くまで行きましょう。おかみさん! ここに勘定置いておくよ。美味しい卵焼き、また食べに来るから」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
俺たちがおかみさんや奥の料理人にそう言うと、おかみさんたちは「またおいで」と手を振った。
ヴィノは広場の片隅にある動物用の水飲み場に、大人しく列をなしていた。数にして、十数頭はいるだろうか。
体高は八十センチくらいあって、かなり大きい。足も太くてしっかりしているので、子供どころか大人でも乗れそうだ。
全身を覆うウェーブがかった長毛は、首を境目にして頭側がグレー、体側が白色に分かれていた。ただ、顔は白く、頭の毛が前髪のようにかかって半分ほど隠れている。
「うわぁ、可愛いなぁ」
会いたかったヴィノの姿に、思わず頬が緩む。
俺がヴィノを見ていると、隣でアリスが小首を傾げた。
「毛で前が隠れてますけど、見えるんでしょうか?」
すると、列の傍らで水筒の水を飲んでいた男性が、肩を揺らして笑った。
「山羊は目が横についてるからな。前が隠れてても問題ないさ。むしろ視界は広いほうだ。可愛いく見えるかもしれんが、成獣のヴィノは気性が荒い。このヴィノも俺や家族以外には懐かんから、あまり近づくなよ」
片頬を上げてニヤリと笑われ、俺はがっかりする。
「そっか。毛並みが綺麗だから、撫でさせてもらいたかったのに」
すると、それを聞いたヴィノたちが俺に興味を示して近づいてきた。
【ほぅ、随分心地よい気を感じるな。何だ? 俺たちを撫でたいのか?】
【毛並みを褒めてくれたし、別にいいぞ】
そう言って、俺の周りを囲んでくる。
「撫でさせてくれるの? どうもありが……え? あ、ちょ……ま……」
ヴィノたちに体や鼻先で押されて、気がつけば俺は一人、ヴィノの群れの真ん中にいた。
「おい坊主、平気か? 気が立ってるわけじゃなさそうだが、どうなってんだこりゃ」
「ご無事ですか?」
ヴィノ遣いの男性や、カイルたちが心配そうに俺に声をかける。
「大丈夫……って、うわっ!」
俺が手を挙げて応えている途中で、数頭のヴィノが服を噛んで上に引き上げた。そうして、俺は一番大きなヴィノの背に押し上げられる。
どうやら背中に乗せてくれたらしい。
「わぁ、ふわふわで気持ちいいや!」
ウェーブのかかった毛は、予想していたよりも柔らかかった。
【そうだろう】
俺を乗せてくれたヴィノは、少し得意げに頭を上げる。
「乗せてくれてありがとう」
俺はお礼を言いながら、ヴィノに抱きついた。その様子を見ていたヴィノ遣いが、呆然とする。
「あのヴィノが自ら背に乗せるとは……。いったい坊主……いや、坊ちゃんは何者なんだ」
「えっ!」
何者って……王子だとバレたってことじゃないよね?
ただ、ヴィノに乗ってモフっただけで、特に何もしていない。
目を瞬かせていると、リックとエリオットは戸惑った表情で言う。
「ヴィノは角や毛糸、乳製品など大きな恩恵を与えてくれるため、昔からコルトフィア国民に神の使いとして敬われているのです」
「その上、気性が荒く人に媚びない性格をしているので、何年もかけて信頼関係を築かないと、まず乗せてくれません」
「え、そうなの?」
先にそういう動物だって言っておいてよ……。思いっきり背中に乗って、モフってしまった。
いや、事前に聞いていても、ヴィノたちが俺を乗せるのを防ぐことができたかは疑問であるが……。
ヴィノ遣いの男性は、感嘆に似た息を吐いた。
「坊ちゃんすごいな。うちの村でも騎乗できる者は限られている。しかもヴィノは、悪しき心や弱き心を見抜くとも言われていてな。狡いことを考えたり、自信を失ったりしている時は、俺だって近寄らせてくれないんだ」
「気持ちもわかっちゃうんですか?」
俺が驚くと、ヴィノたちは肯定するかのように「メェェ」と鳴いた。
【目を見りゃわかるんだよな。ロデルが自信をなくしてる時は、特にわかりやすい】
【そうそう。その点、お前さんはいい目をしてるぜ】
ヴィノ遣いのおじさんは、どうやらロデルという名前らしい。
目かぁ。人間が感じることのできないものが、動物には察知できるのだろうか?
時々コクヨウたちも、俺の気持ちを察してるんじゃないかって思うことがあるもんな。
俺はありがとうの意味を込めて、周りのヴィノたちの頭を撫でる。すると、ヴィノは嬉しそうに顔を寄せてきた。
「ヴィノたちがこんなに好意を寄せているんだ。坊ちゃんが何者かはわからんが良い子なんだな」
ロデルさんに褒められて、俺は少し照れる。
「ありがとうございます。あの、お仕事中すみませんでした。僕、そろそろ降りますね」
そう言ってヴィノから降りようとしたが、周りのヴィノがそれを阻止する。
【まだ乗ったばかりだろう】
【遠慮するな。もっと乗ってなよ】
【そうだそうだ】
「え、いや、あの……」
降りなきゃと思うのに、鼻先で押してくる仕草が可愛いすぎる。
でも、いつまでもこうして乗っているわけにもいかないしなぁ。
ヴィノの行動に困る俺を見て、アリスがクスクスと笑う。
「まだ乗っていてもらいたいみたいですね」
ロデルさんは信じられないといった顔で、ヴィノたちを見回す。
「あのヴィノたちが、こんなふうに甘えた仕草をするなんてなぁ。しかし、困った。ヴィノ遣いはヴィノの気持ちを尊重することで、恩恵を受けているんだ。ヴィノに無理強いはできない」
腕組みをして考え込むと、俺たちに向かって言う。
「そうだ。坊ちゃんたちに時間があるなら、もうしばらくの間ヴィノたちに付き合って散歩してもらえないかな? 少し歩けば、ヴィノたちも気が済むだろうから」
ヴィノに乗って散歩なんて滅多にできることじゃないし、俺はいいんだけど……。
俺がエリオットたちの顔を窺うと、彼らは頷いた。
「街から出ないなら、かまいませんよ」
「じゃあ、お散歩しようか」
俺が言うと、ヴィノたちは嬉しげに「メェェ」と鳴いた。
そうして俺たちは、ピレッドの街をヴィノと散歩することになった。
【動物の言葉がわかる子供に出会えるとはなぁ】
【俺、初めて会ったぜ】
会話の中で俺が言葉を理解しているとわかると、ヴィノたちはさらに俺のことを気に入ったようだ。
俺が乗っているヴィノは群れのリーダーらしく、俺を先頭にしてヴィノの群れとロデルさん、その後ろからカイルたちがついて来ていた。
散歩っていうより、パレードみたいになってるな。
ヴィノに乗っているからか、街の人たちは驚いた顔でこちらを見ている。
俺はキャスケットの帽子を目深にかぶり、小声でヴィノに言う。
「君たちはこの国で随分すごい存在なんだね」
ヴィノは少し鼻先を上げて、得意げに言った。
【まあな。俺たちの種族は昔からずっと、この地の人間に恩恵を与えてるからな。ヴィノにまつわる迷信も多いんだぞ】
「迷信?」
【ヴィノが威嚇する者は悪人であるとか、ヴィノの群れが家に祝福に来れば婚姻が早まるとかな】
一つ目の迷信は、先ほど聞いた『ヴィノは悪しき心を見抜く』という話からできたものだろうが、二つ目の話はいくら何でもあり得ないよね。
群れが来たからって、婚姻の時期が左右されるものでもないだろう。
俺は小さく笑って、後ろにいるロデルさんに話しかけた。
「噂に聞いたんですけど……。ヴィノの群れが家に祝福にくると婚姻が早まるって話、コルトフィアでは信じられているんですか?」
「ああ、皆信じているよ。実際に早まるしね」
否定されるかと思ったら、あっさり肯定されて俺は驚いた。
「ヴィノにはそんな力があるんですか?」
目を丸くするアリスに、ロデルさんは笑う。
「いやいや、それには仕掛けがあるんだよ。ヴィノの群れは目立つだろう? 家にヴィノが来て皆が注目する中、女性の家から男性が出てくる。そうやってご近所公認の二人となれば、周りにせっつかれて婚姻が早まるってことさ」
なるほど。外堀を埋められるわけね。
「ヴィノ遣いにも依頼が入る時があるよ。どうにも相手の態度が煮え切らないから、男性が家を訪れている時にヴィノの群れを連れて来いってな」
ロデルさんが笑って肩をすくめると、リックが同情した様子を見せる。
「へぇ、そんなことまで請け負うのか。大変だな」
「全部は引き受けんさ。ヴィノは人の好き嫌いが激しいからな。ヴィノが乗り気じゃないとやらんよ。というか、できない」
【当たり前だ。何で好きでもない人間に祝福を与えないといけないんだ】
リーダーのヴィノが言うと、群れのヴィノたちも同意とばかりに鳴く。
「本当は今日、領主のところに群れを連れて来るよう頼まれたんだがな。名前を出した途端、ヴィノたちが嫌がったんで断ったんだ」
ロデルさんが苦笑すると、ヴィノたちは再び「メェメェ」鳴いて不機嫌を表す。
【領主は嫌いだ。嫌な目をしてる】
【あの娘っ子もな! 動物だからと、俺たちを毛嫌いしてるのが丸わかりだ】
どうやら領主親子は、ヴィノたちに嫌われているらしい。
もしかして、領主親子が祝福するように頼んだのは、アルフォンス兄さんが来ているから?
「そうだとすると、ヴィノに祝福を断られて良かったかも」
ボソリと本音を呟くと、ヴィノのリーダーが俺を振り返った。
【ん? お前も俺たちと同意見か?】
◇ ◇ ◇
カップの中のハーブティーを見つめ、私――アルフォンス・グレスハートは考え事をしていた。
フィルは今頃何をしているかな。楽しく街を観光している頃だろうか?
今朝会った時の、帽子をかぶったフィルの姿を思い出すと頬が緩む。
神聖なものとされている綺麗な青みがかった銀髪を隠すのはもったいないが、あの大きめの帽子はフィルが小人のように見えて可愛かった。
この旅行でフィルに似合う帽子を買ってあげてもいいな。それとも衣服といったらティリアだから、ティリアで探そうか。いっそのこと作るっていう手も……。
「……ス殿下、アルフォンス殿下。あの、私の話で何か可笑しいところはございましたか?」
思考の渦に入り込んでいた私は、ティーカップに落としていた視線をゆっくりと上げる。
目の前にはピレッドの領主であるゲルト・ホイベルクとその奥方のクラウディア夫人、そして一人娘のキャサリン嬢がいた。
……話か。全然聞いていなかったな。
ご婦人方のお喋りは長いものだが、キャサリン嬢は特にその傾向が強い。
話が上手でないにしろ、会話をすることを心がけてくれればまだいいのだが、彼女は私に言葉を挟む余地を与えてはくれなかった。
私が話の中に婚約者であるルーゼリア王女の名前を出し、キャサリン嬢の好意が迷惑であることを匂わせているから余計なのかもしれないが、これでは会話とは言えない。
私がにっこりと微笑んで聞いてなかったことをごまかすと、キャサリン嬢は頬を赤く染めた。
その隣では領主が、額ににじむ汗を拭いて笑う。
「申し訳ありません。殿下を前にして嬉しさのあまり話が止まらなかったようで」
「いや、私も挨拶に来ただけなのに長居をしてしまった」
正直に言えば、長居させられたと表現したいところだが……。
私はティーカップを置き、立ち上がった。
「まだいらしたばかりではありませんか……」
「ええ、おもてなしも充分にできておりませんし……」
クラウディア夫人とキャサリン嬢がそう言ったが、私はそれを視線で止める。
「これ以上のもてなしはせずとも良い。また、山越えの準備が整い次第出発するが、見送りは必要ない」
「そんなに急いで出発されずとも、もう少しゆっくり滞在なされては……」
領主がそう言って引き止めた時だった。強めのノックとともに、屋敷の衛兵が入ってくる。
「ご歓談中のところ申し訳ありません!」
「無礼であるぞ! アルフォンス殿下がいらっしゃるのに何事だっ!」
顔を真っ赤にして叱責する領主に、衛兵は深く頭を下げる。
「申し訳ありません! 非常事態でして、ヴィノの群れが屋敷に現れました!」
その言葉に、キャサリン嬢が驚きながらも嬉しそうな声を上げた。
「えぇ! どうしてヴィノの群れが? あぁ、もしかして祝福を!?」
ヴィノの祝福がどういったものかを思い出して、私は微かに眉をひそめる。
ヴィノが自ら進んでここを訪れるとは考えにくい。となると、領主の手引きだろうか。
「そ、それが、通常の祝福とは少し……いや、かなり違う状況でありまして……」
どう説明したらいいのかわからないといった様子の衛兵に、領主親子は苛立ちを見せる。
「違う状況とは何なのだ。わけのわからんことを言いおって!」
「祝福じゃないなら何なの? どういうこと? ヴィノは何しに来たの?」
二人で同時に質問されては、まともに報告もできないだろうに。
私は動揺している衛兵に近づき、穏やかに微笑んだ。
「いったい何が起こったのか、順序立てて落ち着いて話してごらん」
そう言うと、護衛は胸に手を置いてゆっくりと息を整える。
「……畏れ多くも、アルフォンス殿下に申し上げます。私が門に立っていますと、ヴィノに乗った少年を先頭に、ヴィノの群れがすごい勢いで走ってきました。そして、軽々と屋敷の高い門を飛び越えたのです!」
ヴィノに乗った……少年?
「ヴィノに乗った少年だと?」
衛兵の報告に、領主は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ヴィノは気性が荒いのだぞ。ヴィノ遣いだとしても扱うのが難しい。だというのに、子供を背に乗せるとは思えんな。第一、なぜ子供がヴィノを率いて我が屋敷に来るのだ」
するとキャサリン嬢がハッとして、父親である領主の袖を引く。
「お父様、わかりましたわ。ヴィノが祝福を与えようと屋敷に来たのです。その時、少年がたまたまヴィノの背に乗ってしまい、それを振りほどこうとしてヴィノが暴れているのですわ」
「お……おぉ、そうか。そうかもしれぬな。キャサリンは賢い」
強引な推測だと思うが、娘の言うことに領主はにこにこと目尻を下げた。
しかし、衛兵は小さな声でそれに異を唱える。
「畏れながらそれは難しいかと……。高い柵を飛び越えてきたのです。偶然背に乗っただけならば、その前に振り落とされていると思います。ですが、あれはしばし呆然となってしまうほど、一体となった美しい飛躍でした」
その言葉に、領主は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「何が美しい飛躍だ! 門も守れずして生意気を言いおって!」
「も、申し訳ありません!!」
頭を下げる衛兵をなおも怒鳴りつけようとしたので、私は軽く手を挙げてそれを止めた。
「まずは邸内に入ったそのヴィノの群れを確認するのが先だろう」
「さようでございますね、殿下。……では、そこへ案内せよ!」
領主は私に恭しく頭を下げ、それから衛兵に向かって声を荒らげる。
衛兵の案内で向かった場所は、正面玄関前の庭だった。数十頭のヴィノが「メェメェ」と鳴きながら、行儀よく横一列に並んでいる。
そしてヴィノたちのいる庭を隔てた奥からは、門や柵の間から街の住民たちがこちらを覗いていた。
「なんだ、ヴィノの群れはいるが、ヴィノに乗った子供などいないではないか……」
「やっぱりヴィノが祝福に来てくれたのだわ!」
拍子抜けした領主の言葉にかぶせるように、キャサリン嬢は歓喜の声を上げる。
衛兵は戸惑った様子で辺りをキョロキョロと見回し、小声で別の衛兵に声をかけた。
「おい、あの少年はどこに行ったんだ。目を離すなと言っただろう」
すると、尋ねられた衛兵は震える指で屋敷の上を指さす。
その指先をたどって屋敷を振り返れば、波がかった長毛を風にたなびかせたヴィノが一頭、屋根の上にいた。
その一際大きな体のヴィノの背には、小さな少年が悠然と騎乗している。
つばを掴んで帽子を目深にかぶっているせいで顔はよく見えないが、その凛々しくも愛らしい姿には見覚えがあった。
やはり、フィルだったのか。
門の外にカイルやリックたちもいたから、何となくそんな気はしていた。
いや、扱いづらいヴィノを巧みに操る少年と聞いた時点で、予感はあったのだ。
フィルを見上げた私は、領主に悟られぬように微笑む。
相変わらず皆を驚かせることをするな。
だが、目立つことを嫌うフィルが、なぜ屋根の上にいるのだろうか。
「ど、どうやってあんなところにっ! 何があったのだっ!」
愕然とする領主家族に、指をさしていた衛兵は呆けたまま言う。
「窓の縁や庇、壁のわずかな出っ張りを使って上まで登ってしまったのです。いくらヴィノが崖を歩く動物だとしても、人間を乗せてあのように登るなど考えられません。神の……神の御業としか……」
「何を馬鹿なことを言っているかっ! けしからん! 早く屋根から引きずり下ろせっ!」
領主がそう叫んだ時、庭のヴィノたちが一斉に「ベェェェ」と鳴き始めた。
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