上 下
15 / 111
花咲くとき

015

しおりを挟む
今まで"なぜ派遣なのか"と問われることすらなかったし、自分から誰かに話すこともなかった。けれど今日はお酒が入っていることもあり、いつもより少し饒舌だったのかもしれない。

「言い訳なので聞き流してくださいね」

奈々は前置きをした上で、ポツリと語り出す。それは今まであまり人に話していない、奈々の見えざる心の内だった。

「大学三年の時に突然母が入院したんです。ちょうど就活を始める頃。末期癌で余命も宣告されて、就活どころではなくなってしまいました。毎日病院に通って母との時間を作りました。私には就活に打ち込むよりも大切な時間だと思ったから。もちろん合間に就活もしたけど、やっぱりダメですね。本気度が足らなかったと思います。四年生のときに母は亡くなりました。覚悟はしていたので大丈夫だったけど、家のことや手続きなどをしていたらあっという間に卒業になってしまって。とにかく働かなくちゃと思って慌てて派遣登録したんです。で、そこからはトントン拍子で今に至ります」

奈々はそこまで一気に言うと、はにかむようにグラスを煽った。なぜこんなことを倉瀬に告白してしまったのか、自分でも分からない。ぬるくなったビールはあまり美味しくなかったけれど、どこかスッキリした部分もあって複雑だ。

そんな奈々の話を、倉瀬は静かに聞いていた。

倉瀬が黙ってしまったので、奈々は申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。

「すみません、変な話して」

「いや……」

倉瀬は口元に手を当てる。そして殊更真面目な顔をして言った。

「お前立派だな。お母さんも、嬉しかっただろうな」

倉瀬の言葉に、奈々は一瞬瞳を大きくする。こんな柔らかく優しい口調の倉瀬は初めてで、いささか動揺してしまう。けれどその言葉は奈々の心にじんわりと染み渡り、やがて胸をじんとさせた。

「ありがとうございます」

笑顔で答える奈々の表情はまるで花が咲いたかのように綺麗で、屈託のない彼女の笑顔に倉瀬はしばし目を奪われてしまっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話

水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。 相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。 義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。 陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。 しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される

永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】 「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。 しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――? 肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!

【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~

蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。 嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。 だから、仲の良い同期のままでいたい。 そう思っているのに。 今までと違う甘い視線で見つめられて、 “女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。 全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。 「勘違いじゃないから」 告白したい御曹司と 告白されたくない小ボケ女子 ラブバトル開始

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...