ネジバナ

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10.前兆

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 文恵さんがキッチンで食器を片付けながら、「子供は無邪気よね」と言った。
 ジャズを聴きながら、
「少しは気分転換になったかしら」
「絶対治すって気持ちが大切かもな」
「必ず治るよ」
 一つだけ残っていた柏餅を頬張る。
 次の日は腹痛で目が覚めた。トイレから出ると、文恵さんは出掛けた後だった。
 腹痛の原因を考え、寝る前に食べた柏餅が思い当たった。日中ずっと出しっぱなしだった上、日の当たる場所に出してあったことを思い出す。傷んでいたのだろう。幸い腹痛すぐに治まった。
 首に不調をきたしてから、注意力が散漫になっている気がする。よく確認しないといけないなと反省する。
 リビングに行くと、いつものように、朝食がセットされている。トーストにハムエッグ、それにサラダ。腹の調子が万全ではないので、朝食は昼食に回そうと、冷蔵庫にしまう。CDをかけながら、お茶を淹れる。
首が曲がってから、もう一ヶ月経つ。長いのか短いのかもよくわからなくなってきた。ほとんど家にいると、時間の観念がおかしくなる。

 首が少しずつおかしくなってきた頃のことを思い返してみる。
 ちょうど大学の後期の試験が終わり出した頃だった。大学は一月の定期試験が終了すると、学生はなし崩し的に春休みに突入する。一方で、正規の教職員は入試業務などに追われる。大学の二月一般入試が終わり、合否判定の会議も落ち着いてきた頃、私は自宅で論文の執筆構想をしていた。いつものように、机の右側にパソコン、左側に書籍を置いて、研究を進めていた。二年前くらいから酷くなりだした肩凝りが、この頃は慢性的になっていた。あまり外に出る機会もないし、普段から定期的な運動も行っていなかった。文恵さんからは再三「たまには運動しないと駄目だよ。段々、若い頃のようにはいかないんだから。夜更かしもほどほどにね」と言われ続けていた。
 少しずつ体の不調は進んでいたのかもしれない。頭痛が一週間以上続いて、病院で脳の検査を行ったこともあった。私は片頭痛持ちではないので、これほど長く頭痛が続いたのは初めてだった。念のために行った検査結果に特に異常はなく、肩凝りからくるものだろうと結論づけられた。その後、しばらくすると頭痛も治まったが、首と肩の凝りは解消されなかった。定期的に凝りをほぐしにマッサージに通った。冬になると、肩が凝り、首が震えるようになったが、寒さのせいだとあまり気にしなかった。
 三月の入試業務も終えて、一息ついていたある日の朝だった。パソコンに向かっていると、首に妙な違和感を覚えた。寒くもないのに、首が微かに震える。六畳の小さな一室で、エアコンも入れて、炬燵に入っている。寒いはずがない。そのまま気にせずに、パソコンに向かおうとするが、やはり首がおかしい。奇妙な感覚に襲われる。誰かが私を外部から所有して、私の首をコントロールしようとしている。何かが首を乗っ取っている。
 研究論文の執筆と専任講師としての責務のプレッシャーが原因なのだろうか。
 少し落ち着こうと、外に出た。今年の冬は特に寒かった。この時期になってもまだダウンジャケットが手放せない。私は気分転換に、大学まで行くことにした。北千住駅から、千代田線に乗り換えて、大学の研究室に向かった。
「松坂先生、珍しいね」
 研究室で最年長の戸田さんだ。戸田さんは、五十歳で仕事を辞めて、この大学に入学してきた。前職は出版社で書籍の編集に携わっていたらしい。最終的には、編集長にもなって、役員だったらしいが、「俺には経営のセンスがない」と言って仕事を辞めて今に至る。
「何だか調子がでないんですよ」
「専任講師は大変ですか?もう学生の履歴書やエントリーシートの添削もしなくていいんですよね。これで文学一筋に専念できるじゃない。ほら、これでも食べてくださいよ」
 戸部さんが高級そうなチョコレートをくれる。戸田さんはヨーロッパ好きで、欧州の文学と日本文学の比較についての研究を行っている。このチョコレートもきっとヨーロッパ産だろう。
 今はどの大学も少子化で就職活動に力を入れている。私が現在勤務する大学に専任講師で採用される前は、非常勤として三校掛け持ちしていた。その一校では、キャリアセンターという就職関連の部署で履歴書やエントリーシートの添削も任されていた。要は国文学を専攻しているため、文章力には自信があると思われているのだ。もっとも、就職活動をしたことがないので、書類関係の添削しかできない。だが、学生はそんなことはわからない。面接や会社のことも質問してくる。こちらも一苦労だった。
「そういえば、戸部さんって健康雑誌の編集してましたよね?」
「四十歳の頃だったかな?健康関連の本は売れますからね。でも、逆に色々あり過ぎて、結局何がいいのかようわかんなくなったんですよ。松坂先生も体調悪いのなら専門家に、早く診てもらった方がいいですよ。まあ、書店に行けば多種多様な医療本もありますけどね」
 しばらく研究室で雑談をして、図書館で調べ物をしてから、自宅に帰った。

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