10 / 19
10.前兆
しおりを挟む
文恵さんがキッチンで食器を片付けながら、「子供は無邪気よね」と言った。
ジャズを聴きながら、
「少しは気分転換になったかしら」
「絶対治すって気持ちが大切かもな」
「必ず治るよ」
一つだけ残っていた柏餅を頬張る。
次の日は腹痛で目が覚めた。トイレから出ると、文恵さんは出掛けた後だった。
腹痛の原因を考え、寝る前に食べた柏餅が思い当たった。日中ずっと出しっぱなしだった上、日の当たる場所に出してあったことを思い出す。傷んでいたのだろう。幸い腹痛すぐに治まった。
首に不調をきたしてから、注意力が散漫になっている気がする。よく確認しないといけないなと反省する。
リビングに行くと、いつものように、朝食がセットされている。トーストにハムエッグ、それにサラダ。腹の調子が万全ではないので、朝食は昼食に回そうと、冷蔵庫にしまう。CDをかけながら、お茶を淹れる。
首が曲がってから、もう一ヶ月経つ。長いのか短いのかもよくわからなくなってきた。ほとんど家にいると、時間の観念がおかしくなる。
首が少しずつおかしくなってきた頃のことを思い返してみる。
ちょうど大学の後期の試験が終わり出した頃だった。大学は一月の定期試験が終了すると、学生はなし崩し的に春休みに突入する。一方で、正規の教職員は入試業務などに追われる。大学の二月一般入試が終わり、合否判定の会議も落ち着いてきた頃、私は自宅で論文の執筆構想をしていた。いつものように、机の右側にパソコン、左側に書籍を置いて、研究を進めていた。二年前くらいから酷くなりだした肩凝りが、この頃は慢性的になっていた。あまり外に出る機会もないし、普段から定期的な運動も行っていなかった。文恵さんからは再三「たまには運動しないと駄目だよ。段々、若い頃のようにはいかないんだから。夜更かしもほどほどにね」と言われ続けていた。
少しずつ体の不調は進んでいたのかもしれない。頭痛が一週間以上続いて、病院で脳の検査を行ったこともあった。私は片頭痛持ちではないので、これほど長く頭痛が続いたのは初めてだった。念のために行った検査結果に特に異常はなく、肩凝りからくるものだろうと結論づけられた。その後、しばらくすると頭痛も治まったが、首と肩の凝りは解消されなかった。定期的に凝りをほぐしにマッサージに通った。冬になると、肩が凝り、首が震えるようになったが、寒さのせいだとあまり気にしなかった。
三月の入試業務も終えて、一息ついていたある日の朝だった。パソコンに向かっていると、首に妙な違和感を覚えた。寒くもないのに、首が微かに震える。六畳の小さな一室で、エアコンも入れて、炬燵に入っている。寒いはずがない。そのまま気にせずに、パソコンに向かおうとするが、やはり首がおかしい。奇妙な感覚に襲われる。誰かが私を外部から所有して、私の首をコントロールしようとしている。何かが首を乗っ取っている。
研究論文の執筆と専任講師としての責務のプレッシャーが原因なのだろうか。
少し落ち着こうと、外に出た。今年の冬は特に寒かった。この時期になってもまだダウンジャケットが手放せない。私は気分転換に、大学まで行くことにした。北千住駅から、千代田線に乗り換えて、大学の研究室に向かった。
「松坂先生、珍しいね」
研究室で最年長の戸田さんだ。戸田さんは、五十歳で仕事を辞めて、この大学に入学してきた。前職は出版社で書籍の編集に携わっていたらしい。最終的には、編集長にもなって、役員だったらしいが、「俺には経営のセンスがない」と言って仕事を辞めて今に至る。
「何だか調子がでないんですよ」
「専任講師は大変ですか?もう学生の履歴書やエントリーシートの添削もしなくていいんですよね。これで文学一筋に専念できるじゃない。ほら、これでも食べてくださいよ」
戸部さんが高級そうなチョコレートをくれる。戸田さんはヨーロッパ好きで、欧州の文学と日本文学の比較についての研究を行っている。このチョコレートもきっとヨーロッパ産だろう。
今はどの大学も少子化で就職活動に力を入れている。私が現在勤務する大学に専任講師で採用される前は、非常勤として三校掛け持ちしていた。その一校では、キャリアセンターという就職関連の部署で履歴書やエントリーシートの添削も任されていた。要は国文学を専攻しているため、文章力には自信があると思われているのだ。もっとも、就職活動をしたことがないので、書類関係の添削しかできない。だが、学生はそんなことはわからない。面接や会社のことも質問してくる。こちらも一苦労だった。
「そういえば、戸部さんって健康雑誌の編集してましたよね?」
「四十歳の頃だったかな?健康関連の本は売れますからね。でも、逆に色々あり過ぎて、結局何がいいのかようわかんなくなったんですよ。松坂先生も体調悪いのなら専門家に、早く診てもらった方がいいですよ。まあ、書店に行けば多種多様な医療本もありますけどね」
しばらく研究室で雑談をして、図書館で調べ物をしてから、自宅に帰った。
ジャズを聴きながら、
「少しは気分転換になったかしら」
「絶対治すって気持ちが大切かもな」
「必ず治るよ」
一つだけ残っていた柏餅を頬張る。
次の日は腹痛で目が覚めた。トイレから出ると、文恵さんは出掛けた後だった。
腹痛の原因を考え、寝る前に食べた柏餅が思い当たった。日中ずっと出しっぱなしだった上、日の当たる場所に出してあったことを思い出す。傷んでいたのだろう。幸い腹痛すぐに治まった。
首に不調をきたしてから、注意力が散漫になっている気がする。よく確認しないといけないなと反省する。
リビングに行くと、いつものように、朝食がセットされている。トーストにハムエッグ、それにサラダ。腹の調子が万全ではないので、朝食は昼食に回そうと、冷蔵庫にしまう。CDをかけながら、お茶を淹れる。
首が曲がってから、もう一ヶ月経つ。長いのか短いのかもよくわからなくなってきた。ほとんど家にいると、時間の観念がおかしくなる。
首が少しずつおかしくなってきた頃のことを思い返してみる。
ちょうど大学の後期の試験が終わり出した頃だった。大学は一月の定期試験が終了すると、学生はなし崩し的に春休みに突入する。一方で、正規の教職員は入試業務などに追われる。大学の二月一般入試が終わり、合否判定の会議も落ち着いてきた頃、私は自宅で論文の執筆構想をしていた。いつものように、机の右側にパソコン、左側に書籍を置いて、研究を進めていた。二年前くらいから酷くなりだした肩凝りが、この頃は慢性的になっていた。あまり外に出る機会もないし、普段から定期的な運動も行っていなかった。文恵さんからは再三「たまには運動しないと駄目だよ。段々、若い頃のようにはいかないんだから。夜更かしもほどほどにね」と言われ続けていた。
少しずつ体の不調は進んでいたのかもしれない。頭痛が一週間以上続いて、病院で脳の検査を行ったこともあった。私は片頭痛持ちではないので、これほど長く頭痛が続いたのは初めてだった。念のために行った検査結果に特に異常はなく、肩凝りからくるものだろうと結論づけられた。その後、しばらくすると頭痛も治まったが、首と肩の凝りは解消されなかった。定期的に凝りをほぐしにマッサージに通った。冬になると、肩が凝り、首が震えるようになったが、寒さのせいだとあまり気にしなかった。
三月の入試業務も終えて、一息ついていたある日の朝だった。パソコンに向かっていると、首に妙な違和感を覚えた。寒くもないのに、首が微かに震える。六畳の小さな一室で、エアコンも入れて、炬燵に入っている。寒いはずがない。そのまま気にせずに、パソコンに向かおうとするが、やはり首がおかしい。奇妙な感覚に襲われる。誰かが私を外部から所有して、私の首をコントロールしようとしている。何かが首を乗っ取っている。
研究論文の執筆と専任講師としての責務のプレッシャーが原因なのだろうか。
少し落ち着こうと、外に出た。今年の冬は特に寒かった。この時期になってもまだダウンジャケットが手放せない。私は気分転換に、大学まで行くことにした。北千住駅から、千代田線に乗り換えて、大学の研究室に向かった。
「松坂先生、珍しいね」
研究室で最年長の戸田さんだ。戸田さんは、五十歳で仕事を辞めて、この大学に入学してきた。前職は出版社で書籍の編集に携わっていたらしい。最終的には、編集長にもなって、役員だったらしいが、「俺には経営のセンスがない」と言って仕事を辞めて今に至る。
「何だか調子がでないんですよ」
「専任講師は大変ですか?もう学生の履歴書やエントリーシートの添削もしなくていいんですよね。これで文学一筋に専念できるじゃない。ほら、これでも食べてくださいよ」
戸部さんが高級そうなチョコレートをくれる。戸田さんはヨーロッパ好きで、欧州の文学と日本文学の比較についての研究を行っている。このチョコレートもきっとヨーロッパ産だろう。
今はどの大学も少子化で就職活動に力を入れている。私が現在勤務する大学に専任講師で採用される前は、非常勤として三校掛け持ちしていた。その一校では、キャリアセンターという就職関連の部署で履歴書やエントリーシートの添削も任されていた。要は国文学を専攻しているため、文章力には自信があると思われているのだ。もっとも、就職活動をしたことがないので、書類関係の添削しかできない。だが、学生はそんなことはわからない。面接や会社のことも質問してくる。こちらも一苦労だった。
「そういえば、戸部さんって健康雑誌の編集してましたよね?」
「四十歳の頃だったかな?健康関連の本は売れますからね。でも、逆に色々あり過ぎて、結局何がいいのかようわかんなくなったんですよ。松坂先生も体調悪いのなら専門家に、早く診てもらった方がいいですよ。まあ、書店に行けば多種多様な医療本もありますけどね」
しばらく研究室で雑談をして、図書館で調べ物をしてから、自宅に帰った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
愛する人は、貴方だけ
月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
下町で暮らすケイトは母と二人暮らし。ところが母は病に倒れ、ついに亡くなってしまう。亡くなる直前に母はケイトの父親がアークライト公爵だと告白した。
天涯孤独になったケイトの元にアークライト公爵家から使者がやって来て、ケイトは公爵家に引き取られた。
公爵家には三歳年上のブライアンがいた。跡継ぎがいないため遠縁から引き取られたというブライアン。彼はケイトに冷たい態度を取る。
平民上がりゆえに令嬢たちからは無視されているがケイトは気にしない。最初は冷たかったブライアン、第二王子アーサー、公爵令嬢ミレーヌ、幼馴染カイルとの交友を深めていく。
やがて戦争の足音が聞こえ、若者の青春を奪っていく。ケイトも無関係ではいられなかった……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】
伊緒さんのお嫁ご飯
三條すずしろ
ライト文芸
貴女がいるから、まっすぐ家に帰ります――。
伊緒さんが作ってくれる、おいしい「お嫁ご飯」が楽しみな僕。
子供のころから憧れていた小さな幸せに、ほっと心が癒されていきます。
ちょっぴり歴女な伊緒さんの、とっても温かい料理のお話。
「第1回ライト文芸大賞」大賞候補作品。
「エブリスタ」「カクヨム」「すずしろブログ」にも掲載中です!
麗しのラシェール
真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」
わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。
ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる?
これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。
…………………………………………………………………………………………
短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる