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2.この世は苦
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花開く万木百草の頃、私は家に閉じこもっていた。私を取り巻く世界が、視界の中で一斉にぐるりと音を立てて回った。曹洞宗の開祖、道元禅師は「正法眼蔵」の中で、美しく咲いた花に、宇宙の真理を悟ったというけれど、今の私には花の可憐さも世の中の動きもどうでもいいことだった。今は何もない砂漠の世界に一人ぼっちで残された気分だ。首の捻じれは、心の深い部分まで捻じってこようとするかのごとく容赦ない。もう自分は元の場所に戻れないのではないかと、虚無感が広がるばかりだ。周りの人は順調に人生を切り開いている。自分は足踏みしなければならない。苛立ちや虚しさを抱えたまま、ただ日々が過ぎていく。何の役にも立たない。何のために生きている。生産性のない今の自分に価値はあるのだろうか。きっと自暴自棄とはこういうときに使う言葉なのだろう。何の変化も起こせない。一人マンションで先の見えない未来とどう向き合うか。
人間は意味を考える生き物だという。私にもこうなった意味があるのだろうか。病気とは不思議なものだ。特に脳に関係する病気には謎が多い。現実感と非現実感が日々せめぎ合い、受け止めなければならないと思う自分と、それを拒否する自分がいる。月並みだが、夢であったならどんなに楽だろう。
自宅は手狭なマンションだが、高層階のため、眺めはいい。窓からは荒川、首都高、その奥にはスカイツリーも見える。真冬の澄み切った朝には、富士山だって臨めた。逃れるように上京してから、もう干支が一回りしたけれど、私はずっとこの土地に住み続けている。特段、引っ越す理由もないし、通学・通勤に適していた。上京した当初は、治安の悪いイメージが先立っていたが、大した事件もなく、毎日安全に暮らしてきた。
私は東京の大学を卒業して、大学院で修士課程、博士課程を修了し、しばらく非常勤講師の掛け持ちで食いつないできた。もっとも、それだけでは糊口を凌ぐのは難しい。図書館司書の資格を持つ妻が図書館で働き家計を支えていた。狭いマンションに私と妻ならば、何とか暮らしていける。ありがたいことに、昨春からは念願の専任講師として、採用もされていた。大学にも仕事にも慣れてきて、これからと言うときに、八方塞がりの状態に陥っていた。挫折感に締め付けられ、生への執着と諦観という矛盾した感情が交差する。
頭は冴えているのに、何をするにも疲労感が大きい。本も読みづらく、映画やテレビの視聴も疲れる。食欲はあるが、食べるのが大変なため、満足に味わうこともできない。唯一、聴覚的なことは煩わしさから解放され、自然に任せられる。
瞑目して、耳をすませる。部屋の中は、機械的な音が多い。冷蔵庫、ウォーターサーバー、点いていないテレビからも電子音が微かに聞こえる。外にも意識を向けてみる。下界の音にも耳をすましてみる。風の音、木々の葉音、鳥の囀り。空気の振動も感じることができる。耳に心地のよい響きが生まれ、淀んだ心の澱が少しだけ浄化されていく。ただ首は右を向いたままだ。さらに耳をすます。自分自身に耳をすます。自分の内面と向き合うように奥へ奥へと意識を潜らせる。漠とした無意識の自己の内面と対峙する。自分の感情や思考を落ち着かせようとコントロールする。
ブッタはこの世は苦であると喝破したという。私は今、人生の冷厳な事実に直面している。現実から逃避することはできない。覚悟を決めるしかない。どちらの覚悟だ?
人間は意味を考える生き物だという。私にもこうなった意味があるのだろうか。病気とは不思議なものだ。特に脳に関係する病気には謎が多い。現実感と非現実感が日々せめぎ合い、受け止めなければならないと思う自分と、それを拒否する自分がいる。月並みだが、夢であったならどんなに楽だろう。
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ブッタはこの世は苦であると喝破したという。私は今、人生の冷厳な事実に直面している。現実から逃避することはできない。覚悟を決めるしかない。どちらの覚悟だ?
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