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「あなた起きて」馴染み深い声だ。頭が朦朧としているが、誰の声かすぐにわかった。「美佐枝か?」

「寝ボケているの?早く起きてよ」

そうか全部夢だったのか。無人島も、あのウサギ人間も、でたらめな河童も、竜宮城も全て。思わず溜息が洩れる。

「美佐枝って誰よ。私は西の魔女よ。さあ夢泥棒を捕まえるのよ」

 安堵したのも束の間だった。先程の続きのようだ。

「ここは私の夢の中よ。美佐枝っていうのはあなたの奥様ね。たぶん私とあなたの脳内物質が混ざり合って、少し夢に影響が出ているようね。でもよくあることだから。気にしないでいいわ。そんなことより、犯人を探しださなくっちゃね」

夢泥棒を捕まえることができれば、今度こそ元の世界に戻れることを信じることにした。とりあえず前進あるのみだと自分に言い聞かせる。部屋を出て、薄暗い廊下を抜ける。玄関まで行くと、ピッタリの靴まである。

「これからどこへ?」

 これには西の魔女は答えず、玄関のドアを勢いよく開け放った。

 ドアの外は現実世界と錯覚するくらい、至って普通だ。眼前には高層マンションが林立している。間違いなく東京だ。タワーも見える。東京タワーに違いない。ここは十階くらいはありそうだ。エレベーターで一階に降りると、広壮なエントランスが待ち構える。

 入口の自動ドアの前には、コンシェルジュらしき男性が立っている。西の魔女はコンシェルジュに近づき、何か耳元で囁いた。すると、コンシェルジュは一旦奥へ下がった。

「どうしたんですか?」

 太一が怪訝な表情で言うと、西の魔女は茶目っ気たっぷりに笑った。

コンシェルジュが戻ってくると、手に何か持っていた。新聞紙に包まれている。

「お気をつけていってらっしゃいませ」

 西の魔女は礼を述べて、新聞紙の包みを手早く開ける。それを見て、一瞬ドキリとした。拳銃と弾丸だった。弾丸は六発。西の魔女は何も言わずに、銃に弾丸を込める。

「相手も武装している可能性があるからね。念のため持って行くわよ。撃ったことはあるわよね?」

当然のように言われたが、即座に否定する。本当はグアムに新婚旅行に言った際に、射撃をしたことはあった。が、そんな経験は何の役にも立ちそうにない。

「これからどこへ?」

「奴らのアジトに決まってるじゃない」

「奴ら?犯人は一人じゃないんですか?」

「誰も一人とは言ってないでしょ。運転はできるわよね?」

 エントランスを出ると、映画で観たことがあるようなスポーツカーが止まっている。マニュアルだったら、ちょっと難しいと思った。太一の心配を知ってか知らずか、魔女は「安心してよ、オートマだから」と言った。

 目的地まではカーナビが案内してくれたおかげで迷いそうにない。用賀インターから高速に乗る。

「ところでなぜ私に?」

 素朴な疑問だった。

「決まってるでしょ」西の魔女はやはり当然のように言う。

「それはあなたが一番よく知ってるんじゃないの?」

 どこかで同じ事を言われた気がする。そうだ、あのウサギ人間も同じようなことを言っていた。

「この世界が一体なんなのか。宇宙がどうだとか、自分次第だとか」

 急に苛立ってきた。

「何が夢泥棒だよ。これは一体何の茶番?」

「落ち着いて。これは全てあなた自身のことでもあるの」

「早く家に帰りたい。帰って美佐枝の作ったあったかいご飯が食べたい。子供たちと一緒に遊びたい。あったかい布団で眠りたい」狭い車内に叫び声が響く。

「後ろ!」

「後ろ?何が後ろだよ」

 チラリとバックミラーを見ると、ダンプカーが猛スピードで近づいている。咄嗟にアクセルを踏み込む。スポーツカーだけあって、一気に加速していく。ダンプカーも負けずに追ってくる。車の間を縫って、先に進んでいく。夢とはいえ、こんなにも運転技術があるとは思ってもいなかった。軽やかに車を交わしていく。

「今度は何なのさ?」

「私にもよくわからないわ」

 なぜ追われているのかもわからずに無我夢中でハンドルを操作する。先程よりも差が縮んでいる。

「これ以上は無理よ」

 メーターを見ると、計測器は振り切っている。スピードに慣れたせいか、はたまた夢だからか感覚がおかしくなっているようだ。時速三百キロを超えている。にもかかわらず、ダンプカーはすぐ後ろまでやってきている。

「もうだめだ」そう言った瞬間に全身に強い衝撃を受ける。追いついたダンブカーが後ろからぶつかってきている。衝撃のたびに、耳障りな金属音がする。どうせ夢だからとあきらめかけた。

「あそこ」西の魔女は冷静だ。

 まさかと思ったが、横目で西の魔女を見ると、頷いている。もうどうにでもなれといった気持ちでアクセル全開でハンドルを右に切った。ダンプカーは急カーブを曲がり切れずに、落下した。

数秒後、爆発音と共に黒煙が宙に舞った。

「ドリフトってゲームではしたことあったけど、まさか実際にするとは思わなかったよ」

「なかなかやるわね。さぁ先を急ぎましょ」  

 西の魔女は何事もなかったように、あっさりしている。高速を降りて、海岸線に出た。

「あのダンプカーは何だったんでしょうね?」

 ビーチラインは驚くほど空いている。

「カーアクションはつきものでしょ?」

「つきもの?」

「映画には」

「ここは映画の世界じゃないんですから」

「映画好きでしょ?」

 西の魔女が微笑む。

 確かに映画観賞は好きだ。
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