1 / 30
1.
しおりを挟む
ひどい頭痛で目が覚めた。一体ここはどこだ?自宅のベッドではないことだけは、確かだ。
意識が朦朧としている。働かない頭を使い、思考を巡らす。ゆっくりと上体を起こしてみる。ぼんやりとしながら、自分の置かれた状況を把握しようとする。
スーツにネクタイまで絞めている。ネクタイは誕生日プレゼントに家族からもらったものだ。娘が選んだという深紅のネクタイ。普段使いはできそうにないくらい、鮮やかな色をしている。
左右に首を振って、辺りを観察してみる。無秩序に生えた雑草が風に揺れている。
しばらく考えてみたけれど、自分の置かれている状況が全く理解できていない。
こめかみを手で押さえてみる。お酒を飲んだ時のように、ドクドクと心臓の鼓動が早くなる。夢?たった今、目覚めたわけだから、これが夢ならば、夢の中の夢になるのだろうか。
「ほっぺを叩いてごらんなさい」
幼稚園の帰り道で、母親に教えてもらった時のことを思い出す。
今でも鮮明に覚えている。太一は幼稚園に通園していた頃、お昼寝が大嫌いだった。お昼寝の時間によく嫌な夢を見ていたからだ。妖怪や悪魔、果ては得体の知れない怪物が襲ってくる夢を見ていた。
夢は目覚めてしまえば現実の世界に戻ってくる。この世界には妖怪も悪魔も得体の知れない怪物さえも存在しないはずだ。それなのに、子供の私は夢と現実の区別がつかなくなっていた。壁の染みを見て、幽霊だと騒いだ。暗闇に恐怖心を抱いた。そんな時、母は冷静かつ論理的に説明してくれたのだ。
母は太一の想像力を褒めてくれた。
「人間という生き物は想像力が豊かなのよ」
「ソウゾウリョク」
軽く右頬を平手で打つ。駄目だ。さらに力を込めて打つ。父親から殴られた時のことを思い出しただけだった。
夢ではないのか。
空を見上げると、雲ひとつない。どこまでも果てしなく青空が続いている。
父親は母親とは違った。短気だった。頭で考える前に手が出るタイプだ。絵に描いたような頑固親父で頻繁に殴られていた。母親も同様に殴られていた。今でもたまに思い出す。嫌な記憶が脳裏に過ぎる。
かすかに磯の香りがしてきた。方向感覚は全くない。燦々と照りつける太陽は、一番高い位置にありそうだ。どちらが東か西か見当も付かない。
大分意識もはっきりしてきた。とりあえず、草木をかき分けて、進んでみる。磯の香りがしてきた方向へ歩いた。しばらく歩くと、岩肌が現れてきた。ごつごつとした岩場を踏み進む。徐々に視界が開けてきた。気持ちが高ぶる。思わず走ってしまう。
視線の先には海が見えた。波打つ音も聞こえてくる。一面、大海原だ。見渡す限り、海しかない。空と海の境界線もあいまいだ。まさかとは思った。が、間違いなさそうだ。ここは島だ。それも無人島の可能性が限りなく高い。根拠はないけれど、そんな気がしてきた。
確かめるべく、周囲を散策することにした。歩き回ると、この島は山のような形状をしていることがわかった。島の中心に向かって起伏している。中心の頂に行けば何かあるかもしれない。淡い期待を抱く。
さらに歩き続けたところで、あることに気がついた。太陽の位置が変わっていない。全く変わっていないのだ。反射的に左手首を見る。腕時計はしていない。感覚では目覚めてから、すでに一時間くらい経っている気がする。
もう一度空を見上げる。いつまで経っても、頭上の太陽は西へ沈んでいかない。南中のままだ。
降り注ぐ太陽光を浴びながら、しばし呆然としていると、音がした。草を踏みつけるような音だ。音がした方向に目を向ける。
ウサギだ。白いウサギの頭が草に隠れたのが見えた。一瞬だったが、間違いない。あれはウサギだった。
生物が生息している。見失わないように、隠れた場所を目がけて追いかけた。必至になってウサギを探す。勾配のためか、息が切れてくる。どうやら見失ってしまったようだ。一瞬、幻覚だろうかと考えた。いやあれは確かにウサギだった。
肩を上下に揺する。落ち着くためには深呼吸が一番だ。思い切り肺に空気を送り込む。
「こっちだよ」
前方から人の声が聞こえてくる。私は一瞬固まってしまった。人間もいるのか。ここは無人島ではなかったのか。
久しぶりに聞いた、人間の声だ。藁をもすがる思いで、声の方向へ駆け出した。
声に誘われて進んでいくが、ふいに何かにつまづき、転んでしまった。ちょうど転んだ勢いで飛び出た先に、巨木が立ちはだかった。悠然とそびえ立つその巨木は、両手を伸ばしても掴めそうにない。何年か前に家族旅行で見に行った屋久杉を思い出した。神聖な雰囲気がある。あの感覚だ。
そういえば、声の主はどこにいったのだろうか。巨木に近づいてみた。至近距離だと、圧倒的な迫力がある。上を見上げると太い幹に青々と葉っぱが生い茂っている。巨木の下からでは、空が見えない。そこだけ別世界だ。別世界というのも変かもしれない。いつもの生活に比べれば、この島自体がもはや別世界だからだ。
巨木を周回してみる。ちょうど真裏に来てみると、あるものに目が止まった。ドアノブのような取っ手が付いている。不審に思いながらも、取っ手に手をかけようとした。すると、取っ手が開きかけたことに気づき、私は瞬時に手を放した。放した手にはじんわりと汗が浮き出てくる。心臓も高鳴る。
ドアがゆっくりと開けられた。愕然とした。巨木から出てきたのは、ウサギで太一に向かって「はじめまして」と言うではないか。それよりももっと驚かされたのは、ウサギはウサギでも顔から下はどう見ても人間だ。ウサギの頭にタキシードを着た人間の胴体がくっついている。おまけに喋り出す始末だ。
やはり夢だ。これは悪夢だ。何度も頭をひっぱたき、腿をつねる。
「太一さん何をしているのですか?これは夢なんかじゃありませんよ」
ウサギはなおも続ける。
「これは紛れもない現実です。田島太一、四十二歳、厄年。仕事は高校教師。厳密に言えば、教師だった、ということになります」
当たっている。混乱した頭の配線をひとつひとつ繋いでいく。落ち着こうと思えば思う程、頭はパンクしそうだ。思考が追いつかない。大きくかぶりを振る。
「目が覚めたら、そこは無人島。やっと誰かいると思ったら、ヘンテコなウサギ人間の登場、これが現実だと受け入れられると思うかい?」
太一は一気に捲くし立てる。
「太一さん、ヘンテコなウサギ人間とは失礼じゃありませんか。わたくしにはれっきとした名前がございます」
「おまえに名前があるのか?」
投げやりに言う。
「城之内アリスでございます」
こんな状況とはいえ、思わず吹き出してしまった。お前はハーフかと心の中つぶやいたが、実際人間とウサギのハーフだなと無意味ながら思いなおした。
「単刀直入に言うけどさ、どうすればこの悪夢から抜け出せるのさ?」
「抜け出すも何もありませんよ。ここはある意味現実世界なんですから」
「ある意味?」
太一は眉根を寄せる。
「ある意味とはどういうことさ?」
「それは太一さんが一番よく知っているはずです。真実はひとつだけです」
城之内はそう言って、巨木の中に入っていった。太一も慌てて追う。
ドアを開けて中に入ろうと、足を入れた途端、頭からまっさかさまに落ちていった。落ちている感覚はあるが、なんだか妙だ。ふわふわしている。落下速度が遅いのだ。宙に舞う羽のように、ゆったりと落ちていく。
最初は暗くて何も見えなかったので、得体の知れない恐怖を感じた。子供の時と同じだ。これは夢だ。夢なんだと何度も言い聞かせる。
漆黒の闇が視界に立ちはだかる。口を真一文字に結び、目を瞑る。
次第にこの浮遊感と暗闇に目が慣れたせいか、落ち着いてきた。が、目が慣れたせいではなかったようだ。何かが下からやってきている。一筋の閃光だ、と思った刹那、身体全体を覆うように光が突き抜けていく。
「ここは小宇宙でございます」
気がつくと、隣に城之内が浮いていた。城之内はのんきに手を振っている。
「宇宙ではなくて、なんで小宇宙?」
私はもはや何でもござれといった境地になっていた。
「マルチバースともいいます。小宇宙の集合体が形成されて、いわゆるあなたがおっしゃる宇宙になるのですよ。このような小宇宙は無数にあります。そして、それは消えては生まれ、生まれては消えていく定めなのでございます。宇宙というのは、あなたが思っている以上に奇妙ですよ。あなたには想像できないくらいに奇妙です。さぁそろそろ到着しますよ。後はあなた次第です。あなたが今まで存在していた世界では意識しなかったものに出会うことでしょう」
そう城之内が言い終えると私は田園風景が広がる農道に佇んでいた。
意識が朦朧としている。働かない頭を使い、思考を巡らす。ゆっくりと上体を起こしてみる。ぼんやりとしながら、自分の置かれた状況を把握しようとする。
スーツにネクタイまで絞めている。ネクタイは誕生日プレゼントに家族からもらったものだ。娘が選んだという深紅のネクタイ。普段使いはできそうにないくらい、鮮やかな色をしている。
左右に首を振って、辺りを観察してみる。無秩序に生えた雑草が風に揺れている。
しばらく考えてみたけれど、自分の置かれている状況が全く理解できていない。
こめかみを手で押さえてみる。お酒を飲んだ時のように、ドクドクと心臓の鼓動が早くなる。夢?たった今、目覚めたわけだから、これが夢ならば、夢の中の夢になるのだろうか。
「ほっぺを叩いてごらんなさい」
幼稚園の帰り道で、母親に教えてもらった時のことを思い出す。
今でも鮮明に覚えている。太一は幼稚園に通園していた頃、お昼寝が大嫌いだった。お昼寝の時間によく嫌な夢を見ていたからだ。妖怪や悪魔、果ては得体の知れない怪物が襲ってくる夢を見ていた。
夢は目覚めてしまえば現実の世界に戻ってくる。この世界には妖怪も悪魔も得体の知れない怪物さえも存在しないはずだ。それなのに、子供の私は夢と現実の区別がつかなくなっていた。壁の染みを見て、幽霊だと騒いだ。暗闇に恐怖心を抱いた。そんな時、母は冷静かつ論理的に説明してくれたのだ。
母は太一の想像力を褒めてくれた。
「人間という生き物は想像力が豊かなのよ」
「ソウゾウリョク」
軽く右頬を平手で打つ。駄目だ。さらに力を込めて打つ。父親から殴られた時のことを思い出しただけだった。
夢ではないのか。
空を見上げると、雲ひとつない。どこまでも果てしなく青空が続いている。
父親は母親とは違った。短気だった。頭で考える前に手が出るタイプだ。絵に描いたような頑固親父で頻繁に殴られていた。母親も同様に殴られていた。今でもたまに思い出す。嫌な記憶が脳裏に過ぎる。
かすかに磯の香りがしてきた。方向感覚は全くない。燦々と照りつける太陽は、一番高い位置にありそうだ。どちらが東か西か見当も付かない。
大分意識もはっきりしてきた。とりあえず、草木をかき分けて、進んでみる。磯の香りがしてきた方向へ歩いた。しばらく歩くと、岩肌が現れてきた。ごつごつとした岩場を踏み進む。徐々に視界が開けてきた。気持ちが高ぶる。思わず走ってしまう。
視線の先には海が見えた。波打つ音も聞こえてくる。一面、大海原だ。見渡す限り、海しかない。空と海の境界線もあいまいだ。まさかとは思った。が、間違いなさそうだ。ここは島だ。それも無人島の可能性が限りなく高い。根拠はないけれど、そんな気がしてきた。
確かめるべく、周囲を散策することにした。歩き回ると、この島は山のような形状をしていることがわかった。島の中心に向かって起伏している。中心の頂に行けば何かあるかもしれない。淡い期待を抱く。
さらに歩き続けたところで、あることに気がついた。太陽の位置が変わっていない。全く変わっていないのだ。反射的に左手首を見る。腕時計はしていない。感覚では目覚めてから、すでに一時間くらい経っている気がする。
もう一度空を見上げる。いつまで経っても、頭上の太陽は西へ沈んでいかない。南中のままだ。
降り注ぐ太陽光を浴びながら、しばし呆然としていると、音がした。草を踏みつけるような音だ。音がした方向に目を向ける。
ウサギだ。白いウサギの頭が草に隠れたのが見えた。一瞬だったが、間違いない。あれはウサギだった。
生物が生息している。見失わないように、隠れた場所を目がけて追いかけた。必至になってウサギを探す。勾配のためか、息が切れてくる。どうやら見失ってしまったようだ。一瞬、幻覚だろうかと考えた。いやあれは確かにウサギだった。
肩を上下に揺する。落ち着くためには深呼吸が一番だ。思い切り肺に空気を送り込む。
「こっちだよ」
前方から人の声が聞こえてくる。私は一瞬固まってしまった。人間もいるのか。ここは無人島ではなかったのか。
久しぶりに聞いた、人間の声だ。藁をもすがる思いで、声の方向へ駆け出した。
声に誘われて進んでいくが、ふいに何かにつまづき、転んでしまった。ちょうど転んだ勢いで飛び出た先に、巨木が立ちはだかった。悠然とそびえ立つその巨木は、両手を伸ばしても掴めそうにない。何年か前に家族旅行で見に行った屋久杉を思い出した。神聖な雰囲気がある。あの感覚だ。
そういえば、声の主はどこにいったのだろうか。巨木に近づいてみた。至近距離だと、圧倒的な迫力がある。上を見上げると太い幹に青々と葉っぱが生い茂っている。巨木の下からでは、空が見えない。そこだけ別世界だ。別世界というのも変かもしれない。いつもの生活に比べれば、この島自体がもはや別世界だからだ。
巨木を周回してみる。ちょうど真裏に来てみると、あるものに目が止まった。ドアノブのような取っ手が付いている。不審に思いながらも、取っ手に手をかけようとした。すると、取っ手が開きかけたことに気づき、私は瞬時に手を放した。放した手にはじんわりと汗が浮き出てくる。心臓も高鳴る。
ドアがゆっくりと開けられた。愕然とした。巨木から出てきたのは、ウサギで太一に向かって「はじめまして」と言うではないか。それよりももっと驚かされたのは、ウサギはウサギでも顔から下はどう見ても人間だ。ウサギの頭にタキシードを着た人間の胴体がくっついている。おまけに喋り出す始末だ。
やはり夢だ。これは悪夢だ。何度も頭をひっぱたき、腿をつねる。
「太一さん何をしているのですか?これは夢なんかじゃありませんよ」
ウサギはなおも続ける。
「これは紛れもない現実です。田島太一、四十二歳、厄年。仕事は高校教師。厳密に言えば、教師だった、ということになります」
当たっている。混乱した頭の配線をひとつひとつ繋いでいく。落ち着こうと思えば思う程、頭はパンクしそうだ。思考が追いつかない。大きくかぶりを振る。
「目が覚めたら、そこは無人島。やっと誰かいると思ったら、ヘンテコなウサギ人間の登場、これが現実だと受け入れられると思うかい?」
太一は一気に捲くし立てる。
「太一さん、ヘンテコなウサギ人間とは失礼じゃありませんか。わたくしにはれっきとした名前がございます」
「おまえに名前があるのか?」
投げやりに言う。
「城之内アリスでございます」
こんな状況とはいえ、思わず吹き出してしまった。お前はハーフかと心の中つぶやいたが、実際人間とウサギのハーフだなと無意味ながら思いなおした。
「単刀直入に言うけどさ、どうすればこの悪夢から抜け出せるのさ?」
「抜け出すも何もありませんよ。ここはある意味現実世界なんですから」
「ある意味?」
太一は眉根を寄せる。
「ある意味とはどういうことさ?」
「それは太一さんが一番よく知っているはずです。真実はひとつだけです」
城之内はそう言って、巨木の中に入っていった。太一も慌てて追う。
ドアを開けて中に入ろうと、足を入れた途端、頭からまっさかさまに落ちていった。落ちている感覚はあるが、なんだか妙だ。ふわふわしている。落下速度が遅いのだ。宙に舞う羽のように、ゆったりと落ちていく。
最初は暗くて何も見えなかったので、得体の知れない恐怖を感じた。子供の時と同じだ。これは夢だ。夢なんだと何度も言い聞かせる。
漆黒の闇が視界に立ちはだかる。口を真一文字に結び、目を瞑る。
次第にこの浮遊感と暗闇に目が慣れたせいか、落ち着いてきた。が、目が慣れたせいではなかったようだ。何かが下からやってきている。一筋の閃光だ、と思った刹那、身体全体を覆うように光が突き抜けていく。
「ここは小宇宙でございます」
気がつくと、隣に城之内が浮いていた。城之内はのんきに手を振っている。
「宇宙ではなくて、なんで小宇宙?」
私はもはや何でもござれといった境地になっていた。
「マルチバースともいいます。小宇宙の集合体が形成されて、いわゆるあなたがおっしゃる宇宙になるのですよ。このような小宇宙は無数にあります。そして、それは消えては生まれ、生まれては消えていく定めなのでございます。宇宙というのは、あなたが思っている以上に奇妙ですよ。あなたには想像できないくらいに奇妙です。さぁそろそろ到着しますよ。後はあなた次第です。あなたが今まで存在していた世界では意識しなかったものに出会うことでしょう」
そう城之内が言い終えると私は田園風景が広がる農道に佇んでいた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
5
1 / 2
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる