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今日の上野のバーは、空いていた。奥のテーブル席にカップルの客が二組。両方とも二人きりの雰囲気がなかなかよいように見える。そして、それを邪魔されたくないらしく、航太には注文以外にからんでくることもない。カウンターに座る客がいないのもいいものだ。カウンターの中で航太はグラスを磨きながら思った。グラスをピカピカに磨き上げると、また次のグラスに取り掛かれる。手にした布は、綿百パーセントではなく、いくらか麻が混ざっている。バイトを始めた頃は、普通のふきんを使っていた。磨くというよりも、水滴の乾いた跡を擦って消しているという作業だったと思う。しかし、ある時客からふきんに麻が少し混ざっている方がピカピカに磨けると教えてもらった。航太は翌日店が開く前に早速言われた通りのふきんを調達した。ふきんの糊をしっかり落として乾かした後、くすんだグラスを丁寧に撫でていった。グラスは見事なほどに輝いた。薄暗い店内でも、見違えるくらいの変化が見て取れた。その時はちょっとした感動を覚えたものだ。それ以来、誰に指示されるわけでもなく、航太はグラス磨きを好んでやっている。見えない汚れを丁寧に拭き取り、輝かせ、光に当てるという作業を繰り返す。客がいない時にこの作業に没頭していると思うことがある。こんなふうに丁寧に家族の心に接していたら、見えない汚れを拭い去ることができたのではなかったか、と。これは自分の家族に向けてするべきことだったのではないか、と。死んでしまった母親と死んだような妹に向けて。
無心にグラスを磨きあげることは、航太にとって贖罪の意味を持つのかもしれなかった。
初めて磨いたグラスの輝きを確かめた時の感動。あれは、多分、くすんだ自分自身の心にこそ求めていたものを目にした感動だったのだろう。
自分も、それから妹の真帆も、このままではいけないのはわかっていた。兄妹そろって、暗雲が立ち込めたような暗い毎日から抜け出さなくてはならない。もうやめにしよう。航太は輝くグラスを明かりに透かしながら、固く心に思った。
では、どうすればいいだろうか。航太の頭には、二人の友人が思い浮かんだ。真帆を二人に合わせてみたらどうだろうか。兄妹だけでどうこうしてみても、何の打開策も見出せないような気がした。これまでがそうだったように。
自分たちとは違う二人なら、何か違う色の光を当ててくれるように思える。しかし、男性二人を前にしてあの真帆が心を開くだろうか。真帆を変えたのは、母の死ではない。引き取られた伯父夫婦の店での出来事があってからだ。あの時から真帆は人間嫌いになり、ひどく神経質になり、心を閉ざした。特に男性に対する拒絶反応は病的だ。
兄貴面をして手を伸ばしたところで、真帆の心は少しも救われていないのだろう。もはや、自分が助言することで、真帆が明るい道にもどるとは考えられない。自分の妹ながら、真帆のことがわからなかった。
真帆が心を閉ざしてから、いつか死のうとするのではないかと心配していた時期があった。母の死から数年経たずに妹に先立たれる恐怖に絶えられなくなり「死ぬな」と言ったことがある。真帆は「私は死んだりしない」ときつい目をして言った。どういう気持ちでそう言ったのかは聞けなかった。母親の命と引き換えにした人生だからなのか、とも。
現状から抜け出すことを考え出して、初めて妹を持て余していることに気づかされた。
母が死んだ。真帆が夕日に染まって立っていたあのベランダから。
これまでは、そう感じないように努めてきたが、認めざるえなかった。自分は真帆を怖れている。母親が死んだあの日からずっと
無心にグラスを磨きあげることは、航太にとって贖罪の意味を持つのかもしれなかった。
初めて磨いたグラスの輝きを確かめた時の感動。あれは、多分、くすんだ自分自身の心にこそ求めていたものを目にした感動だったのだろう。
自分も、それから妹の真帆も、このままではいけないのはわかっていた。兄妹そろって、暗雲が立ち込めたような暗い毎日から抜け出さなくてはならない。もうやめにしよう。航太は輝くグラスを明かりに透かしながら、固く心に思った。
では、どうすればいいだろうか。航太の頭には、二人の友人が思い浮かんだ。真帆を二人に合わせてみたらどうだろうか。兄妹だけでどうこうしてみても、何の打開策も見出せないような気がした。これまでがそうだったように。
自分たちとは違う二人なら、何か違う色の光を当ててくれるように思える。しかし、男性二人を前にしてあの真帆が心を開くだろうか。真帆を変えたのは、母の死ではない。引き取られた伯父夫婦の店での出来事があってからだ。あの時から真帆は人間嫌いになり、ひどく神経質になり、心を閉ざした。特に男性に対する拒絶反応は病的だ。
兄貴面をして手を伸ばしたところで、真帆の心は少しも救われていないのだろう。もはや、自分が助言することで、真帆が明るい道にもどるとは考えられない。自分の妹ながら、真帆のことがわからなかった。
真帆が心を閉ざしてから、いつか死のうとするのではないかと心配していた時期があった。母の死から数年経たずに妹に先立たれる恐怖に絶えられなくなり「死ぬな」と言ったことがある。真帆は「私は死んだりしない」ときつい目をして言った。どういう気持ちでそう言ったのかは聞けなかった。母親の命と引き換えにした人生だからなのか、とも。
現状から抜け出すことを考え出して、初めて妹を持て余していることに気づかされた。
母が死んだ。真帆が夕日に染まって立っていたあのベランダから。
これまでは、そう感じないように努めてきたが、認めざるえなかった。自分は真帆を怖れている。母親が死んだあの日からずっと
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