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第2章 記憶と相棒
第14話 後顧
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小型ながらも、荒魂は荒魂だ。その膂力は常人を遥かに超えていた。徐々に由美の足先が地面から離れる。
「あ、あああああ」
頭皮だけで全体重を支える痛みは筆舌に尽くしがたいものだった。思考が霞み、意味のない叫び声のみが口から吐き出される。脚と腕を暴れさせるも、荒魂の腕は微動だにしない。身体を揺らした分、痛みが増すだけだった。
ぎょろりと突き出た双眸は由美を見つめたままだ。通常の荒魂であれば、既に存在を喰われている。空中での奇襲、そして髪を掴むという人間のような行為、違和感は募るばかりだった。
『矢辻、奴の腕を斬れ!』
哉太の意思を受け、必死に集中し小刀を造りだした。思考が痛みに持っていかれる。この状況ではこれが精一杯だった。
「あ! あっ!」
荒魂の腕を斬りつけるが、長さが足りず切断することはできない。何度試したところで、傷を付けては塞がるの繰り返しだった。雲を切るような手ごたえに、由美の焦りは募る。
「だめ……斬れない!」
『刀を伸ばせ!』
「で、できない!」
今は何らかの理由で由美を弄んでいる。ただし、荒魂には変わりない。いつか飽きれば、空いた左拳で頭を潰されるだろう。そして、父や母、妹のように喰われるのだ。
自分のいた痕跡はなくなり、誰からも顧みられることは無くなってしまう。結衣、優子、組織の皆、紗奈子の顔が順に頭に浮かんでは消えていった。
「嫌、嫌だ……」
自分の存在が消える。これまでの戦いの中、自分に関する恐怖は感じたことがなかった。これからもそのつもりだった。しかし今、恐怖に喘いでいる。
死に対して達観した気になっているだけだった。直接的な痛みを受けてしまえば、簡単に覆ってしまう。そんな自らを嘲笑った。
『矢辻、髪を斬れ!』
「髪?」
哉太の指示は、由美にとって想定外だった。髪を切るなどという発想は、そもそも出るはずのないものだ。だからこそ、すぐには反応できなかった。
「で、でも……」
『考えてる暇はない! 早くしろ!』
増すばかりの痛みに、なにも考えられなくなる。頭に浮かぶのは、もう会えない初恋の相手だった。
由美が優子に引き取られた時には、彼は後衛として代人を務めていた。賢く、優しく、強い大人に見えた。心を閉ざしていた由美の拠り所になるのは充分であった。
「久兄……」
『久兄?』
組織の中でも殆どの者は久隆のことを詳しく覚えていない。せいぜいが、先代の後衛は力の使い過ぎで消えたという程度だ。由美の記憶に残っていることは、かなりの異例であった。
彼が褒めてくれた髪は、残された最後の形あるものだった。それを切ってしまえば、自分も周りの皆と同じく忘れてしまうかもしれない。少なくとも今の由美は、死への恐怖と絆を失う恐怖を同列に比較することができなかった。
葛藤に葛藤を重ねる由美に満足したのか、荒魂が左の拳を握った。間もなくそれが自分を貫くだろうと、おぼろげに理解できていた。
『矢辻どうした? 早く!』
「切れない……」
『なんでだよ!』
由美の意識の中に、哉太の意識が更に深く入って来る。恐らく、戸惑っている理由を探すためだ。過ぎた痛みが痺れに変わってきた頃だった。思考のまとまらない由美は、それに抗うことができない。
前回の戦いの時に自分もしたことだ。多少状況は違うが、相手を救おうとする行為に違いはない。
「助けて……」
それは、誰に向けて何の意図で放ったのかわからない。命を救ってほしいのか、過去の想いを救ってほしいのか。それとも、その両方なのか。
『ああ、任せろ』
きっと、色々なものを見られてしまっているだろう。家族を失った絶望も、学校での孤立も、少女だった自分のささやかな気持ちも。
『矢辻、俺に委ねてくれ』
力強い言葉が由美の頭に響く。呼応するようにして、右腕が自らの意思を無視して動き出した。その手には、先ほど造りだした青白く輝く短刀が握られたままだ。
どうやら、哉太の《伝》によって動かされているようだ。なぜそんなことができるのか、由美には理解ができない。ただの事実として、焦点の定まらない瞳が自分の腕を見つめている。
『覗き見てごめん。でも、俺を救った責任は取ってもらうよ』
「責任?」
『死なれちゃ、困るってことだよ』
哉太の意思を受けた由美の右手が、長い黒髪を切り落とした。
つま先が地面に付いた時、荒魂の拳は眼前へと迫っていた。
「ふぅっ!」
痛みから解放された思考は、自らの状況よりも目先にある危険に反応した。研ぎ澄まされた感覚は、新たに武器を造りだしている余裕はないと直感的に判断する。
由美は《動》の力を集中させ、頭上にあった腕を素早く顔の前へと戻した。縦に突き出した小刀が、小型荒魂の腕を一直線に斬り裂く。
「だあぁ!」
叫びながら全力で前蹴りを繰り出す。鳩尾のあたりに由美の足がめり込み、後方へと吹き飛んだ。大きさに比例し、通常の荒魂よりも軽い感覚だ。由美は自分が涙を流していることに気が付いた。
絶叫したまま倒れこんだ荒魂へと馬乗りになり、その胸へ小刀を突き刺す。三度目に突き立てた際、核を破壊する感触があった。
霧散する荒魂を見下ろした後、由美は空を見上げた。後頭部がいつもより軽い。そこでようやく、過去を繋ぎ止めていた絆を失ったことを認識した。
『矢辻……』
この夜は以降、荒魂が出現することはなかった。
「あ、あああああ」
頭皮だけで全体重を支える痛みは筆舌に尽くしがたいものだった。思考が霞み、意味のない叫び声のみが口から吐き出される。脚と腕を暴れさせるも、荒魂の腕は微動だにしない。身体を揺らした分、痛みが増すだけだった。
ぎょろりと突き出た双眸は由美を見つめたままだ。通常の荒魂であれば、既に存在を喰われている。空中での奇襲、そして髪を掴むという人間のような行為、違和感は募るばかりだった。
『矢辻、奴の腕を斬れ!』
哉太の意思を受け、必死に集中し小刀を造りだした。思考が痛みに持っていかれる。この状況ではこれが精一杯だった。
「あ! あっ!」
荒魂の腕を斬りつけるが、長さが足りず切断することはできない。何度試したところで、傷を付けては塞がるの繰り返しだった。雲を切るような手ごたえに、由美の焦りは募る。
「だめ……斬れない!」
『刀を伸ばせ!』
「で、できない!」
今は何らかの理由で由美を弄んでいる。ただし、荒魂には変わりない。いつか飽きれば、空いた左拳で頭を潰されるだろう。そして、父や母、妹のように喰われるのだ。
自分のいた痕跡はなくなり、誰からも顧みられることは無くなってしまう。結衣、優子、組織の皆、紗奈子の顔が順に頭に浮かんでは消えていった。
「嫌、嫌だ……」
自分の存在が消える。これまでの戦いの中、自分に関する恐怖は感じたことがなかった。これからもそのつもりだった。しかし今、恐怖に喘いでいる。
死に対して達観した気になっているだけだった。直接的な痛みを受けてしまえば、簡単に覆ってしまう。そんな自らを嘲笑った。
『矢辻、髪を斬れ!』
「髪?」
哉太の指示は、由美にとって想定外だった。髪を切るなどという発想は、そもそも出るはずのないものだ。だからこそ、すぐには反応できなかった。
「で、でも……」
『考えてる暇はない! 早くしろ!』
増すばかりの痛みに、なにも考えられなくなる。頭に浮かぶのは、もう会えない初恋の相手だった。
由美が優子に引き取られた時には、彼は後衛として代人を務めていた。賢く、優しく、強い大人に見えた。心を閉ざしていた由美の拠り所になるのは充分であった。
「久兄……」
『久兄?』
組織の中でも殆どの者は久隆のことを詳しく覚えていない。せいぜいが、先代の後衛は力の使い過ぎで消えたという程度だ。由美の記憶に残っていることは、かなりの異例であった。
彼が褒めてくれた髪は、残された最後の形あるものだった。それを切ってしまえば、自分も周りの皆と同じく忘れてしまうかもしれない。少なくとも今の由美は、死への恐怖と絆を失う恐怖を同列に比較することができなかった。
葛藤に葛藤を重ねる由美に満足したのか、荒魂が左の拳を握った。間もなくそれが自分を貫くだろうと、おぼろげに理解できていた。
『矢辻どうした? 早く!』
「切れない……」
『なんでだよ!』
由美の意識の中に、哉太の意識が更に深く入って来る。恐らく、戸惑っている理由を探すためだ。過ぎた痛みが痺れに変わってきた頃だった。思考のまとまらない由美は、それに抗うことができない。
前回の戦いの時に自分もしたことだ。多少状況は違うが、相手を救おうとする行為に違いはない。
「助けて……」
それは、誰に向けて何の意図で放ったのかわからない。命を救ってほしいのか、過去の想いを救ってほしいのか。それとも、その両方なのか。
『ああ、任せろ』
きっと、色々なものを見られてしまっているだろう。家族を失った絶望も、学校での孤立も、少女だった自分のささやかな気持ちも。
『矢辻、俺に委ねてくれ』
力強い言葉が由美の頭に響く。呼応するようにして、右腕が自らの意思を無視して動き出した。その手には、先ほど造りだした青白く輝く短刀が握られたままだ。
どうやら、哉太の《伝》によって動かされているようだ。なぜそんなことができるのか、由美には理解ができない。ただの事実として、焦点の定まらない瞳が自分の腕を見つめている。
『覗き見てごめん。でも、俺を救った責任は取ってもらうよ』
「責任?」
『死なれちゃ、困るってことだよ』
哉太の意思を受けた由美の右手が、長い黒髪を切り落とした。
つま先が地面に付いた時、荒魂の拳は眼前へと迫っていた。
「ふぅっ!」
痛みから解放された思考は、自らの状況よりも目先にある危険に反応した。研ぎ澄まされた感覚は、新たに武器を造りだしている余裕はないと直感的に判断する。
由美は《動》の力を集中させ、頭上にあった腕を素早く顔の前へと戻した。縦に突き出した小刀が、小型荒魂の腕を一直線に斬り裂く。
「だあぁ!」
叫びながら全力で前蹴りを繰り出す。鳩尾のあたりに由美の足がめり込み、後方へと吹き飛んだ。大きさに比例し、通常の荒魂よりも軽い感覚だ。由美は自分が涙を流していることに気が付いた。
絶叫したまま倒れこんだ荒魂へと馬乗りになり、その胸へ小刀を突き刺す。三度目に突き立てた際、核を破壊する感触があった。
霧散する荒魂を見下ろした後、由美は空を見上げた。後頭部がいつもより軽い。そこでようやく、過去を繋ぎ止めていた絆を失ったことを認識した。
『矢辻……』
この夜は以降、荒魂が出現することはなかった。
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