月のない夜、命は仄青く光る

日諸 畔(ひもろ ほとり)

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第1章 夜空の出陣

第1話 一閃

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 頭上には月のない夜空。眼下には昼間の熱気を残したままの街と、人々の喧騒。
 矢辻やつじ 由美ゆみは、ややつり気味の瞳を軽く閉じる。一陣の風が吹き、後頭部で括った長い黒髪を揺らした。
 額に滲んだ汗が少しだけ冷え、由美はひとつ息をついた。やや厚めの唇は、すぐに小さく引き締められる。冬には十七歳となる年齢にしては、大人びた美しい容姿を持っていた。
 
 長身の少女がひとり佇むのは、ビル屋上の外縁。幕森まくもり駅近くにそびえる十二階建てのビルは、この近辺では最も背の高い建造物だ。
 通常は立ち入り禁止のため、柵などはない。一歩踏み出せば大事故となるような場所だ。由美がここにいるのは、この日に限った特別対応である。
 
 ゆっくりと目を開けた由美は、街を見下ろした。駅から吐き出された大勢の人々は、家路を急いだり駅前の歓楽街に吸い込まれたりしている。
 何の変哲もない、平和な夜の風景だった。
 
 由美はこれから、この風景を守るため、敵と戦う。そして、彼らはそれに気付くことなく日常を送る。新月の夜にだけ力を失う土地神に代わり、力を得る《代人かわりびと》たる者の使命である。
 だから、まともな人間であれば足がすくむような場所でも、何も感じない。自身の危険に対しての恐怖など、由美にとっては存在しないも同義だった。
 
『時間だよ』

 右耳に引っ掛けたインカムから、雑音交じりに女性の声が聞こえた。短く用件だけ伝えるのは、由美の義理の姉であり、上役でもある矢辻 結衣ゆいだ。彼女の他に、計十三名が由美の支援にあたっている。
 
 この地には、由美と同じ使命を与えられた者たちがいる。代々の血筋であったり、政府からの特命であったり、理由は様々だ。
 記録に残っている限り五百年は続いている組織だと、由美は教えられていた。決して表舞台には上がらないため、敢えて名前は付けられていないらしい。
 
『よろしく』
「はい」
 
 指示を受けた由美は、広げた両掌を合わせる。これから由美が行使するのは、代人の力のひとつである《調しらべ》。自身の意識を広げ、広範囲を認識調査するものだ。ビルの屋上にいたのは、周囲の建物が探知の阻害となることを避けるためだった。
 《調》を発動する際、自分の意思が肉体を離れるような感覚がある。これには言葉では表現しにくい不安感や開放感が伴う。由美にとってはこれまで数えきれない程繰り返してきた行為だが、到底慣れることはないと断言できる。

「発動完了しました」
 
 自分の肉体がインカムに向け声を発している。由美の意識はまるで他人事のように、その光景を把握していた。

『兆候は?』
「ありました。北側、繁華街と住宅街の境目あたりにひとつ。駅前広場にひとつ」
『ようやくね。人払いを向かわせるわ』
 
 敵が出現する時間は新月の夜という点以外は不規則だ。ただし、現れる前の兆候を《調》で見つけることができた。それは代人だけに認識できる、空気や空間の揺らぎのようなものだった。
 
 由美は日が落ちてからこれまで、五分おきに《調》の力を使っている。今の時刻は午後八時過ぎ。一時間以上も緊張し続けていれば、それだけで疲労は蓄積していた。だが、あえてそれを報告する必要性も感じず、由美はただただ指示に従っていた。

『ひとりで無理させてごめんね』
「いえ」

 申し訳なさそうな結衣の声が届く。それを感じながら、由美は自分の肉体に否定する返事を発させた。結衣の謝辞は、決して由美を救いたいというものではないと知っているからだ。
 
 代人は本来、二人一組で活動する。敵と直接戦う者と、後方で指揮や支援を行う者だ。《調》の力は通常であれば後者が行使するものだ。しかし現在は、代人たる才を発揮する者が由美だけという状況だ。
 苦肉の策として、力の発動を最低限に抑えた支援体制を確立させていた。それでも由美の負担は計り知れない。結衣の発言は、義理の妹に向けた後ろめたさの表れでもあった。

『早いのは?』
「ほぼ同時です」
『発現までに潰せる?』
「両方、難しいです」

 駅前広場の兆候は、すでに形を成しつつあった。
 二メートル程の、人の形を模した巨躯。
 筋肉のようなもので膨れ上がった、赤銅色の体。
 地面に接触しそうな、長い腕。
 異様な猫背。
 そして、大きく割けた口からはみ出した牙と、額には一対の角。

 初めて見た者は、恐らく鬼などと称すであろう。それは古来より《荒魂あらだま》と呼ばれてきた、人の敵だ。

『先に駅前を潰して。北側は一旦忘れましょう』
「了解。《調》を解きます」

 駅前の荒魂は徐々に輪郭がはっきりしてきており、そろそろ動き出してもおかしくない。結衣の指示には正当性がある。《調》の感覚の中で、由美はそう理解していた。北側の荒魂が暴れたとしても、駅前よりは少ない被害で済む。無理にでも合理性を発揮させなければ、代人などやってはいられない。
 
「ん……」

 半径一キロメートル程度に広がっていた感覚が、一気に自らの五感へと狭まる。《調》を解いた際の気持ち悪さを、吐息を漏らすことでなんとか堪えた。精神を酷使した次は、肉体の番だ。

 由美はビルの屋上から、身を投げた。階段で降りるほどの時間はないとの判断だ。黒地に赤い刺繍の入った道着と袴がはためく。
 物理的にはあり得ない軌道で、由美は荒魂へ向け一直線に向かう。右手には、大ぶりの日本刀のような刃が青白く煌めいていた。
 完全に姿を現した荒魂は、未だ由美の姿に気付いてはいない。

「はあっ!」

 裂帛の気合と共に、荒魂の頭上から刃を振り下ろす。落下の速度を受けた斬撃は、巨体をいとも容易く分断した。生き物のように見える荒魂だが、血も臓物も飛び散る様子はない。切断面に見えるのは、闇のような黒さだけだった。
 着地した体勢のまま、由美はインカムに向けて声を発した。二体目も既に実体化している頃合だ。気を抜く暇は一時たりとも存在しない。

「駅前の排除完了。高所から《調》をかけます」
『了解』
 
 まるで霞のように霧散する荒魂を尻目に、由美は高く跳躍する。少女には、人には不可能な身のこなしだった。
 駅前広場を行き交う人々は、落ちてきたまま跳び上がった少女の姿も、真っ二つになって消えた異形の姿も、認識することなく夏の夜を過ごしていた。
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