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第三十六話 葉鳥 匠
しおりを挟む葉鳥 匠の人生は、昔から思い通りにならないことばかりだった。
父親は、母に対しても子供に対しても支配的な男で、気に食わないことがあれば暴力を振るった。最初は、見えない所に……次第に度を超してきて、妻の不貞を疑い出した頃には、場所も選ばなくなった。
命の危機を感じた母親は、匠と琳士を置いて、男と逃げる算段で、家から出ていこうとした。
でも、それで良かった。匠は、母が殴られているのを見るのも、もう嫌だった。
しかし、軍に勤め無駄に知識の多い仁彌に、上手く監視されていたようで、見つかってしまった。匠が高校から帰ると、おびただしい数のパトカーと警察、そして救急車が来ていた。事件は警察から聞かされた。
葉鳥兄弟は、母方の祖父の元にやられたけれど、直ぐに追い出された。匠は、それもそうだろうと思い受け入れた。祖父からすれば、娘を殺した男と半分血が繋がっているのだから。
仕方なく、二人は、母親が殺された家に戻った。
そして、そこから周囲の嫌がらせが酷くなった。
匠は、高校を中退して仕事を始めたが、そこでも下らない事を山ほどされた。彼は、冷めた怒りと、人間に対する落胆で、心が荒んで、乾いていった。
ただ……一人だけ、そんな二人に変わらず接する人間がいた。
「こんな事するなんて信じられない!」
彼女は、家に書かれた悪戯書きに怒り、二人と一緒にペンキを塗り、陰口を聞こえるように言ってくる住人に抗議した。
足を踏み入れるのも気持ち悪いであろう、葉鳥家に以前のように入り、二人に笑顔を振りまき、たわいない話をした。
寧々の存在だけが、匠と琳士の心の救いだった。
「匠さん」
寧々が高校に入るころには、彼女の視線に、ほんの少しの恋情を感じるようになった。
(なんで、こんな自分に……寧々、男の趣味が悪いだろう)
と匠は呆れたが、嬉しかった。
寧々のことは昔から大切に思っていたし、一緒にいれば居るほど、魅了される。しかし、自分と居ても寧々が幸せになれるとは、到底思えなかった。だから、一時の風邪のようなものだと自分を律して、気がつかないフリをした。
しかし、匠の思いは募った。
暗闇の中で、糞みたいな世界の中で、寧々は、たった一人の光だった。
そんな相手に、無邪気に頬を染められて、嬉しそうに名前を呼ばれ、照れて遠慮がちに触れられる。愛しく思わずにはいられなかった。
別れの時には、泣いて縋られ……匠の心が抉られるようだった。
でも、好きだからこそ、愛しいからこそ……寧々には平穏で明るい世界で幸せになってほしかった。
数年後、大人になった寧々は、更に魅力的な女性になっていた。匠達と居た頃よりも、落ち着いた雰囲気で、相変わらず華奢で儚げな印象ではあるが、元気そうで安心した。
それと同時に、柄にもなく胸が痛んだ。もう彼女とは関係の無い世界で生きているのに、自分の気持ちは薄れるどころか積み重なっている。
ふとした瞬間に、寧々の顔がよぎる。どんな女性と付き合って肌を重ねても、むなしさしかない。
ついジッと見てしまい、不審に思われたが、かなり印象の変わった自分に気がつくとは思えなかった。
しかし、走って追ってこられた時、匠は馬鹿みたいに期待した。彼女の中に、まだ自分が存在出来ているのかと……。
「寧々」
絵に描いたような好青年が寧々を呼んだ。そして自分の雌を守る番のように、匠を威嚇した。匠が思い描いたような幸せを、寧々は掴んでいた。
平 詠臣は、どうみても、今まで真っ当で明るい道を進んできた、優秀で輝かしい男だった。
自分とは正反対な男だと思った。自分は今日まで生き残る為に、汚いことも散々やった。匠は、人から恨まれる事も日常茶飯事だった。
これで、良かった。匠は、そう納得しようとした。
しかし……これで、良かったはずなのに、寧々に「匠さん!」と再び呼ばれ、今まで押し込めてきた本心が、抑圧していた自分が、この殻を破ってしまいそうだった。
(本当は、寧々が好きだ。愛おしい相手には幸せになって欲しいが、それは……俺の隣では駄目なのか……)
匠は、あの男が心底羨ましかった。
匠にはない、思うとおりに生き、寧々と平穏な幸せを享受できる人生が。
今すぐ、奪い返してやりたいと思った。しかし、もう遅い。寧々の心がないなら意味が無いのだから。
そう自分をなだめすかしていたのに……。
匠は、目の前に現れた寧々をみて、激しい怒りが湧いた。寧々にではない、あの寧々と結婚した男に対してだ。
自分が何よりも大切に思ってきた寧々が、なぜこんなにも満身創痍なのだ?
よく知っている、殴られて出来た顔の痣。体中の怪我。暴行を受けたと思われる近づいただけで震える仕草。相手を恐怖して見上げる目。
(まさか、あの男が⁉ そもそも、何故こんな所に連れてきた? 寧々の体が、心臓が普通でないことは、夫である、あの男が一番分かっているのではないのか?)
確かに、SDIは当初よりは住みやすく安全な場所になった。金銭や経験を目的として、世界中から優秀な人材も集まっている。
しかし、体の弱い一般の女性が住みやすい場所ではない。この島で暮らす女性も増えたが、今でも殆どが男だ。女に飢えた、体力も気力も有り余る男ばかりの場所に、寧々のような女性は狼の餌でしかない。
日本から派遣される優秀なパイロットは、本来なら、平 詠臣になるだろうが、断ったと聞き、お荷物な部隊が来ると匠は思っていた。
その為に、日本の部隊をサポートする用意もしていたのに……。
(寧々の為に、断ったのではなかったのか? なぜ、わざわざ連れてきた? 分からない、いや……分からなくなった。あの男は寧々に暴力を? どちらにせよ、寧々が何者からか暴行されたのは明白だ……このまま、帰さない)
匠は、強い怒りに体が熱くなった。最近では、怒りすら感じることは無かったのに、改めて自分を平静では居られなくする寧々の存在の強さを感じた。
「何故、この島にいるのか聞いている」
呆然と見上げる寧々に、もう一度質問をした。
「あっ……あの、旦那さんが、此処に派遣される事になって……」
寧々の口から聞く、旦那という単語に怒りを感じた。
「此処は、お前のような人間が、住む場所じゃない」
「……すみません」
寧々は、怯えたように縮こまって俯いている。
(違う、そうじゃない……そんな顔をさせたい訳じゃない)
匠は、深く息を吐き出して、髪を掻いた。
「……着いて来い」
「……え?」
寧々の腕を掴んで連れていこうかと思ったが、包帯と痣を見て辞めた。怖がらせたい訳じゃない。
(来たくなる、餌を吊すしかないか……)
「琳士に会いたければ、着いて来い」
「は、はい!」
大きな目を見開いた寧々は、弾かれたようにベンチから立ち上がった。そして、匠が停めてあったバイクの所まで来ると、押しつけられたヘルメットを、少し躊躇ったあとで、被った。
「乗れ」
臆病な小動物みたいに固まっている寧々に、匠が声を掛けると、恐る恐る寧々が後ろに跨がった。
「嫌でもちゃんと掴まってろ、落ちるぞ」
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