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貴族犬の憂鬱

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「なんと言うことだ…」
私は、講義を終えて蛍を自宅に送り届けマンションに戻ると、仕事に行く気力も無くなり、ソファに崩れ落ちた。

眼鏡が顔に食い込んで痛み、顔を横に向ける。
「…あぁ…」
起き上がる気力も無い。
ソファの下に投げ捨てられた鞄を漁り、蛍の持っていた赤い首輪を手にした。
まだ蛍の匂いが、十分残っている。

「なぜだ…なぜなんだ…蛍。私という者がいながら……なぜ、あんな駄犬を選ぶ…」
私は、今まで大きな挫折というものを味わったことが無い。
生まれながらにして、恵まれた人生だった。
ただ、厳格な家庭に生まれた為に、常に厳しく、正しく、誇り高く育てられた。
誰かに嫉妬をしたり、敗北感を抱いたことがない。一点の曇りのない人生だった。

そして…蛍という、唯一無二の存在にも出会い、毎日が輝いていた。

私自身の、汚い欲望を含んだ恋愛感情に蓋をして、蛍の一番側に仕えようと思って居たのだ。

なのに…あんな…可愛いだけの馬鹿犬に…蛍が奪われるだなんて…。
悔しさで歯を噛みしめる。
あの駄犬と決闘をし、亡きものにしたいくらいだ。
しかし…蛍が望んでいるのは、私ではない…。

「蛍は…愛玩犬がいいのか…」
今の世の中は、可愛い小型犬か、勝手気ままな猫が人気だ。
名犬ラッシーや、忠犬ハチ公を代表するような、賢く躾けられた、相棒としての犬の人気は下火なのだ…。

客観的に見ても、私はそちらなのだ。

「蛍にとって…私は、魅力の薄い犬なのか…」

いつもは、きちんと整えている髪をぐしゃぐしゃに乱した。
もう、いっそ渋谷のように自分も変わろうか。
可愛い路線を目指して…
「あぁぁぁ…無い!それだけは無理だ…」
今までの23年間の自らを否定する事は出来ない。
私は、あくまで私として蛍に選んで欲しいのだ。
大きなため息をついて、体を起こし、ソファに座った。
「私らしくない…」

蛍の用意した首輪は、赤い細身の首輪だった。どことなく渋谷に似合いそうだ。
やはり、渋谷の首輪なのか。

羨ましい。
蛍に首輪を填められて、彼の足下で蛍を見つめたい。
時々、此方を振り向いて、私の名前を呼んで欲しい。
「蛍…」
朝の目覚めでは、この首輪をつけて蛍の寝所に入り、品の良い綺麗な顔にキスをし、朝の猛りを慰めるべく、シーツを捲り…ズボンを下ろす。
下着の上から、蛍の臭いを嗅ぎ、鼻や唇で、じゃれつくように刺激すると…

はっ…しまった!
つい妄想で、自らのペニスを高ぶらせてしまった。
蛍を思うと本能が、抑えられない。
特にここ最近は、出会った頃より子供っぽさが無くなった蛍の姿と匂いに、自制心が働かない。


「仕事に行かなければ…」

重たい腰を上げて、シャワーへと向かった。




「何をしている!」
性欲処理とシャワーを済ませると、リビングには、秘書の一人である阿久津がいた。
彼には、合鍵を渡していので、勝手に入って居ることは珍しい事ではない。

「何故、その首輪を手にしている」
ボディガードも勤める阿久津の武骨な手には、赤い首輪が握られ、匂いを嗅いでいた。
「あれ!俺は一体なにを?!」
正気に戻ったらしい阿久津が、私と首輪を見比べている。
「社長が予定よりも遅く…連絡も無いので、確認しに来たのですが…凄く良い匂いがして…」
体格が良すぎて窮屈そうなスーツの一部が盛り上がって居る。
角刈りの額には薄っすらと汗が。
蛍の匂いに欲情したのか。

「…それを返せ」
私は、まだ濡れている髪を拭きながら、手を差し出した。
阿久津は、首輪に未練を残しながらも、おずおずと太い腕を伸ばし、首輪を渡した。

私は、バスローブの内側に首輪をしまい込んだ。これは…誰にも渡さない。

それにしても…蛍の一部の人間を惹き付ける力は…なんて威力なんだ。
阿久津は、こちらが心配になるほど、硬派で真面目、仕事のことしか考えていないような奴だったのに…。

「…すまないが、今日は休む。帰ってくれ」

今の自分の状態に困惑する阿久津が、ビクッと巨体を跳ねさせた。

「はっ…はい!申し訳けありませんでした!!」

そして謝罪し、前かがみになりながら、ヨタヨタと玄関へと向かう。

「……」

なんて憐れな姿なんだ。
きっと私の本当の姿を知った蛍も、そう感じるに違いない。
蛍に嫌われたくない。

深いため息を吐きながら、阿久津が玄関から出ていく音を聞いていると…。

鋭くなった嗅覚に、ほんの少し、蛍の匂いがした。

「蛍っ!?」

私は、急いで玄関に向かった。
玄関を開けて、一歩外に出ると。

「犬飼っ!助けて!!」

阿久津が蛍を押し倒して、その体に乗り上げていた。
紅潮した顔で着衣もそのまま、空中で腰を降る阿久津。

「蛍!!阿久津!!貴様…」
「うわああ」
私は、阿久津の体を思い切り蹴り飛ばした。
ここ最近は尋常でない力が出る為に、巨体の阿久津が簡単に転がった。
「っ!」
目が覚めたような阿久津が、私を見上げた。怒りが収まらない私は、もう一度蹴りを入れた。
避ける気はなさそうだが、腕でガードをしようとした阿久津だったが、それすら間に合わず、更に吹き飛ばされた。
「ぐぁっ!」
その顔はまさに驚愕していた。
きっと自分より弱いと思っていた警護対象に簡単にやられたからだろう。

「犬飼…」

蛍に話しかけられ、怒りが消え、振り返った。

「すまない…蛍…大丈夫かい」

しゃがみこんだままの蛍を抱き上げ、玄関のドアを開けた。












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