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第十六章 最終学年

105、愛の袋

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大杉はその日、女の家にいた。
富田カヨである。

今日は夕食を食べたくて、来たのだ。
仕事でいないことも予想したが、締め切りのタイミングでもないのでいると考えた。


「大杉さん。」
「うん?どうした?」
「有り合わせしかできないけど。」
「うん、そう思って買い物してきた。」
「え?」
「僕は買い物は得意だが、作るのはてんでダメなんだ。」
「そう。」

悲しげな表情をカヨはした。

その顔を見ても大杉はズカズカと家の中に入り、肉じゃがと味噌汁をねだったのだ。

「ねえ、ちょっと時間かかるけどいい?」
「ああ、急いでないよ。」
「こういう時は、じゃあいいよって帰るものよ。」
「生憎俺は常識はずれな人間でさ。」


カヨは辟易した。
しかし、自分の家を選んでくれたことに喜びも感じていた。

本当は早く目を通さなければならない原稿がある。
しかし、それは大杉の前で見せられない。
それは編集長としてのプライドだった。


「なあ、カヨくん」
「はい、なんですか?」
「怒ってない?」
「そう言われるとそうね。」
「食事を楽しく食べようよ。」


何やらしていたら食事は出来上がってしまった。
カヨは嫁に行くために実家で徹底的に料理を仕込まれていた。
だから、味もいいし、手際もいい。


「やっぱりカヨの食事は逸品だね。」
「お世辞?」
「いや、俺は今家無しみたいなもんだろ。」
「そうね。」
「だから、こういうの食べたいんだ。」
「結婚していた時、食べられたでしょう?」
「いや、あいつは女中に作らせてたから。」
「そうなの。」

聞いておいて、悲しい思いをすると分かっていても聞いてしまう。
カヨは自分がマゾヒズムなのかと考えてしまう。


「そんなことよりさ。」
「うん。」
「今度、上海にいきそうなんだ。」
「え?」
「あっちの情勢を調べにね。」
「旅券はどうするの?」
「偽装していく」
「それは犯罪よ。」
「あっちでは俺は無名さ。」
「危なすぎる。」
「カヨなら喜んでくれるかと思ったのに。」
「簡単に喜ぶ?」
「だって、中国だぜ。」
「何を調べにいくの?」
「日本が帝国主義をしようとしてるのをね。」
「つまり、戦争の芽を摘みにいくのね。」
「そうともいう。」


カヨは不安になった。
もし、あちらで大杉が捕まったら、と。

「私、中国に編集の先輩がいるけど、反日の人も多いって聞くわ。」
「そりゃ、日出る国から来るんだからな。」
「そういう態度が良くないのよ。」
「でも、支那に行くのは今しかないんだ。」
「シナなんて言い方。」
「今日はつっけんどんだな。」


カヨは聞けずにいた。櫻と再会したのか。
彼女にも大杉にも辻にも。

「じゃあ、帰ってきたらすぐこの家に来て。」
「ああ、じゃあ不在の時は書き置きしておくよ。」

書き置きを残すというのは、大杉の一人暮らしの家に行っていいということだった。
何人もいる女から私を選んでくれるのは嬉しいけど、政府とパイプのあるカヨを選んだのもわかる。

どうせなら、胃袋だけで大杉を掴んでいたいと思ったカヨだった。
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