上 下
129 / 416
第八章 遭遇

11、櫻 夢を語る

しおりを挟む


「先生、私、あと二週間のこの夏休みを精一杯頑張ります。」
昼食の前に、車の中で腰掛けた櫻が言った。
「この暑さだから、無理は禁物だよ。部屋の中が少しでも涼しくなれば仕事が捗るっていうのにな。」
「暑くても、私、俄然やる気ですから。」
「櫻くん、人は本当にやる気になると自分の中に眠っていた何かが目覚めることがある。それに気が付かずに、通り過ぎてしまうことがほとんどだけれど、しっかりそこは君らしさを忘れずやっていくんだよ。」
「はい!」
「あとね、暑さのこと、さっき僕は言ったよね。100年後は多分、涼しい室内で仕事ができるようになっている。」
「え?うちわや扇子ではなくて?氷をたくさん使うんですか?」
「うん。メカニズムは氷で近いものはある。熱い空気を逃して、涼しい空気を電気が作るんだよ。」
「電気って、あのライトの?」
「そう、電気はそのうち、女中に変わって家事をするようになるよ。そうしたらみんなが働ける世の中になる。」
「先生、でも女中さん、お仕事なくなっちゃいますよ。」
「女中だって、他の仕事をしてもいいじゃないか。学習がみんなに行き渡ったら、みんながモガやモボになる時代が来るかもしれない。」
「素敵ですね。そうしたら、みんな雑誌を読んで、たくさん世の中が良くなります。」

櫻は目を爛々とさせ、嬉しそうだった。
「櫻くん、執筆業にとても興味がありそうだったけど、運動家について何か思ったことは最近あるかい?」
「はい。海外のエッセーなどで女性運動家が立ち上がっている文章を読んだらいてもたってもいられなくなりました。」
「君は、もしかしたらその道もあるかもしれないね。」
「え?」
「今の日本の運動家は貧しい労働者を守ろうと戦っている。君はその人生の大半をそう貧しい労働者として生きてきた。」
「確かにそうです。でも、私のような若輩者が運動家なんて。」
「卒業まで一年半ある。でも、もう一年半だよ。君は色々試して色々勉強するには足らないかもしれない。」
「私、どんな形であれ、辻先生と肩を並べて歩きたいんです。だからこそ、今ここで諦めたくないし、色々経験したいのです。」
不意に、辻が櫻に軽く口付けをした。
「え?」
「君がどこかへ飛んで行かないようにマジナイをかけたのさ。」


いつも辻は余裕の雰囲気でずるいと思う。しかし、櫻にとって辻はもう体の一部になっていたのであった。
しおりを挟む

処理中です...