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第五章 新たなる世界へ

5、伊香保からの手紙

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紹介所から連れて来られた旅館はまずまずと言ったところだった。
もちろん、安くはない。でも出てきた料理も美味しく、酒も逸品だった。

「辻くん、こうお酒が美味しいとやっぱり女性を呼びたくなっちゃうよ。」
「芸者遊びを温泉街でやってもね。僕は君とじっくりと語りたいよ。」
「え!じっくり語りたいって言ったって、どうせ櫻くんのことだろう。惚気は本人同士にしれよ。」
「まあまあ聞いてくれ。僕はね、櫻くんと離れて自分が自分でいられなくなったらどうしようと思っていたんだよ。彼女に固執していた。でも、彼女の気持ちもう知っている。こう見えて、僕はとても嫉妬深い男に成り下がっていたんだよ。でも、心の中の彼女と対話してみたんだよ。実に自由だった。彼女は誰に憚られもせず、自由に語りかけてくるんだ。」
「その発言のどこが惚気じゃないっていうんだい?」
「心の中で自由を語りかけることができるっていうのは究極のダダじゃないかい?僕は今までお付き合いした女性にダダイズムを感じたことはなかったね。」
「僕は、いい意味でも悪い意味でもアグリと出会ってしまったからね。彼女はダダの中心にいる。僕が置いていかれるところまで来てるよ。」
「望月くん、僕はそういう体験をして来なかった。でも、それもいいかと思っていたんだ。しかし、心の中の自由な彼女が僕に語りかけてくるなんて、妄想だろ。でも、会いたい時に会える。そして、どうしても伝えたいときは手紙や電報のやり取りをできる。彼女を通して自由を知ったんだ。」
「じゃあ、自由な辻くん、芸者さんを呼んでもっと自由を謳歌しよう!」
「君はあっさりしてそうで、こだわりが強い。ははは。僕は今日は櫻くんに手紙を書くよ。女遊びしたかったら、別部屋を借りて君が遊びなよ。」
「なあんだ、つまらない辻くん。階段の途中に料亭があったから、そこで女将と楽しんでくるよ。本当にいいの?」
「別に女遊びをやめたとかじゃないんだ。僕には櫻くんだけで手一杯なんだ。」
「イエッサー。ショウグン、了解しました。」
冗談めいた返事で望月は部屋を出て行った。


辻はカバンに入れていた便箋で手紙を書くことにした

「江藤櫻さま
お加減いかがでしょうか、なんてはじまる手紙が僕から届かないことを知っているだろうから、思ったことから書くよ。前略だって書かないからね。
僕は今、伊香保にいる。群馬のいい雰囲気の温泉さ。そこで、僕は望月もいるが、心の中の君と旅行をしているんだよ。変な話だって思ったかな。でも、心の中君は、いつもの君と同じで、頬を膨らませて怒ったり、はしゃいで笑ったりしている。触れられないのに、心の中君と対話してると、本当に君がそこにいるんじゃないかって思うんだ。
正直、君と離れるのが怖かった。喪失感でどうにかなってしまうんではないかと思ったんだよ。でもね、僕は君の愛情の深さを離れて知ったんだ。君が本当に大事にしている僕への気持ちが離れてわかったんだ。
今度はここに君ときたい。でも、そんなことは今はどうでもいいかもしれない。だって、僕は一人ではないことがわかったから。
星空の中にも、夏のこの蒸し蒸しした昼間も、浴衣を着た君がひょっこり現れるんじゃないかって思うんだ。
僕は、行方のわからない旅をしているから、君からの返事をもらえない。でも、今は伝えるだけでも満足なんだ。
君という存在が僕を超えていく、心に住んでいてくれる。
まだしばらくは北へ向けて旅をするつもりだ。君が素敵に働いている姿を想像しながら、、
T」

封筒には望月の家の住所で、望月方江藤櫻さまと書いた。
明日、切手を貼って投函しよう。
この手紙を受け取る櫻の気持ちを想像して、ワクワクした辻であった。
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