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第一章 先生との出会い

6、名前の秘密~抱擁

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「先生、突然ですが、名は体を表すという言葉をお考えになったことは?」
まだ、櫻はドアの前で立ったまま、辻は傀儡の置いてある机の前に座っている。
「そうですね…。僕にとって名前は単なる記号に過ぎないとも思えるし、周りの人間にとっては意味を持ったもので、人によって価値が変わるもの、と考えていますが」

櫻はその回答に少し、失望した。期待していたのだと思い知らされた。

「江藤さん、あなたにとっては正解ではない答えを僕は出したようですね。でも、人はそれぞれ違うものです。それであっていいんですよ。」
優しい口調で辻は説く。
「先生、私、自分の考えを押し付けたいとかそういうんじゃないんです。でも、でも、私は名前を変えてここに入学したのです。」
辻はその言葉を聞いて、目をつむり、ふっと息を吐いた。
「江藤さん、かの二葉亭四迷も『くたばってしまえ』からそのペンネームをつけたように、元の名前にこだわるということはある意味愚門かもしれませんよ。」
「そうかもしれません。私は『サク』という名前で生きてきました。農家に生まれた私には漢字の名前を付けることも父はできず、5番目に生まれた私にその名前を付けました。意味も役所に行って、農業が栄えるようにするにはと相談して、その場で農作物ができる前に咲くからつけていただいたそうです。」
「素敵な話ではありませんか?」
「辻先生、私の育った埼玉の秩父は帝都と接しているとはいえほとんど山梨と近く、生まれても生家で育つなんて、ましてや尋常小学校に通うなんて考えられない世界なのです。無学がなんと哀れだと小さなころから思いました。口答えする度に納戸に閉じ込められたのも何度もありました。そして、縁談は13の時に決まり、父は結納金の多さにそれは喜んだものです。」

言ってしまった。ずっと隠していたこの秘密をほんのまだ知り合ったばかりの教師に。
もし、このことが教職員に共有されたら私は学校を追われるのかもしないのに。
櫻は行ってしまった後で少しの後悔をした。

「貴女は突然、勇気のある話をするからこちらもおちおちしてられませんね。名前だけだと僕自身も母は『潤』と付けたかったようなのです。しかし、父が長男の僕が一文字の女性らしい名前が気に入らなかった。そこで『潤一郎』と名付けられたわけです。母は家にこだわらず、周りを潤わすという意味をつけたかったと母がいた頃聞きました。」

辻は少し寂しそうな眼をした。
「先生、お母様はもう?」
「母という意味では今も存在します。僕の母ではなくなったということです。僕の家にとっては一度家を出るともう、会うことすらかなわないですが。でも、彼女は僕の自由を常に優先してくれ、それに僕は答えたいと思った。今はうまく表現できませんがね。」

辻の母が出て行ったのも何かがあったのだろうが、そこには触れなかった。
辻自身も軽い身のこなしの自分の背景にあるどんよりとしたことにふれたくなかったのかもしれない。

「私にとって、先生の名前の付けた意味は本当にうらやましいです。私も周りを潤わす人になりたいと聞いていて感じました。私は『サク』から卒業して、縁談金の半分を叔父に預けて嫁ぐ日を伸ばして、『江藤櫻』として上京しました。このままいけば4年生で卒業した時にあの、忌まわしい農家の嫁になることでしょう。でも、私は自分の地で歩いて、自分の心のままでありたいのです。そのためには職業婦人になって帝都で自分を発揮したいのです。」

パンパンパンパン!
「ブラボー!」
急に辻は拍手するとまた、「ブラボー!」と繰り返した。

「実はね、僕はこの学校にあまり期待してなかったのですよ。実に興味深い。」

ふと辻は立ち上がると歩みを進めてドアの前にいる櫻の前に立った。
「では西洋式のあいさつをしましょうか」
ふわっと背の高い辻から両手が櫻を包み、抱きしめられた。
「ボン、メルシー」
数に数えると5秒くらいだったのかもしれない。しかし、櫻にとっては白日に起きた永遠であった。
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