紅葉色の君へ

朝影美雨

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第十一話 荷造り

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第十一話 荷造り

 マリーがさした傘の下、しとしとと降り止まない雨の中、僕は自発的に帰路をたどっていた。
 どうして、あらかじめ傘を二本持っていたのか、不思議に思わなくもなかったけれど、夕方の時計の件と同じく、なんとなくその話題がタブーな気がして、偶然の二文字で片付けた。
 それでもやっぱり、あの場にマリーがいたことまで偶然として片付けるには腑に落ちないので、横を歩くマリーに、それぞれ片手に一本ずつ器用に傘をさしているマリーに、質問する。
「……マリーさんは、夢咲さんに僕の話を聞いて探してたんですか?」
「うんにゃ。私はあれからあの子に会っていないよ」
「え……。じゃあどうして、僕の居場所がわかったんですか?」
「…………それはたまたまだよ。本当、偶然。……ここが、私の今日の散歩コースだっただけさ」
 この話はこれでおしまい、という風に、マリーは乱雑に僕の顔から視線を外した。
 ……結局、偶然で片付けられてしまった。
 うーん。
 ……ま、いっか。
 
 家までの道すじが完璧に頭に入っていたというわけではないものの、大体検討がついていたので、僕らは迷うことなく僕の家へ向かっていた。
 そりゃそうだ。今日のうちに二回も同じ場所を訪れたんだから。
 車いすを進めているうちに雨脚は少しずつ弱まって、家を視界に捉えた時にはすっかり止んでいた。
 と言っても、公園でマリーに会うまでに浴びた雨がそうすぐに乾くはずもなく、全身くまなく濡れている。
 真夏日の夕暮れ時を流離う夏の湿った風が、不快指数を順調に上げていったのだが、僕はそのことで不快感を募らせるほど、脳内は暇じゃなかった。
 頭の中が忙しかった。
 忙しいのはいつものことなんだけど。
 とりあえず。
 碧にどんな顔をして、何を言えばいいのかわからなかった。

 ……そういえば、何も考えずに帰ってきてしまったけれど。
 まだ、いるのだろうか。
 勢いに飲まれて、結局楓町に行くことになってしまったけれど。
 僕を連れていくのは、今日じゃなくてもいいはずだ。
 ……いや、僕を監視するのが目的なら、僕から離れるのは碧にとって都合が悪いのか。
 もうすでに碧の目から離れているけれど。
 ……電車の最終便が、確か十八時四十分とか言ってなかったか?
 体感的に、今の時間は六時くらいだろう。僕の体内時計がおおむね正確なら、そろそろここを出ていかないと間に合わない時間だ。
 もう行ってしまっていてもおかしくない。
 というかむしろ、そっちの方が助かる。
「……ねぇ、マリーさん。……僕さぁ、夢咲さん、ほったらかして出て行っちゃったんだけどさ。……まだ、残ってると思う?」
 ……返事がない。
 横を見ると、いつのまにかマリーは姿を消していた。
 傘の影が晴れたのは雨が止んだからだと思っていたけれど、その時にマリーも帰ったのだろうか。
 …………。

 ……それは、そうと。
 ……今日に限って、どうして、こんなにも僕の自殺の邪魔が入るのだろう。
 今までで一番死ねそうだった、今日に限って。
 普段なら、そもそも僕の周りに人がいない。
 いたとしても、気に留めない。むしろ避ける。もしくは好奇な目を向ける。
 まるで、人知の及ばない何かによって、無理やり生かされているような気さえする。
 それを神とか運命とか呼んだりするのだろうけれど。
 僕はそんな都合のいい虚像なんてこれっぽっちも信じていないが、もし仮にそのその存在が在ると仮定したとしても、はた迷惑な話である。
 生かしたいなら、その人知の及ばない能力とやらで、世界の方を変えて欲しい。
 そもそも僕個人に焦点を当ててお節介を焼く理由がない。
 気まぐれで救ったり救わなかったりするのなら、気まぐれで己の手首でも切ってほしいものだ。
 まぁ、なんにせよ、今日の僕も、死ねなかった。
 生かされてしまった。
 
 ……おっと、また思考の海に潜ってしまったようだ。
 とにかく、まずは家に入らなきゃ。
 そう意識を覚まして、僕は自分の部屋まで戻る。
 外はだいぶ暗くなって、窓からの光だけじゃ床がはっきりと見えなかったけれど、わざわざ電気を付けに行くのもめんどくさいので、暗くなった家の中を、時々何かを踏み越えながら進んで、ドアを開く。
 
 自分の部屋にあるはずの、荷物をまとめかけたキャリアケースが消えていた。

 もちろん、碧の姿もなかった。
 まさかここにきて盗み?
 焦って周りを見渡すと、パソコンデスクの上にスマホと財布が置いてあった。
 スマホの画面が、十八時二分を示して光っている。ブルーライトがうっすらと、折りたたまれたメモを照らした。
 几帳面に折られたメモを開くと、丸っこいポップな字体で、
『駅、先行ってるから』
 と書かれてあった。
 ……どうやら盗みではなかったようだ。そうか、先に行ったのか。
 ……………………。
 ……これ、僕がこのまま行かなかったらどうなるんだろ。
 ……目を離したのはあいつだし。
 追いかけてこなかったのはあいつだし。
 もう。いいんじゃないか。このままで。
 
 もう、いいじゃないか。このままで――



 ――ふと、ここに来るまでの間の、マリーとのやり取りを思い出した。
『寂しくないの』

 うん。寂しいよ。
 一人で苦しむのは。
 でもさ。人はずっと独りじゃないか。
 僕もずっと独りだった。
 どんな人とどんな交流を持ったって。
 いつだってずっと独りだった。
 それが苦しいから。
 だから。
 
『……ふぅん。碧ちゃんは置いていくんだ』

 …………行こう。
 心の中でそう呟いてから、僕の行動は早かった。
 すでに碧が、僕が持ち運びにくいキャリアケースを先に持って行ってくれていたこともあって、僕は貴重品だけ持って外に飛び出した。
 
 ここから枳駅までは大体徒歩三十分の距離がある。
 今、十八時五分なので、急がなくてもギリギリ間に合う時間ではあるのだが。
 僕には急がなければならない理由があった。
 その電車に乗りたいのなら、遅くても十分前には駅に着いていなければならない。
 なぜなら、僕が車いすに乗っているから。
 駅員に乗降補助を頼むなら、ギリギリ滑り込みなんてできないから。
 
 とにかく、走った。
 雨で塗れたハンドルを、無我夢中で漕ぎまくった。
 摩擦で擦り剝けた親指の付け根が痛かった。
 巻きあがった二ミリくらいの小石が食い込んで痛かった。
 それでも手を止めることなく、信号さえも無視して、ひたすらに走った。
 走っている間は何も考えられなかった。
 死にたかったことも。
 生きづらかったことも。
 全部観測できなくなって。
 ただ、早く着けたらいいと思った。
 
 碧に、連れて行ってほしかった。
 連れ出してほしかった。
 『死にたい』なんて重たい言葉で押しつぶしてしまった、本音を。
 掬ってもらえる気がした。

 依然として、碧にどんな顔を向けたらいいのか、どんな言葉を話せばいいのかわからないけど。
 とりあえず、何に対してかわからないけど、ありがとうだけはちゃんと言おう、と思った。
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