474 / 488
第六章 第四節
1 あの者
しおりを挟む
「お久しぶりでございます……」
神官長は目の前の美しい主に丁寧に正式の礼をすると、満面に笑みを浮かべて立ち上がった。
「久しぶりですね」
この世の者とは思えぬほど美しい主も、その完璧な美貌に優しい笑みを乗せて忠実な下僕に視線を送った。
「この度は、お手を煩わせましたことをお詫び申し上げます」
神官長はそう言うと、もう一度、前よりももっと丁寧に正式の礼をし、前よりも長く頭を下げてから上げた。その顔からは笑みが消えていた。
なんとも微妙な表情だった。
悔しいとも、悲しいとも、そして喜びも含んでいるような。
そんな、一言では到底表せない表情をその貧相な顔の上に乗せている。
「いいえ、構いませんよ。遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたのですから」
天上の美を持つ主が天上に咲く花のように笑顔をこぼした。
「さようではございますが、ですがやはり、その少しばかり……」
「良心が痛む、そうですね」
「はい……」
神官長が恐れ入るように頭を下げると、主は天からの鳥のさえずりのような声を立てて笑った。
「そうですね。『あの者』がもう少し柔軟であったなら、心から今度のことを喜んでくれたことでしょうに。わたくしも少しばかりそれは残念だとは思っております。ですが、もうなってしまったこと。詮無いことを考えるのはよしましょう」
「御意」
神官長の前で嫣然と微笑む主、天上の美姫、それは言うまでもなくマユリアだ。
これまでマユリアは神官長に対しては比較的冷たい態度を取っていた。それは断っても断ってもしつこく国王との婚姻を勧めてきて、何度言ってもやめなかったからだ。
マユリアは女神シャンタルの侍女であり、自身も慈悲から生まれた女神である。どのような人に対しても慈悲の心を忘れず、等しく温かく接している。
だが、いかに女神だとて、その度量を超えてくる者、他者に対しての尊敬の念を持たぬもの、過ちを正そうとせぬ者に対しても、どこまでも温かく接することなどできはしない。時には厳しく、冷たく接することもある。そうすることで過ちを正し、己を見つめさせること、それもやはり慈悲であり、愛情であるからだ。
「なかなかおまえをここに呼べずにおりましたが、そろそろ話も聞いておきたい。それでキリエに呼ぶようにと申しました」
「はい、ありがとうございます」
「キリエにはどうしても必要な用があるからと申しましたが、少し警戒をしているようですよ」
「はい、キリエ殿は私に心を開いてはくださいませんので」
「それはそうでしょうね」
マユリアがクスクスと楽しそうに笑った。
マユリアはいつもと変わるところがない。八年前、トーヤがいつも変わらないと言った、あの時のままのマユリアだった。
美しさも、朗らかさも、声も仕草も、何一つ変わることがないマユリア。だが、神官長に向けるその視線、従順な下僕を包み込むように見る視線が何かが違うと教えている。
「キリエはいつもいつもわたくしのこと、シャンタルのことを一番に考えていてくれます。キリエから見れば、おまえはわたくしにとって良くはない者、そう判断するのですから、仕方のないことでしょう」
「はい、おっしゃる通り」
「ですが、キリエももう年です。交代を終えてしばらくしたら、北の離宮へ行くように申しましょう」
「はい」
マユリアと神官長の間で侍女頭の交代の話ができあがっていく。
「次の侍女頭なのですが、キリエには心づもりがあるようなのです」
「はい。一度シャンタルに言上申し上げに行かれてましたな」
「ええ。ですが、その者の名を聞く前に、わたくしが不調を起こし、それでそのままになっています」
「はい」
「侍女頭の交代については、その当人に一任されています。ですから、たとえシャンタルと言えども誰をと命ずることはできません。もちろんわたくしにも」
「はい」
いつの頃からかは分からないが、侍女頭の交代については、そのような慣習ができていた。
おそらく、シャンタル宮を変わりなく運営していくために、時の侍女頭が自分が一番信頼ができる者を後継者に選ぶ、そのような形が自然に出来上がっていったのだろう。
交代の時期はいつとは決まってはいない。シャンタルの交代の時に合わせることもあれば、全く関係のない時に行われることもある。
「ですから、次の交代の時にはそのままキリエに努めてもらいます。わたくしが王家の一員となり、この国の行く先を決めることができるようになるその日まで、まだまだキリエの力は必要なのです」
「はい」
「そして、次の侍女頭には、予定通りセルマを」
「はい」
「おまえもその方が色々とやりやすいことでしょうから」
「はい、ありがとうございます」
なんということか。マユリアは神官長とキリエを退け、セルマをそばに置く話を当然のように進めている。
「セルマはどうしても『あの者』の心を掴むことはできませんでした。ですが、わたくしはそばに置いて使いたいと思っています。これから先のこの国に、真の女神の国、女王の国のためにセルマほど適任はいないでしょう。よくぞ見つけてくれました」
マユリアが神官長に褒める言葉をかけると、神官長が恐縮し、また深く頭を下げた。
神官長は目の前の美しい主に丁寧に正式の礼をすると、満面に笑みを浮かべて立ち上がった。
「久しぶりですね」
この世の者とは思えぬほど美しい主も、その完璧な美貌に優しい笑みを乗せて忠実な下僕に視線を送った。
「この度は、お手を煩わせましたことをお詫び申し上げます」
神官長はそう言うと、もう一度、前よりももっと丁寧に正式の礼をし、前よりも長く頭を下げてから上げた。その顔からは笑みが消えていた。
なんとも微妙な表情だった。
悔しいとも、悲しいとも、そして喜びも含んでいるような。
そんな、一言では到底表せない表情をその貧相な顔の上に乗せている。
「いいえ、構いませんよ。遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたのですから」
天上の美を持つ主が天上に咲く花のように笑顔をこぼした。
「さようではございますが、ですがやはり、その少しばかり……」
「良心が痛む、そうですね」
「はい……」
神官長が恐れ入るように頭を下げると、主は天からの鳥のさえずりのような声を立てて笑った。
「そうですね。『あの者』がもう少し柔軟であったなら、心から今度のことを喜んでくれたことでしょうに。わたくしも少しばかりそれは残念だとは思っております。ですが、もうなってしまったこと。詮無いことを考えるのはよしましょう」
「御意」
神官長の前で嫣然と微笑む主、天上の美姫、それは言うまでもなくマユリアだ。
これまでマユリアは神官長に対しては比較的冷たい態度を取っていた。それは断っても断ってもしつこく国王との婚姻を勧めてきて、何度言ってもやめなかったからだ。
マユリアは女神シャンタルの侍女であり、自身も慈悲から生まれた女神である。どのような人に対しても慈悲の心を忘れず、等しく温かく接している。
だが、いかに女神だとて、その度量を超えてくる者、他者に対しての尊敬の念を持たぬもの、過ちを正そうとせぬ者に対しても、どこまでも温かく接することなどできはしない。時には厳しく、冷たく接することもある。そうすることで過ちを正し、己を見つめさせること、それもやはり慈悲であり、愛情であるからだ。
「なかなかおまえをここに呼べずにおりましたが、そろそろ話も聞いておきたい。それでキリエに呼ぶようにと申しました」
「はい、ありがとうございます」
「キリエにはどうしても必要な用があるからと申しましたが、少し警戒をしているようですよ」
「はい、キリエ殿は私に心を開いてはくださいませんので」
「それはそうでしょうね」
マユリアがクスクスと楽しそうに笑った。
マユリアはいつもと変わるところがない。八年前、トーヤがいつも変わらないと言った、あの時のままのマユリアだった。
美しさも、朗らかさも、声も仕草も、何一つ変わることがないマユリア。だが、神官長に向けるその視線、従順な下僕を包み込むように見る視線が何かが違うと教えている。
「キリエはいつもいつもわたくしのこと、シャンタルのことを一番に考えていてくれます。キリエから見れば、おまえはわたくしにとって良くはない者、そう判断するのですから、仕方のないことでしょう」
「はい、おっしゃる通り」
「ですが、キリエももう年です。交代を終えてしばらくしたら、北の離宮へ行くように申しましょう」
「はい」
マユリアと神官長の間で侍女頭の交代の話ができあがっていく。
「次の侍女頭なのですが、キリエには心づもりがあるようなのです」
「はい。一度シャンタルに言上申し上げに行かれてましたな」
「ええ。ですが、その者の名を聞く前に、わたくしが不調を起こし、それでそのままになっています」
「はい」
「侍女頭の交代については、その当人に一任されています。ですから、たとえシャンタルと言えども誰をと命ずることはできません。もちろんわたくしにも」
「はい」
いつの頃からかは分からないが、侍女頭の交代については、そのような慣習ができていた。
おそらく、シャンタル宮を変わりなく運営していくために、時の侍女頭が自分が一番信頼ができる者を後継者に選ぶ、そのような形が自然に出来上がっていったのだろう。
交代の時期はいつとは決まってはいない。シャンタルの交代の時に合わせることもあれば、全く関係のない時に行われることもある。
「ですから、次の交代の時にはそのままキリエに努めてもらいます。わたくしが王家の一員となり、この国の行く先を決めることができるようになるその日まで、まだまだキリエの力は必要なのです」
「はい」
「そして、次の侍女頭には、予定通りセルマを」
「はい」
「おまえもその方が色々とやりやすいことでしょうから」
「はい、ありがとうございます」
なんということか。マユリアは神官長とキリエを退け、セルマをそばに置く話を当然のように進めている。
「セルマはどうしても『あの者』の心を掴むことはできませんでした。ですが、わたくしはそばに置いて使いたいと思っています。これから先のこの国に、真の女神の国、女王の国のためにセルマほど適任はいないでしょう。よくぞ見つけてくれました」
マユリアが神官長に褒める言葉をかけると、神官長が恐縮し、また深く頭を下げた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる