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第五章 第四部
9 穢れの影響
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キリエはマユリアの私室へと足を運んだ。
「お具合はいかがでしょうか」
「ああ、キリエ」
マユリアはベッドの上に上体を起こそうとするので、キリエがそれを留める。
「そのままでいらっしゃってください。無理はなさいませんように」
「いえ、もうかなりいいのです。少し起きた方が調子もいいように思います」
「さようでいらっしゃいますか」
キリエは主に手を貸して、上体を少しでも楽にできるようにと、ソファーからもう一つクッションを持ってきてあてがった。
マユリアはいつもは梳き流すかシニヨンに結っている髪を、三つ編みにして左の肩から垂らしていた。その豊かな自分の髪すら重そうに見える。
「ありがとう」
「いえ」
マユリアはふうっと楽そうに息を吐き、
「忙しい時に迷惑をかけますね」
と、侍女頭に謝罪の言葉を口にする。
「もったいないことを」
キリエは丁寧に頭を下げてから上げると、
「少し、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
と、時間を取らせることに許可を求めた。
「ええ、構いませんよ。ではここに椅子をお持ちなさい」
病の床にある主が、老いた侍女頭に心を配る。
「はい、失礼をいたします」
キリエはテーブルのところにある椅子を一つ持ち、マユリアのベッドの横に置いて、そこに腰を降ろした。
「一体何の話でしょう、何か問題でも起きましたか?」
「いえ、伺いたいのはマユリアのお具合のことでございます」
キリエは痩せた手を主の手に添え、心配そうな表情で続ける。
「一体、いつからどうお具合が悪かったのでございましょうか。今回のことが初めてではございませんでしょう」
マユリアは少し考えていたが、この侍女頭にごまかしは通じないと、
「ええ」
と、言葉少なに認める。
「一体いつから、どのようにおなりでした」
「以前から時々あったのですが、今回のようなことは初めてです」
「以前から」
キリエはやはり、と小さく嘆息する。
「いつからでございましょう」
「おそらく、八年前から」
そんな前から。
「どうして何もおっしゃってくださらなかったのです……」
「いえ、ずっと大したことはなかったのです」
「どのようなご症状がおありだったのですか」
「少しめまいがする、ぐらいのことでした」
「どうか、これまでにおありだったことを、全部お話しください」
キリエにそう言われ、マユリアは思い出すようにしてぽつりぽつりと話す。
「覚えているのは、そうですね、一番最初は先代がこの宮を去られて間もなくだったと思います。わたくしが応接で一人、考え事をしていたら、ふっと気が遠くなりました。そして、少しの間意識を失っていたように思います」
「そんなことが……」
キリエは息を呑んだ。
「意識を失うなど、大変なことではございませんか、どうしておっしゃってくださらなかったのです」
「本当に短い間のこと、おそらく一瞬に近い時間のことだったからです。多分、気が抜けて、それでふっとそんなことになったのだろう、その時はそう思っておりました」
「それが初めてということは、それからもあったのですね」
「ええ、何回か。でも、どれもほんとうに短い間で、すぐに治りました。ですから、言うほどのことはない、そう思っていたのです」
「言っていただきたかったです」
キリエは握った主の手に力をこめる。
「ごめんなさい。ですが、十年を超えての任期、そのぐらいのことがあったとしてもおかしくはない、そう思っていたのです」
なんとお労しいと、キリエは胸が苦しくなる。
この美しい主は、ご自分が全ての穢れをその身に受ける覚悟で2回目の任期をお受けになられたのだ。それだけの覚悟をなさって先代をお見送りになり、お帰りを待たれていたのだ。
キリエは思わず先日のミーヤの身に起こったこと、先代がミーヤのことを守ってくれたことを話したくなる。だが、まだ言ってはいけないのだと、鉄の自制心を持って己を留めた。
「マユリアのお気持ちはよく分かりました。ですが、やはり私にだけは言っていただきたかった」
「ごめんなさい」
「いえ、お気持ちはよく分かりましたので」
キリエは主の手を握ったまま、ゆっくりと首を左右に振った。
その様子は、主を見守る下僕のそれではなく、大切な孫を見守る祖母の目、そのものであった。
マユリアはその目を見ながら、キリエという人間は、このような目を、表情をする人間であっただろうかと考える。
マユリアが物心ついた頃にはすでに侍女頭だったキリエ。その厳しい生き様から、皆はキリエを「鋼鉄の侍女頭」などと呼ぶが、マユリアの目には、いつも優しく、暖かく、懐深い人物と映っていた。映るだけではなく、実際にいつもそうして守ってくれていた。
だが、その時とはまた違う目をしているとマユリアは思った。
これまでのキリエは人として、侍女として、そして侍女頭として自分たち主を、そして侍女たちを大切にして守る存在であった。だが今はもう一歩踏み込み、その守る対象を愛しい、かわいい、そう思っているようだった。
「誰がおまえを変えたのでしょうね」
「え?」
キリエは主の言葉の意味を測りかね、戸惑った顔になった。
「お具合はいかがでしょうか」
「ああ、キリエ」
マユリアはベッドの上に上体を起こそうとするので、キリエがそれを留める。
「そのままでいらっしゃってください。無理はなさいませんように」
「いえ、もうかなりいいのです。少し起きた方が調子もいいように思います」
「さようでいらっしゃいますか」
キリエは主に手を貸して、上体を少しでも楽にできるようにと、ソファーからもう一つクッションを持ってきてあてがった。
マユリアはいつもは梳き流すかシニヨンに結っている髪を、三つ編みにして左の肩から垂らしていた。その豊かな自分の髪すら重そうに見える。
「ありがとう」
「いえ」
マユリアはふうっと楽そうに息を吐き、
「忙しい時に迷惑をかけますね」
と、侍女頭に謝罪の言葉を口にする。
「もったいないことを」
キリエは丁寧に頭を下げてから上げると、
「少し、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
と、時間を取らせることに許可を求めた。
「ええ、構いませんよ。ではここに椅子をお持ちなさい」
病の床にある主が、老いた侍女頭に心を配る。
「はい、失礼をいたします」
キリエはテーブルのところにある椅子を一つ持ち、マユリアのベッドの横に置いて、そこに腰を降ろした。
「一体何の話でしょう、何か問題でも起きましたか?」
「いえ、伺いたいのはマユリアのお具合のことでございます」
キリエは痩せた手を主の手に添え、心配そうな表情で続ける。
「一体、いつからどうお具合が悪かったのでございましょうか。今回のことが初めてではございませんでしょう」
マユリアは少し考えていたが、この侍女頭にごまかしは通じないと、
「ええ」
と、言葉少なに認める。
「一体いつから、どのようにおなりでした」
「以前から時々あったのですが、今回のようなことは初めてです」
「以前から」
キリエはやはり、と小さく嘆息する。
「いつからでございましょう」
「おそらく、八年前から」
そんな前から。
「どうして何もおっしゃってくださらなかったのです……」
「いえ、ずっと大したことはなかったのです」
「どのようなご症状がおありだったのですか」
「少しめまいがする、ぐらいのことでした」
「どうか、これまでにおありだったことを、全部お話しください」
キリエにそう言われ、マユリアは思い出すようにしてぽつりぽつりと話す。
「覚えているのは、そうですね、一番最初は先代がこの宮を去られて間もなくだったと思います。わたくしが応接で一人、考え事をしていたら、ふっと気が遠くなりました。そして、少しの間意識を失っていたように思います」
「そんなことが……」
キリエは息を呑んだ。
「意識を失うなど、大変なことではございませんか、どうしておっしゃってくださらなかったのです」
「本当に短い間のこと、おそらく一瞬に近い時間のことだったからです。多分、気が抜けて、それでふっとそんなことになったのだろう、その時はそう思っておりました」
「それが初めてということは、それからもあったのですね」
「ええ、何回か。でも、どれもほんとうに短い間で、すぐに治りました。ですから、言うほどのことはない、そう思っていたのです」
「言っていただきたかったです」
キリエは握った主の手に力をこめる。
「ごめんなさい。ですが、十年を超えての任期、そのぐらいのことがあったとしてもおかしくはない、そう思っていたのです」
なんとお労しいと、キリエは胸が苦しくなる。
この美しい主は、ご自分が全ての穢れをその身に受ける覚悟で2回目の任期をお受けになられたのだ。それだけの覚悟をなさって先代をお見送りになり、お帰りを待たれていたのだ。
キリエは思わず先日のミーヤの身に起こったこと、先代がミーヤのことを守ってくれたことを話したくなる。だが、まだ言ってはいけないのだと、鉄の自制心を持って己を留めた。
「マユリアのお気持ちはよく分かりました。ですが、やはり私にだけは言っていただきたかった」
「ごめんなさい」
「いえ、お気持ちはよく分かりましたので」
キリエは主の手を握ったまま、ゆっくりと首を左右に振った。
その様子は、主を見守る下僕のそれではなく、大切な孫を見守る祖母の目、そのものであった。
マユリアはその目を見ながら、キリエという人間は、このような目を、表情をする人間であっただろうかと考える。
マユリアが物心ついた頃にはすでに侍女頭だったキリエ。その厳しい生き様から、皆はキリエを「鋼鉄の侍女頭」などと呼ぶが、マユリアの目には、いつも優しく、暖かく、懐深い人物と映っていた。映るだけではなく、実際にいつもそうして守ってくれていた。
だが、その時とはまた違う目をしているとマユリアは思った。
これまでのキリエは人として、侍女として、そして侍女頭として自分たち主を、そして侍女たちを大切にして守る存在であった。だが今はもう一歩踏み込み、その守る対象を愛しい、かわいい、そう思っているようだった。
「誰がおまえを変えたのでしょうね」
「え?」
キリエは主の言葉の意味を測りかね、戸惑った顔になった。
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