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第五章 第一部
19 逆流
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トーヤは思い出していた。
この気配、これはあの時、聖なる湖の中で感じた「水底の御方」の気配だ。
あの時、水底へ向かって落ちていくシャンタルを必死に追いかけていた時、水底の誰かが確かにシャンタルの体を引っ張っていた。その「誰か」と似た気配がしている。
それは不思議な気配だった。聖なる何かを感じさせながらも、どこかに悪意も秘めている。水底で眠っているのは慈悲の女神シャンタルのはずだ、なのにどこかで憎しみを感じさせる、そんな気配だった。
慈悲の女神が誰かを憎むなどということがあるのだろうか、トーヤはあの時、薄れゆく意識の中でぼんやりとそんなことを思っていた。
それと、もう一度、全く違う場所でやはり同じ気配を感じたことがある。
それは懲罰房だ。キリエに案内されて行った懲罰房、あそこで感じた侍女たちの怨念、それと同じものを感じる。
なぜだ。慈悲の女神シャンタルと、そのシャンタルに仕えながら道を誤り、恨みつらみを抱えた侍女たち。同じ場所にありながら正反対のもののはずなのに気配が同じだとは。
トーヤがそんなことを頭の中で目まぐるしく考えていると、
「なに!」
いきなり、マユリアの海の方から流れていた水流が逆流するのを感じた。
トーヤはキノス方面、西へ向かう潮目に乗っていた。その潮目を乗せたまま、北から南の外海へと流れていた水流が逆流し、キノスへの潮目をマユリアの海へと引っ張る。
「まずい!」
トーヤは必死に櫂を動かし西へと船を進ませようとした。
トーヤは知っている。時に岸から遠くへ流れる海流に乗ってしまった者が必死に岸の方向へ戻ろうとし、その結果、力尽きて溺れて命を失うということを。
そんな場合は流れに逆らわず、その海流が終わる先まで流されてから脱出するか、もしくは横へ、海流から直角方向に逃れることだ。下手に逆走しても体力を失い、体温が下がり、流れに飲まれてしまうだけなのだ。
だが、今の場合、水流の先まで流されてしまうとそこはおそらくマユリアの海だ。普通に考えるなら、流れは岸に向かって、つまり無事に足がつくところまで流れていくことが可能なはずだが、その行き先は「普通ではない」海のはずだ。
もしも流されてしまったら、それこそどうなるか分からない。そのまま深い海の底まで引きずり込まれる可能性もある。というか、そういう結末しか浮かばない。
トーヤは必死に西へ進もうとするのだが、そうすると水流自体が西に移動し、上を流れるキノスへの潮目ごと、トーヤの乗った船を岸の方向へ向かって引き寄せる。
「この!」
トーヤは必死に櫂で水をかくが虚しい抵抗だった。このままでは力尽き、溺れる人と同じになる。
(くそっ! 何かないのか! 何かこいつから逃げる方法が!」
必死に櫂を動かしながら、トーヤは必死に頭の中も回転させる。そして思い出した。
あの時、もうだめかと諦めかけた時、シャンタルが守り刀で1滴の血を流したことから力が逆転した。
そうだ血だ! うまくいけばあの時と同じことが起きるはずだ!
そうは考えるのだが、実際は櫂を動かし、船を持っていかれないようにするだけで必死で、血を流すゆとりもない。腰に剣は下げているが、それを抜いてケガをする余裕もないのだ。
なんとか血を流す方法をと考え、思いついた。
「いでっ!」
思わずそう声が出る。
トーヤは舌の先を少しばかり噛み切って血を流した。
そしてその血を思いっきり、マユリアの海の方へ向かって吐き出した。
「これでどうだ!」
血だけではなく唾まで一緒に吐きかけているのだ、穢れが苦手な神様はさぞかし嫌がっているだろう。
そう思ったが、全く変化はない。
「くそおっ! 普通の人間の血じゃだめなのかよ!」
あれはシャンタルだったからこそ、神の持つ血だからこその効果かよ!
トーヤはそう考えながらも必死に櫂を動かし続ける。
小舟を乗せた潮目は西へ流れながらも北へ、マユリアの海の方へ引き寄せられている。
まっすぐだった潮目が半円を描くようにしながら、少しずつ岸の方へ引き寄せられているのだ。
「くそっ! どうすりゃいいんだ!」
湖の中でのことはだめだった。
ではあの時はどうだった?
懲罰房で不思議なものを見た時は?
あの時、あの部屋に入った時はどうだった?
そう、確かキリエが音が聞こえるかと聞いてきて、そして聞こえないと……
「あつっ!」
いきなり胸元が熱を帯びた。
それは神殿の正殿でもらった御祭神の分身だった。
あの時もこの石が侍女たちの怨念に反応して、不思議な光景を見せられた。
そして今は、石の波動にひるむように、わずかだが流れが緩んだ。
「よしっ、今だ!」
トーヤは腕よちぎれよとばかりに櫂を動かし、少しばかり船を西に進ませることができた。
「いけーっ!」
自分を叱咤するようにそう叫び漕ぎ続けた。
次の瞬間、ふっと海をかく腕の力が抜け、引き込もうとする水流から船が逃れたことを知った。
「はあぁ~……」
トーヤは体中の力を抜いて、ぐったりと船べりに体をもたせかけた。
「ちくしょう、えらい目に合わせてくれたもんだな……」
だが、ここにいたらいつまた同じ目に合うか分からない。
トーヤはなんとか櫂をつかみ直し、洞窟の出口へ向かって漕ぎ始めた。
この気配、これはあの時、聖なる湖の中で感じた「水底の御方」の気配だ。
あの時、水底へ向かって落ちていくシャンタルを必死に追いかけていた時、水底の誰かが確かにシャンタルの体を引っ張っていた。その「誰か」と似た気配がしている。
それは不思議な気配だった。聖なる何かを感じさせながらも、どこかに悪意も秘めている。水底で眠っているのは慈悲の女神シャンタルのはずだ、なのにどこかで憎しみを感じさせる、そんな気配だった。
慈悲の女神が誰かを憎むなどということがあるのだろうか、トーヤはあの時、薄れゆく意識の中でぼんやりとそんなことを思っていた。
それと、もう一度、全く違う場所でやはり同じ気配を感じたことがある。
それは懲罰房だ。キリエに案内されて行った懲罰房、あそこで感じた侍女たちの怨念、それと同じものを感じる。
なぜだ。慈悲の女神シャンタルと、そのシャンタルに仕えながら道を誤り、恨みつらみを抱えた侍女たち。同じ場所にありながら正反対のもののはずなのに気配が同じだとは。
トーヤがそんなことを頭の中で目まぐるしく考えていると、
「なに!」
いきなり、マユリアの海の方から流れていた水流が逆流するのを感じた。
トーヤはキノス方面、西へ向かう潮目に乗っていた。その潮目を乗せたまま、北から南の外海へと流れていた水流が逆流し、キノスへの潮目をマユリアの海へと引っ張る。
「まずい!」
トーヤは必死に櫂を動かし西へと船を進ませようとした。
トーヤは知っている。時に岸から遠くへ流れる海流に乗ってしまった者が必死に岸の方向へ戻ろうとし、その結果、力尽きて溺れて命を失うということを。
そんな場合は流れに逆らわず、その海流が終わる先まで流されてから脱出するか、もしくは横へ、海流から直角方向に逃れることだ。下手に逆走しても体力を失い、体温が下がり、流れに飲まれてしまうだけなのだ。
だが、今の場合、水流の先まで流されてしまうとそこはおそらくマユリアの海だ。普通に考えるなら、流れは岸に向かって、つまり無事に足がつくところまで流れていくことが可能なはずだが、その行き先は「普通ではない」海のはずだ。
もしも流されてしまったら、それこそどうなるか分からない。そのまま深い海の底まで引きずり込まれる可能性もある。というか、そういう結末しか浮かばない。
トーヤは必死に西へ進もうとするのだが、そうすると水流自体が西に移動し、上を流れるキノスへの潮目ごと、トーヤの乗った船を岸の方向へ向かって引き寄せる。
「この!」
トーヤは必死に櫂で水をかくが虚しい抵抗だった。このままでは力尽き、溺れる人と同じになる。
(くそっ! 何かないのか! 何かこいつから逃げる方法が!」
必死に櫂を動かしながら、トーヤは必死に頭の中も回転させる。そして思い出した。
あの時、もうだめかと諦めかけた時、シャンタルが守り刀で1滴の血を流したことから力が逆転した。
そうだ血だ! うまくいけばあの時と同じことが起きるはずだ!
そうは考えるのだが、実際は櫂を動かし、船を持っていかれないようにするだけで必死で、血を流すゆとりもない。腰に剣は下げているが、それを抜いてケガをする余裕もないのだ。
なんとか血を流す方法をと考え、思いついた。
「いでっ!」
思わずそう声が出る。
トーヤは舌の先を少しばかり噛み切って血を流した。
そしてその血を思いっきり、マユリアの海の方へ向かって吐き出した。
「これでどうだ!」
血だけではなく唾まで一緒に吐きかけているのだ、穢れが苦手な神様はさぞかし嫌がっているだろう。
そう思ったが、全く変化はない。
「くそおっ! 普通の人間の血じゃだめなのかよ!」
あれはシャンタルだったからこそ、神の持つ血だからこその効果かよ!
トーヤはそう考えながらも必死に櫂を動かし続ける。
小舟を乗せた潮目は西へ流れながらも北へ、マユリアの海の方へ引き寄せられている。
まっすぐだった潮目が半円を描くようにしながら、少しずつ岸の方へ引き寄せられているのだ。
「くそっ! どうすりゃいいんだ!」
湖の中でのことはだめだった。
ではあの時はどうだった?
懲罰房で不思議なものを見た時は?
あの時、あの部屋に入った時はどうだった?
そう、確かキリエが音が聞こえるかと聞いてきて、そして聞こえないと……
「あつっ!」
いきなり胸元が熱を帯びた。
それは神殿の正殿でもらった御祭神の分身だった。
あの時もこの石が侍女たちの怨念に反応して、不思議な光景を見せられた。
そして今は、石の波動にひるむように、わずかだが流れが緩んだ。
「よしっ、今だ!」
トーヤは腕よちぎれよとばかりに櫂を動かし、少しばかり船を西に進ませることができた。
「いけーっ!」
自分を叱咤するようにそう叫び漕ぎ続けた。
次の瞬間、ふっと海をかく腕の力が抜け、引き込もうとする水流から船が逃れたことを知った。
「はあぁ~……」
トーヤは体中の力を抜いて、ぐったりと船べりに体をもたせかけた。
「ちくしょう、えらい目に合わせてくれたもんだな……」
だが、ここにいたらいつまた同じ目に合うか分からない。
トーヤはなんとか櫂をつかみ直し、洞窟の出口へ向かって漕ぎ始めた。
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