黒のシャンタル 第三話 シャンタリオの動乱

小椋夏己

文字の大きさ
上 下
338 / 488
第五章 第一部

19 逆流

しおりを挟む
 トーヤは思い出していた。

 この気配、これはあの時、聖なる湖の中で感じた「水底の御方おんかた」の気配だ。

 あの時、水底へ向かって落ちていくシャンタルを必死に追いかけていた時、水底の誰かが確かにシャンタルの体を引っ張っていた。その「誰か」と似た気配がしている。

 それは不思議な気配だった。聖なる何かを感じさせながらも、どこかに悪意も秘めている。水底で眠っているのは慈悲の女神シャンタルのはずだ、なのにどこかで憎しみを感じさせる、そんな気配だった。
 慈悲の女神が誰かを憎むなどということがあるのだろうか、トーヤはあの時、薄れゆく意識の中でぼんやりとそんなことを思っていた。

 それと、もう一度、全く違う場所でやはり同じ気配を感じたことがある。

 それは懲罰房だ。キリエに案内されて行った懲罰房、あそこで感じた侍女たちの怨念、それと同じものを感じる。

 なぜだ。慈悲の女神シャンタルと、そのシャンタルに仕えながら道を誤り、恨みつらみを抱えた侍女たち。同じ場所にありながら正反対のもののはずなのに気配が同じだとは。

 トーヤがそんなことを頭の中で目まぐるしく考えていると、

「なに!」

 いきなり、マユリアの海の方から流れていた水流が逆流するのを感じた。

 トーヤはキノス方面、西へ向かう潮目に乗っていた。その潮目を乗せたまま、北から南の外海へと流れていた水流が逆流し、キノスへの潮目をマユリアの海へと引っ張る。

「まずい!」
 
 トーヤは必死にかいを動かし西へと船を進ませようとした。

 トーヤは知っている。時に岸から遠くへ流れる海流に乗ってしまった者が必死に岸の方向へ戻ろうとし、その結果、力尽きて溺れて命を失うということを。
 そんな場合は流れに逆らわず、その海流が終わる先まで流されてから脱出するか、もしくは横へ、海流から直角方向に逃れることだ。下手に逆走しても体力を失い、体温が下がり、流れに飲まれてしまうだけなのだ。

 だが、今の場合、水流の先まで流されてしまうとそこはおそらくマユリアの海だ。普通に考えるなら、流れは岸に向かって、つまり無事に足がつくところまで流れていくことが可能なはずだが、その行き先は「普通ではない」海のはずだ。
 もしも流されてしまったら、それこそどうなるか分からない。そのまま深い海の底まで引きずり込まれる可能性もある。というか、そういう結末しか浮かばない。

 トーヤは必死に西へ進もうとするのだが、そうすると水流自体が西に移動し、上を流れるキノスへの潮目ごと、トーヤの乗った船を岸の方向へ向かって引き寄せる。

「この!」

 トーヤは必死に櫂で水をかくが虚しい抵抗だった。このままでは力尽き、溺れる人と同じになる。

(くそっ! 何かないのか! 何かこいつから逃げる方法が!」

 必死に櫂を動かしながら、トーヤは必死に頭の中も回転させる。そして思い出した。

 あの時、もうだめかと諦めかけた時、シャンタルが守り刀で1滴の血を流したことから力が逆転した。

 そうだ血だ! うまくいけばあの時と同じことが起きるはずだ!

 そうは考えるのだが、実際は櫂を動かし、船を持っていかれないようにするだけで必死で、血を流すゆとりもない。腰に剣は下げているが、それを抜いてケガをする余裕もないのだ。

 なんとか血を流す方法をと考え、思いついた。

「いでっ!」

 思わずそう声が出る。

 トーヤは舌の先を少しばかり噛み切って血を流した。
 そしてその血を思いっきり、マユリアの海の方へ向かって吐き出した。

「これでどうだ!」
 
 血だけではなく唾まで一緒に吐きかけているのだ、けがれが苦手な神様はさぞかし嫌がっているだろう。

 そう思ったが、全く変化はない。

「くそおっ! 普通の人間の血じゃだめなのかよ!」

 あれはシャンタルだったからこそ、神の持つ血だからこその効果かよ!
 トーヤはそう考えながらも必死に櫂を動かし続ける。

 小舟を乗せた潮目は西へ流れながらも北へ、マユリアの海の方へ引き寄せられている。
 まっすぐだった潮目が半円を描くようにしながら、少しずつ岸の方へ引き寄せられているのだ。

「くそっ! どうすりゃいいんだ!」

 湖の中でのことはだめだった。 
 ではあの時はどうだった?
 懲罰房で不思議なものを見た時は?

 あの時、あの部屋に入った時はどうだった?
 そう、確かキリエが音が聞こえるかと聞いてきて、そして聞こえないと……

「あつっ!」

 いきなり胸元が熱を帯びた。
 
 それは神殿の正殿でもらった御祭神ごさいしんの分身だった。

 あの時もこの石が侍女たちの怨念に反応して、不思議な光景を見せられた。
 そして今は、石の波動にひるむように、わずかだが流れがゆるんだ。

「よしっ、今だ!」

 トーヤは腕よちぎれよとばかりに櫂を動かし、少しばかり船を西に進ませることができた。

「いけーっ!」

 自分を叱咤するようにそう叫び漕ぎ続けた。

 次の瞬間、ふっと海をかく腕の力が抜け、引き込もうとする水流から船が逃れたことを知った。

「はあぁ~……」

 トーヤは体中の力を抜いて、ぐったりと船べりに体をもたせかけた。

「ちくしょう、えらい目に合わせてくれたもんだな……」

 だが、ここにいたらいつまた同じ目に合うか分からない。
 トーヤはなんとか櫂をつかみ直し、洞窟の出口へ向かって漕ぎ始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【完結】ポーションが不味すぎるので、美味しいポーションを作ったら

七鳳
ファンタジー
※毎日8時と18時に更新中! ※いいねやお気に入り登録して頂けると励みになります! 気付いたら異世界に転生していた主人公。 赤ん坊から15歳まで成長する中で、異世界の常識を学んでいくが、その中で気付いたことがひとつ。 「ポーションが不味すぎる」 必需品だが、みんなが嫌な顔をして買っていく姿を見て、「美味しいポーションを作ったらバカ売れするのでは?」 と考え、試行錯誤をしていく…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...