180 / 488
第三章 第ニ部 助け手の秘密
15 懐かしい香り
しおりを挟む
熱せられた灰の上にほんの少し、小さく小さく削られた「シャンタルの香木」が置かれ、少しするとほんのりと香りが広がり始めた。
「なんだろう、このにおい……」
いつものように一番に口を開くのはベルだ。
「ああ、なんだろうな、この香り」
トーヤがそう答える。
ダルの実家、カースの村長宅の中央にある広い居間、そこにたゆたうように薄く薄く白く煙が広がっていく。それに従い、薄く薄くとても良い香りが広がっていく。
それは、今までに嗅いだことのない香りだった。
甘く、酸っぱく、塩っぱさや苦味すら感じるというのに、それらが混じり合って一つになると、この上もない妙香としか言えない香りになっている。
「不思議な香りじゃ」
村長がほおっと夢見心地のように言う。
「なんでしょうね、心の中まで清らかになるような」
村長の妻、ディナが目を閉じてうっとりとそう言う。
「なんだろうね、これ」
「ああ、初めてだ、こんなの」
「……………………」
ナスタ、サディも困惑しながらも心地よさに身を任せるように言い、ダリオは一言も発せず、ただ黙って目をつぶっているだけだ。
「嗅いだことがある」
香りの中にぽっとそんな言葉が浮かんだ。
シャンタルだ。
「これ、嗅いだことがある」
「シャンタルの香木」はシャンタルの交代の時、そして「よほどのこと」があった時にしか焚かれることはない。
交代の時のために削られた香木が奥宮に保管されている。伝説によると、削られたのは最初の交代があった二千年前のことだというが、本当のことは誰にもわからない。ただ、そう言い伝えられている。
すべてのシャンタルの交代の時のためにと削られた部分以外、香木の本体は、奥宮のある場所に厳重に保管されている。今までに何度か、国の大事にあたって当時の国王やマユリアによって削られたとの記録はあるが、トーヤが流れ着いたカースに下賜されるために当代マユリアの手によって削られるまで、百年以上の間は手つかずであった。
交代の儀式から一昼夜が経ってシャンタルの交代が完全に成り、マユリアが人と戻る時、神であった方が人へと戻られることへの餞と、そして新しい宮の主が神になられたことへの祝福のために焚かれるのだ。
その日、宮を出て人の世へと戻られるマユリアのために選ばれた香炉で香を焚き、シャンタルの私室の応接に香が焚き染められる。その後、新しくマユリアとなったこれまでのシャンタルから、人となった前マユリアに香炉が渡されてお別れの儀式となるのだ。
芳香に染まりゆく中、シャンタルが香が焚かれる時のこと、香木のことをとつとつと語った。
「だから、シャンタルであった者も、その人生で二度だけ嗅ぐ香りなんです」
「じゃあ、おまえは生まれてすぐ、交代の時にそれ嗅いで覚えてるってのか?」
ベルがシャンタルにそう聞く。
普通ならばまさかそんな時期のことを覚えてはいまい。そう思うが、何しろ相手は「黒のシャンタル」なのだ、ありえないことではない。ベルもそう思って聞いたのだ。
「その可能性もないことないけど、それよりはもっと新しい気がするから、多分、一度死んだ時、葬儀の時に焚かれたんじゃないかな」
「ああ」
その可能性はあった。
人には戻らず、神のまま亡くなった神をを見送る時、それは確かに「よほどの時」であると言えるだろう。
「だとしたらさあ、自分の葬式の時の香り覚えてるってのも、なんか、なんかだよな」
「なに、それ」
ベルの言葉にシャンタルが楽しそうにクスリと笑った。
どんな場合でもこの二人の関係は変わらない。
その光景に、香に溶けそうになっていた皆も、どこか安心するようにほんのりと笑った。居間にいつもの空気がほんの少しだけ戻ったようだ。
やがて灰の上に乗せられた香はすべて燃え尽き、放てるだけの香りを空間に放って灰と同化してしまった。
そして不思議な心安らぐ香りだけが、消滅した本体とは別の存在であるかのように、この場の全てに染み入った。
物だけではなく、人にも、人の心にも。
そして……
「うあっ!」
いきなりトーヤがそう叫んで胸を押さえた。
「トーヤ!」
それまでシャンタルと向かい合って座っていたベルが、弾かれたように立ち上がりトーヤに近寄る。
「来るな!」
トーヤは自分の身に何が起こっているか分からず、とにかくベルを遠ざけようとする。
「トーヤ!」
ベルはその場に立ち止まり、トーヤに声をかけるが近寄れない。
「なんだよ、これ……」
トーヤは自分の胸のあたりが焼けるような感覚を感じていた。
「トーヤ、どうしたんだよ!」
「わかんねえ……なんだよ、これ……」
「って、トーヤ、そこに何持ってんだよ!」
「なに?」
言われて閉じていた目をなんとか開き、腕で押さえている胸のあたりを見る。
「な!」
トーヤの胸が、正確には懐にある「何か」が不思議な光を放っていた。
「これ……」
トーヤが押さえていた手をゆっくりと放すと、懐に手を入れ、布に包まれたある物を取り出した。
「なんだよそれ! なんかめっちゃ光ってんだけど」
「これは」
トーヤの手の上で包んである布を通して光っている物。
それは、神殿で御祭神に渡された、あの不思議な石だった。
「なんだろう、このにおい……」
いつものように一番に口を開くのはベルだ。
「ああ、なんだろうな、この香り」
トーヤがそう答える。
ダルの実家、カースの村長宅の中央にある広い居間、そこにたゆたうように薄く薄く白く煙が広がっていく。それに従い、薄く薄くとても良い香りが広がっていく。
それは、今までに嗅いだことのない香りだった。
甘く、酸っぱく、塩っぱさや苦味すら感じるというのに、それらが混じり合って一つになると、この上もない妙香としか言えない香りになっている。
「不思議な香りじゃ」
村長がほおっと夢見心地のように言う。
「なんでしょうね、心の中まで清らかになるような」
村長の妻、ディナが目を閉じてうっとりとそう言う。
「なんだろうね、これ」
「ああ、初めてだ、こんなの」
「……………………」
ナスタ、サディも困惑しながらも心地よさに身を任せるように言い、ダリオは一言も発せず、ただ黙って目をつぶっているだけだ。
「嗅いだことがある」
香りの中にぽっとそんな言葉が浮かんだ。
シャンタルだ。
「これ、嗅いだことがある」
「シャンタルの香木」はシャンタルの交代の時、そして「よほどのこと」があった時にしか焚かれることはない。
交代の時のために削られた香木が奥宮に保管されている。伝説によると、削られたのは最初の交代があった二千年前のことだというが、本当のことは誰にもわからない。ただ、そう言い伝えられている。
すべてのシャンタルの交代の時のためにと削られた部分以外、香木の本体は、奥宮のある場所に厳重に保管されている。今までに何度か、国の大事にあたって当時の国王やマユリアによって削られたとの記録はあるが、トーヤが流れ着いたカースに下賜されるために当代マユリアの手によって削られるまで、百年以上の間は手つかずであった。
交代の儀式から一昼夜が経ってシャンタルの交代が完全に成り、マユリアが人と戻る時、神であった方が人へと戻られることへの餞と、そして新しい宮の主が神になられたことへの祝福のために焚かれるのだ。
その日、宮を出て人の世へと戻られるマユリアのために選ばれた香炉で香を焚き、シャンタルの私室の応接に香が焚き染められる。その後、新しくマユリアとなったこれまでのシャンタルから、人となった前マユリアに香炉が渡されてお別れの儀式となるのだ。
芳香に染まりゆく中、シャンタルが香が焚かれる時のこと、香木のことをとつとつと語った。
「だから、シャンタルであった者も、その人生で二度だけ嗅ぐ香りなんです」
「じゃあ、おまえは生まれてすぐ、交代の時にそれ嗅いで覚えてるってのか?」
ベルがシャンタルにそう聞く。
普通ならばまさかそんな時期のことを覚えてはいまい。そう思うが、何しろ相手は「黒のシャンタル」なのだ、ありえないことではない。ベルもそう思って聞いたのだ。
「その可能性もないことないけど、それよりはもっと新しい気がするから、多分、一度死んだ時、葬儀の時に焚かれたんじゃないかな」
「ああ」
その可能性はあった。
人には戻らず、神のまま亡くなった神をを見送る時、それは確かに「よほどの時」であると言えるだろう。
「だとしたらさあ、自分の葬式の時の香り覚えてるってのも、なんか、なんかだよな」
「なに、それ」
ベルの言葉にシャンタルが楽しそうにクスリと笑った。
どんな場合でもこの二人の関係は変わらない。
その光景に、香に溶けそうになっていた皆も、どこか安心するようにほんのりと笑った。居間にいつもの空気がほんの少しだけ戻ったようだ。
やがて灰の上に乗せられた香はすべて燃え尽き、放てるだけの香りを空間に放って灰と同化してしまった。
そして不思議な心安らぐ香りだけが、消滅した本体とは別の存在であるかのように、この場の全てに染み入った。
物だけではなく、人にも、人の心にも。
そして……
「うあっ!」
いきなりトーヤがそう叫んで胸を押さえた。
「トーヤ!」
それまでシャンタルと向かい合って座っていたベルが、弾かれたように立ち上がりトーヤに近寄る。
「来るな!」
トーヤは自分の身に何が起こっているか分からず、とにかくベルを遠ざけようとする。
「トーヤ!」
ベルはその場に立ち止まり、トーヤに声をかけるが近寄れない。
「なんだよ、これ……」
トーヤは自分の胸のあたりが焼けるような感覚を感じていた。
「トーヤ、どうしたんだよ!」
「わかんねえ……なんだよ、これ……」
「って、トーヤ、そこに何持ってんだよ!」
「なに?」
言われて閉じていた目をなんとか開き、腕で押さえている胸のあたりを見る。
「な!」
トーヤの胸が、正確には懐にある「何か」が不思議な光を放っていた。
「これ……」
トーヤが押さえていた手をゆっくりと放すと、懐に手を入れ、布に包まれたある物を取り出した。
「なんだよそれ! なんかめっちゃ光ってんだけど」
「これは」
トーヤの手の上で包んである布を通して光っている物。
それは、神殿で御祭神に渡された、あの不思議な石だった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

強制力がなくなった世界に残されたものは
りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った
令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達
世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか
その世界を狂わせたものは

人質から始まった凡庸で優しい王子の英雄譚
咲良喜玖
ファンタジー
アーリア戦記から抜粋。
帝国歴515年。サナリア歴3年。
新国家サナリア王国は、超大国ガルナズン帝国の使者からの宣告により、国家存亡の危機に陥る。
アーリア大陸を二分している超大国との戦いは、全滅覚悟の死の戦争である。
だからこそ、サナリア王アハトは、帝国に従属することを決めるのだが。
当然それだけで交渉が終わるわけがなく、従属した証を示せとの命令が下された。
命令の中身。
それは、二人の王子の内のどちらかを選べとの事だった。
出来たばかりの国を守るために、サナリア王が判断した人物。
それが第一王子である【フュン・メイダルフィア】だった。
フュンは弟に比べて能力が低く、武芸や勉学が出来ない。
彼の良さをあげるとしたら、ただ人に優しいだけ。
そんな人物では、国を背負うことが出来ないだろうと、彼は帝国の人質となってしまったのだ。
しかし、この人質がきっかけとなり、長らく続いているアーリア大陸の戦乱の歴史が変わっていく。
西のイーナミア王国。東のガルナズン帝国。
アーリア大陸の歴史を支える二つの巨大国家を揺るがす英雄が誕生することになるのだ。
偉大なる人質。フュンの物語が今始まる。
他サイトにも書いています。
こちらでは、出来るだけシンプルにしていますので、章分けも簡易にして、解説をしているあとがきもありません。
小説だけを読める形にしています。

「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」
ねむたん
恋愛
侯爵家の令嬢リリエット・クラウゼヴィッツは、伯爵家の嫡男クラウディオ・ヴェステンベルクと婚約する。しかし、クラウディオは婚約に反発し、彼女に冷淡な態度を取り続ける。
学園に入学しても、彼は周囲とはそつなく交流しながら、リリエットにだけは冷たいままだった。そんな折、クラウディオの妹セシルの誘いで茶会に参加し、そこで新たな交流を楽しむ。そして、ある子爵子息が立ち上げた商会の服をまとい、いつもとは違う姿で社交界に出席することになる。
その夜会でクラウディオは彼女を別人と勘違いし、初めて優しく接する。

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。

二人分働いてたのに、「聖女はもう時代遅れ。これからはヒーラーの時代」と言われてクビにされました。でも、ヒーラーは防御魔法を使えませんよ?
小平ニコ
ファンタジー
「ディーナ。お前には今日で、俺たちのパーティーを抜けてもらう。異論は受け付けない」
勇者ラジアスはそう言い、私をパーティーから追放した。……異論がないわけではなかったが、もうずっと前に僧侶と戦士がパーティーを離脱し、必死になって彼らの抜けた穴を埋めていた私としては、自分から頭を下げてまでパーティーに残りたいとは思わなかった。
ほとんど喧嘩別れのような形で勇者パーティーを脱退した私は、故郷には帰らず、戦闘もこなせる武闘派聖女としての力を活かし、賞金首狩りをして生活費を稼いでいた。
そんなある日のこと。
何気なく見た新聞の一面に、驚くべき記事が載っていた。
『勇者パーティー、またも敗走! 魔王軍四天王の前に、なすすべなし!』
どうやら、私がいなくなった後の勇者パーティーは、うまく機能していないらしい。最新の回復職である『ヒーラー』を仲間に加えるって言ってたから、心配ないと思ってたのに。
……あれ、もしかして『ヒーラー』って、完全に回復に特化した職業で、聖女みたいに、防御の結界を張ることはできないのかしら?
私がその可能性に思い至った頃。
勇者ラジアスもまた、自分の判断が間違っていたことに気がついた。
そして勇者ラジアスは、再び私の前に姿を現したのだった……

金喰い虫ですって!? 婚約破棄&追放された用済み聖女は、実は妖精の愛し子でした ~田舎に帰って妖精さんたちと幸せに暮らします~
アトハ
ファンタジー
「貴様はもう用済みだ。『聖女』などという迷信に踊らされて大損だった。どこへでも行くが良い」
突然の宣告で、国外追放。国のため、必死で毎日祈りを捧げたのに、その仕打ちはあんまりでではありませんか!
魔法技術が進んだ今、妖精への祈りという不確かな力を行使する聖女は国にとっての『金喰い虫』とのことですが。
「これから大災厄が来るのにね~」
「ばかな国だね~。自ら聖女様を手放そうなんて~」
妖精の声が聞こえる私は、知っています。
この国には、間もなく前代未聞の災厄が訪れるということを。
もう国のことなんて知りません。
追放したのはそっちです!
故郷に戻ってゆっくりさせてもらいますからね!
※ 他の小説サイト様にも投稿しています
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!

転生した愛し子は幸せを知る
ひつ
ファンタジー
【連載再開】
長らくお待たせしました!休載状態でしたが今月より復帰できそうです(手術後でまだリハビリ中のため不定期になります)。これからもどうぞ宜しくお願いします(^^)
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
宮月 華(みやつき はな) は死んだ。華は死に間際に「誰でもいいから私を愛して欲しかったな…」と願った。
次の瞬間、華は白い空間に!!すると、目の前に男の人(?)が現れ、「新たな世界で愛される幸せを知って欲しい!」と新たな名を貰い、過保護な神(パパ)にスキルやアイテムを貰って旅立つことに!
転生した女の子が周りから愛され、幸せになるお話です。
結構ご都合主義です。作者は語彙力ないです。
第13回ファンタジー大賞 176位
第14回ファンタジー大賞 76位
第15回ファンタジー大賞 70位
ありがとうございます(●´ω`●)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる