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第三章 第ニ部 助け手の秘密

15 懐かしい香り

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 熱せられた灰の上にほんの少し、小さく小さく削られた「シャンタルの香木」が置かれ、少しするとほんのりと香りが広がり始めた。

「なんだろう、このにおい……」

 いつものように一番に口を開くのはベルだ。

「ああ、なんだろうな、この香り」

 トーヤがそう答える。

 ダルの実家、カースの村長宅の中央にある広い居間、そこにたゆたうように薄く薄く白く煙が広がっていく。それに従い、薄く薄くとても良い香りが広がっていく。

 それは、今までに嗅いだことのない香りだった。
 甘く、酸っぱく、しょっぱさや苦味すら感じるというのに、それらが混じり合って一つになると、この上もない妙香みょうこうとしか言えない香りになっている。

「不思議な香りじゃ」
 
 村長がほおっと夢見心地のように言う。

「なんでしょうね、心の中まで清らかになるような」

 村長の妻、ディナが目を閉じてうっとりとそう言う。

「なんだろうね、これ」
「ああ、初めてだ、こんなの」
「……………………」

 ナスタ、サディも困惑しながらも心地よさに身を任せるように言い、ダリオは一言も発せず、ただ黙って目をつぶっているだけだ。

いだことがある」

 香りの中にぽっとそんな言葉が浮かんだ。
 シャンタルだ。

「これ、嗅いだことがある」

 「シャンタルの香木」はシャンタルの交代の時、そして「よほどのこと」があった時にしか焚かれることはない。

 交代の時のために削られた香木が奥宮に保管されている。伝説によると、削られたのは最初の交代があった二千年前のことだというが、本当のことは誰にもわからない。ただ、そう言い伝えられている。
 すべてのシャンタルの交代の時のためにと削られた部分以外、香木の本体は、奥宮のある場所に厳重に保管されている。今までに何度か、国の大事にあたって当時の国王やマユリアによって削られたとの記録はあるが、トーヤが流れ着いたカースに下賜かしされるために当代マユリアの手によって削られるまで、百年以上の間は手つかずであった。

 交代の儀式から一昼夜が経ってシャンタルの交代が完全に成り、マユリアが人と戻る時、神であった方が人へと戻られることへのはなむけと、そして新しい宮の主が神になられたことへの祝福のために焚かれるのだ。

 その日、宮を出て人の世へと戻られるマユリアのために選ばれた香炉で香を焚き、シャンタルの私室の応接に香が焚き染められる。その後、新しくマユリアとなったこれまでのシャンタルから、人となった前マユリアに香炉が渡されてお別れの儀式となるのだ。

 芳香ほうこうに染まりゆく中、シャンタルが香が焚かれる時のこと、香木のことをとつとつと語った。

「だから、シャンタルであった者も、その人生で二度だけ嗅ぐ香りなんです」
「じゃあ、おまえは生まれてすぐ、交代の時にそれ嗅いで覚えてるってのか?」

 ベルがシャンタルにそう聞く。
 普通ならばまさかそんな時期のことを覚えてはいまい。そう思うが、何しろ相手は「黒のシャンタル」なのだ、ありえないことではない。ベルもそう思って聞いたのだ。

「その可能性もないことないけど、それよりはもっと新しい気がするから、多分、一度死んだ時、葬儀の時に焚かれたんじゃないかな」
「ああ」

 その可能性はあった。
 人には戻らず、神のまま亡くなった神をを見送る時、それは確かに「よほどの時」であると言えるだろう。

「だとしたらさあ、自分の葬式の時の香り覚えてるってのも、なんか、なんかだよな」
「なに、それ」

 ベルの言葉にシャンタルが楽しそうにクスリと笑った。
 どんな場合でもこの二人の関係は変わらない。

 その光景に、香に溶けそうになっていた皆も、どこか安心するようにほんのりと笑った。居間にいつもの空気がほんの少しだけ戻ったようだ。

 やがて灰の上に乗せられた香はすべて燃え尽き、はなてるだけの香りを空間に放って灰と同化してしまった。
 そして不思議な心安らぐ香りだけが、消滅した本体とは別の存在であるかのように、この場の全てに染み入った。
 
 物だけではなく、人にも、人の心にも。

 そして……

「うあっ!」

 いきなりトーヤがそう叫んで胸を押さえた。

「トーヤ!」

 それまでシャンタルと向かい合って座っていたベルが、弾かれたように立ち上がりトーヤに近寄る。

「来るな!」

 トーヤは自分の身に何が起こっているか分からず、とにかくベルを遠ざけようとする。

「トーヤ!」

 ベルはその場に立ち止まり、トーヤに声をかけるが近寄れない。

「なんだよ、これ……」
 
 トーヤは自分の胸のあたりが焼けるような感覚を感じていた。

「トーヤ、どうしたんだよ!」
「わかんねえ……なんだよ、これ……」
「って、トーヤ、そこに何持ってんだよ!」
「なに?」

 言われて閉じていた目をなんとか開き、腕で押さえている胸のあたりを見る。

「な!」

 トーヤの胸が、正確には懐にある「何か」が不思議な光を放っていた。

「これ……」

 トーヤが押さえていた手をゆっくりと放すと、懐に手を入れ、布に包まれたある物を取り出した。

「なんだよそれ! なんかめっちゃ光ってんだけど」
「これは」

 トーヤの手の上で包んである布を通して光っている物。
 それは、神殿で御祭神に渡された、あの不思議な石だった。
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