76 / 488
第一章 第四部 穢れた侍女
15 守る声
しおりを挟む
ピシャン……ピシャン……
今ではもう音がするのではないかと思うほど体は震えているのに、動けず声も出せない。いわゆる金縛りという状態になり、セルマは芯から恐怖する。
(ヒィッ!)
何かが近づいてくる気配にザワリと全身の毛穴が開くのを感じた。
(な、何が!)
何者かが愛しそうに自分にすり寄ろうとしている。
(やめて!)
じめっとした湿気を感じさせる、淀んだ澱のような好意が自分にまとわりつき、入り込もうとしている、取り込もうとしている。
(誰か、誰か、助けて!)
セルマの目に涙が浮かぶ。
背中を向けた後ろにはミーヤがいるのは分かっているが、助けてと声を出すこともできないのだ。
(お願い、お願い、誰か……)
ふうっと意識が遠ざかりそうになった時、
「セルマ様」
他の誰か、生きた人の手が自分の背中に当てられ、今まで自分にまとわりついていた気配が雲散霧消した。
「起きていらっしゃいますか?」
ガチガチと震えながらこわばっていた全身からようやく少し力が抜ける。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
どう言っていいのか分からない。
だが……
ピシャン……ピシャン……
まだ聞こえる。
あの水音が。
「あ、あの音……」
「え?」
「あの、あの水音が」
「え?」
ミーヤはセルマに言われて耳をすませるが、
「あの、何の音もしておりませんが」
「え?」
今度はセルマが驚く。
ピシャン……ピシャン……
「なぜ、なぜ聞こえぬのです!」
ピシャン……ピシャン……
「こんなにはっきりと聞こえているではありませんか!」
「どうした?」
セルマが大きな声を出したからだろう、外の衛士が声をかけてきた。
「いえ、何もありません」
ミーヤの声が落ち着いていて異常を感じさせなかったからか、当番の衛士はそのまま自分の役目に戻っていった。
「セルマ様」
ミーヤは暗闇でよくは見えないが、おそらく真っ青になりながらも怒りの表情を浮かべているだろうセルマをなだめるように言う。
「申し訳ありません、私には聞こえません」
「うそ……」
セルマはミーヤに背中を向けたままベッドの中でもう一度全身を強張らせる。
「では、では、なぜわたくしにだけ聞こえるのです……こんなにはっきり……」
ピシャン……ピシャン……
聞くまいと思ってもどうやっても耳に入ってくる。
この部屋に移された時は開放されたとホッとしたあの音が。
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
「ああ、ああああ……」
両耳を手で押さえてもどうやっても入ってくる。
「セルマ様」
ギシリ。
ベッドに誰かが腰掛けたので一瞬セルマはビクリとしたが、それがミーヤであると分かり、少しだけ力を抜いた。
「私は誰かに起こされました」
「え?」
「うとうとと眠っていたのですが、声がして」
「こ、声が?」
セルマの声が震えを帯びる。
「ええ、やさしいかわいい声でした」
そう、あの声はおそらくあの子だ。
ミーヤがよく知るあの懐かしい子。
「その声が、ミーヤ様、起きて、起きてください。そう言って起こしてくれたのです。そうして目を覚ましたらセルマ様の様子が気になって、それでお休みかと思ったのですが声をかけさせていただきました」
「そうなのですか……」
その声がミーヤを起こしてくれたので、それで自分は助かったのだ。セルマにもそのことが分かった。
だが……
「でも、でも、まだ聞こえます」
「え?」
「水音です」
言われて今度はミーヤが困った顔になる。
ミーヤには聞こえないからだ。
セルマがそれほど恐れ慄く水音がミーヤには聞こえない。
この薄闇を恐ろしいとも思えない。
それどころか、疲れた体を癒やしなさいと優しく包んでくれているようにすら思える。
セルマのベッドに腰掛けたまま、ミーヤはキャビネットの上を見る。
薄暗がりの中、そんなことがあろうはずもないのに、なぜか木彫りの青い小鳥が光っているようにすら見える。
「そう、そうなのね」
そう言ってそっと右手を伸ばし、木彫りの小鳥をそっと撫でた。
「ありがとう、守ってくれたのですね」
「え?」
セルマが背中でその声を聞く。
「何がどうしたと言うのですか」
「この子です」
そっと抱き上げた小鳥をミーヤは見せる。
「その木彫りが?」
セルマが不信の響きを込めて言う。
「ええ、そうです」
「まさか」
「いえ、そうなのです。この子が私を起こしてくれて、そして今も守ってくれています。ほら、こんなに暖かく光って」
「光って?」
セルマはミーヤがおかしいのではないかという響きを込めて言う。
「木彫りが光るはずがないでしょう」
「いいえ、優しい光を感じます。ほら」
ミーヤの手の上の木彫りの小鳥、セルマには暗くてはっきりとその姿すら見えることがない。
「見えません。それよりこの音、この音をなんとかして!」
目をつぶり、耳を押さえるがそれでもまだ耳に届く。
「セルマ様……」
ミーヤは少し考えていたが、
「では、私がお話しをさせていただいていいですか?」
「話?」
「ええ、フェイの話を」
「フェイ?」
セルマもぼんやりとその名は聞いたことがある。
まだ幼くして儚くなった侍女見習いがいたと。
「ええ、フェイの話をさせてください」
ミーヤが青い小鳥を愛おしそうに包んでもう一度そう言った。
今ではもう音がするのではないかと思うほど体は震えているのに、動けず声も出せない。いわゆる金縛りという状態になり、セルマは芯から恐怖する。
(ヒィッ!)
何かが近づいてくる気配にザワリと全身の毛穴が開くのを感じた。
(な、何が!)
何者かが愛しそうに自分にすり寄ろうとしている。
(やめて!)
じめっとした湿気を感じさせる、淀んだ澱のような好意が自分にまとわりつき、入り込もうとしている、取り込もうとしている。
(誰か、誰か、助けて!)
セルマの目に涙が浮かぶ。
背中を向けた後ろにはミーヤがいるのは分かっているが、助けてと声を出すこともできないのだ。
(お願い、お願い、誰か……)
ふうっと意識が遠ざかりそうになった時、
「セルマ様」
他の誰か、生きた人の手が自分の背中に当てられ、今まで自分にまとわりついていた気配が雲散霧消した。
「起きていらっしゃいますか?」
ガチガチと震えながらこわばっていた全身からようやく少し力が抜ける。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
どう言っていいのか分からない。
だが……
ピシャン……ピシャン……
まだ聞こえる。
あの水音が。
「あ、あの音……」
「え?」
「あの、あの水音が」
「え?」
ミーヤはセルマに言われて耳をすませるが、
「あの、何の音もしておりませんが」
「え?」
今度はセルマが驚く。
ピシャン……ピシャン……
「なぜ、なぜ聞こえぬのです!」
ピシャン……ピシャン……
「こんなにはっきりと聞こえているではありませんか!」
「どうした?」
セルマが大きな声を出したからだろう、外の衛士が声をかけてきた。
「いえ、何もありません」
ミーヤの声が落ち着いていて異常を感じさせなかったからか、当番の衛士はそのまま自分の役目に戻っていった。
「セルマ様」
ミーヤは暗闇でよくは見えないが、おそらく真っ青になりながらも怒りの表情を浮かべているだろうセルマをなだめるように言う。
「申し訳ありません、私には聞こえません」
「うそ……」
セルマはミーヤに背中を向けたままベッドの中でもう一度全身を強張らせる。
「では、では、なぜわたくしにだけ聞こえるのです……こんなにはっきり……」
ピシャン……ピシャン……
聞くまいと思ってもどうやっても耳に入ってくる。
この部屋に移された時は開放されたとホッとしたあの音が。
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
ピシャン……ピシャン……
「ああ、ああああ……」
両耳を手で押さえてもどうやっても入ってくる。
「セルマ様」
ギシリ。
ベッドに誰かが腰掛けたので一瞬セルマはビクリとしたが、それがミーヤであると分かり、少しだけ力を抜いた。
「私は誰かに起こされました」
「え?」
「うとうとと眠っていたのですが、声がして」
「こ、声が?」
セルマの声が震えを帯びる。
「ええ、やさしいかわいい声でした」
そう、あの声はおそらくあの子だ。
ミーヤがよく知るあの懐かしい子。
「その声が、ミーヤ様、起きて、起きてください。そう言って起こしてくれたのです。そうして目を覚ましたらセルマ様の様子が気になって、それでお休みかと思ったのですが声をかけさせていただきました」
「そうなのですか……」
その声がミーヤを起こしてくれたので、それで自分は助かったのだ。セルマにもそのことが分かった。
だが……
「でも、でも、まだ聞こえます」
「え?」
「水音です」
言われて今度はミーヤが困った顔になる。
ミーヤには聞こえないからだ。
セルマがそれほど恐れ慄く水音がミーヤには聞こえない。
この薄闇を恐ろしいとも思えない。
それどころか、疲れた体を癒やしなさいと優しく包んでくれているようにすら思える。
セルマのベッドに腰掛けたまま、ミーヤはキャビネットの上を見る。
薄暗がりの中、そんなことがあろうはずもないのに、なぜか木彫りの青い小鳥が光っているようにすら見える。
「そう、そうなのね」
そう言ってそっと右手を伸ばし、木彫りの小鳥をそっと撫でた。
「ありがとう、守ってくれたのですね」
「え?」
セルマが背中でその声を聞く。
「何がどうしたと言うのですか」
「この子です」
そっと抱き上げた小鳥をミーヤは見せる。
「その木彫りが?」
セルマが不信の響きを込めて言う。
「ええ、そうです」
「まさか」
「いえ、そうなのです。この子が私を起こしてくれて、そして今も守ってくれています。ほら、こんなに暖かく光って」
「光って?」
セルマはミーヤがおかしいのではないかという響きを込めて言う。
「木彫りが光るはずがないでしょう」
「いいえ、優しい光を感じます。ほら」
ミーヤの手の上の木彫りの小鳥、セルマには暗くてはっきりとその姿すら見えることがない。
「見えません。それよりこの音、この音をなんとかして!」
目をつぶり、耳を押さえるがそれでもまだ耳に届く。
「セルマ様……」
ミーヤは少し考えていたが、
「では、私がお話しをさせていただいていいですか?」
「話?」
「ええ、フェイの話を」
「フェイ?」
セルマもぼんやりとその名は聞いたことがある。
まだ幼くして儚くなった侍女見習いがいたと。
「ええ、フェイの話をさせてください」
ミーヤが青い小鳥を愛おしそうに包んでもう一度そう言った。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

貧弱の英雄
カタナヅキ
ファンタジー
この世界では誰もが生まれた時から「異能」と「レベル」呼ばれる能力を身に付けており、人々はレベルを上げて自分の能力を磨き、それに適した職業に就くのが当たり前だった。しかし、山奥で捨てられていたところを狩人に拾われ、後に「ナイ」と名付けられた少年は「貧弱」という異能の中でも異質な能力を身に付けていた。
貧弱の能力の効果は日付が変更される度に強制的にレベルがリセットされてしまい、生まれた時からナイは「レベル1」だった。どれだけ努力してレベルを上げようと日付変わる度にレベル1に戻ってしまい、レベルで上がった分の能力が低下してしまう。
自分の貧弱の技能に悲観する彼だったが、ある時にレベルを上昇させるときに身に付ける「SP」の存在を知る。これを使用すれば「技能」と呼ばれる様々な技術を身に付ける事を知り、レベルが毎日のようにリセットされる事を逆に利用して彼はSPを溜めて数々の技能を身に付け、落ちこぼれと呼んだ者達を見返すため、底辺から成り上がる――
※修正要請のコメントは対処後に削除します。


セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

称号は神を土下座させた男。
春志乃
ファンタジー
「真尋くん! その人、そんなんだけど一応神様だよ! 偉い人なんだよ!」
「知るか。俺は常識を持ち合わせないクズにかける慈悲を持ち合わせてない。それにどうやら俺は死んだらしいのだから、刑務所も警察も法も無い。今ここでこいつを殺そうが生かそうが俺の自由だ。あいつが居ないなら地獄に落ちても同じだ。なあ、そうだろう? ティーンクトゥス」
「す、す、す、す、す、すみませんでしたあぁあああああああ!」
これは、馬鹿だけど憎み切れない神様ティーンクトゥスの為に剣と魔法、そして魔獣たちの息づくアーテル王国でチートが過ぎる男子高校生・水無月真尋が無自覚チートの親友・鈴木一路と共に神様の為と言いながら好き勝手に生きていく物語。
主人公は一途に幼馴染(女性)を想い続けます。話はゆっくり進んでいきます。
※教会、神父、などが出てきますが実在するものとは一切関係ありません。
※対応できない可能性がありますので、誤字脱字報告は不要です。
※無断転載は厳に禁じます
女神様の使い、5歳からやってます
めのめむし
ファンタジー
小桜美羽は5歳の幼女。辛い境遇の中でも、最愛の母親と妹と共に明るく生きていたが、ある日母を事故で失い、父親に放置されてしまう。絶望の淵で餓死寸前だった美羽は、異世界の女神レスフィーナに救われる。
「あなたには私の世界で生きる力を身につけやすくするから、それを使って楽しく生きなさい。それで……私のお友達になってちょうだい」
女神から神気の力を授かった美羽は、女神と同じ色の桜色の髪と瞳を手に入れ、魔法生物のきんちゃんと共に新たな世界での冒険に旅立つ。しかし、転移先で男性が襲われているのを目の当たりにし、街がゴブリンの集団に襲われていることに気づく。「大人の男……怖い」と呟きながらも、ゴブリンと戦うか、逃げるか——。いきなり厳しい世界に送られた美羽の運命はいかに?
優しさと試練が待ち受ける、幼い少女の異世界ファンタジー、開幕!
基本、ほのぼの系ですので進行は遅いですが、着実に進んでいきます。
戦闘描写ばかり望む方はご注意ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる