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2022年 9月
ハヤシじゃない
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「こちらが行列のできるお店、ビストロ・ハヤシです。このお店の名物は、特製デミグラスソースを使った名前通りのハヤシライス」
リポーターがマイクを持ち、カメラ目線でとんとんと話を進めて行く。
もう何回目だろう、こうしてテレビで取り上げられるのは。おかげで店は大繁盛、毎日毎日行列ができてありがたいことこの上ない。
「今日も満員御礼で結構なことだ」
閉店後、夫がシェフエプロンを脱ぎながら、ぐぐっと背伸びをする。
「ええ、本当にね。すっかり足が棒だわ」
私も椅子に座って足を浮かせると、足首をぐりぐりと回した。
座席数はカウンターとテーブルを合わせて30ほどのそう大きくはないお店、夫婦で切り盛りして10年になる。
ひっそりと始めた店が、最初はミニコミ紙に取り上げられ、地方紙、グルメ雑誌、そしてテレビが取材に来て、気づけば人気店になっていた。
私はその間に二人の子の母になり、店員やアルバイトを何人も雇うようになって現在に至る。
「ちょっと話があるんだけど」
「うん、なんだ?」
店から歩いて10分ほどの自宅に帰る前に、ここで話を済ませてしまいたい。
家には母が保育園にお迎えに行ってくれた子供たちもいる。
「あなた、美冴と浮気してるわよね」
「な!」
夫は私の言葉にガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
美冴は私の高校時代の同級生だ。そう仲がよかったわけではないが、仲が悪いというわけでもなかった。あまり交流がなかったと言った方がいいか。
3年前、テレビで見たと美冴が店にやってきて、
「雇ってくれないかな」
そう言った。
私は二人目の子を産んだばかり、本格的に店に戻るまではまだ少しかかるからと、新しいバイトの人を探してはいた。
だけど美冴は嫌だった。高校の頃から、色々と美冴のよくない噂を聞いてはいたから。
だが夫は、美人で人当たりのいい美冴を気に入って雇ってしまった。
仕方がない。私の体調が落ち着き、店に完全に復帰できるまでの我慢と思っていたら、どうやらその間になるようになってしまったらしい。
私がなんとなくそのことに気がついたのは、美冴がこんなことを言ったからだ。
店の名物のハヤシライスの話をしていて、
「ハヤシさんが作ったからハヤシライスって説もあるらしいの」
と私が言ったら、
「じゃあ恵が作ったらサイオンジライスね」
そう言って鼻でくすっと笑ったのだ。
私の旧姓は西園寺という。
ごく普通のサラリーマンの家なのにと、大層な名前が嫌だった。
なので結婚する時に、ごくごく普通の林という名字になれたことがとてもうれしかったのだ。
その旧姓を持ち出して、まるで私がその姓に戻るかのような言い方に、なんとなく引っかかったのだ。
それで気をつけて見ていたら、まあそういうことでした。
「離婚してください」
「え……」
「美冴と再婚したいんでしょ? だったら財産分与と慰謝料、それから養育費をまとめて一括で払ってください。もちろん美冴にも請求するけど、それが嫌なら裁判にするだけです」
私があまりにきっぱりと言ったからだろう、すんなりと離婚話は進み、私は二人の子供を連れて住み慣れた家からも店からも出ていった。
美冴はうちに来た時から、有名な店の店主である夫を狙っていたらしい。
テレビの取材などが来た時も、美人店員としてしゃしゃり出てはちやほやされ、じわじわと私を追い出しにかかっていた。
なので私が出て行ってすぐ、二人が再婚したと聞いた。
お望み通りでよかったですね。
そして2年の月日が経った。
「いらっしゃい」
「いつもの」
常連さんがいつもの席に座ってそう言う。
私もいつものようにいつもの物をお出しした。
「やっぱりこの店のが一番だなあ、どこ行っても戻ってきてしまうよ」
「まあ、じゃあ浮気せずにずっと通ってくださいね」
「もちろんだよ」
今、私は一人で小さな食堂を経営している。
ありがたいことに、そう長い行列ができるわけではないが、「隠れた名店」として知られるようになり順調だ。
店の売りは「デミライス」、あえて「ハヤシライス」の名前は使わなかった。使いたくなかったから。
うちのデミライスは前の店のと変わらぬ味、それで前の店のお得意様も通ってくれている。
当然だ、その元になるデミグラスソースは、いつも私が手間暇をかけて作っていた秘伝のソースだ。
夫はそれを使って料理を作っていただけ。私がいなくなってから、「味が落ちた」とみるみる客足は遠のいて、あっという間に潰れてしまった。
ついでに言うと、経営もほぼ私がやっていた。
夫は目に見えて目立つところでいい顔をしていただけ。美冴はそんなことも知らず、人気店の店主夫人に収まって、ちやほやされるとあっさり信じ込んでいたらしい。
忙しくなるだけ忙しくなって、店のこと、子供のこと、その他色々のことでくたくたになってしまった当時の私にとって、夫の浮気は渡りに船だったとも言える。
今は自分のペースで、母に手伝ってもらいながらも、好きなように自分の店を経営していられる。
「残念だったわね、美冴。あなたがハヤシライスだと思っていたあの店の名物は、元からサイオンジライスだったのよ」
今はどこでどうしているか分からない二人を思い、私はくすりと楽しく笑った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
最近小説を書いていることをカミングアウトした古い知人のD氏のエピソードです。
ハヤシライスのハヤシってなんだろう、そう話していたら「林さんが作ったからハヤシライスらしい」との説が出て、「じゃあ西園寺さんが作ったらサイオンジライスか」ということで大笑いしました。
当時のおもしろエピソード、あえて毒を含ませて調理してみましたが、いかがでしょう?
リポーターがマイクを持ち、カメラ目線でとんとんと話を進めて行く。
もう何回目だろう、こうしてテレビで取り上げられるのは。おかげで店は大繁盛、毎日毎日行列ができてありがたいことこの上ない。
「今日も満員御礼で結構なことだ」
閉店後、夫がシェフエプロンを脱ぎながら、ぐぐっと背伸びをする。
「ええ、本当にね。すっかり足が棒だわ」
私も椅子に座って足を浮かせると、足首をぐりぐりと回した。
座席数はカウンターとテーブルを合わせて30ほどのそう大きくはないお店、夫婦で切り盛りして10年になる。
ひっそりと始めた店が、最初はミニコミ紙に取り上げられ、地方紙、グルメ雑誌、そしてテレビが取材に来て、気づけば人気店になっていた。
私はその間に二人の子の母になり、店員やアルバイトを何人も雇うようになって現在に至る。
「ちょっと話があるんだけど」
「うん、なんだ?」
店から歩いて10分ほどの自宅に帰る前に、ここで話を済ませてしまいたい。
家には母が保育園にお迎えに行ってくれた子供たちもいる。
「あなた、美冴と浮気してるわよね」
「な!」
夫は私の言葉にガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
美冴は私の高校時代の同級生だ。そう仲がよかったわけではないが、仲が悪いというわけでもなかった。あまり交流がなかったと言った方がいいか。
3年前、テレビで見たと美冴が店にやってきて、
「雇ってくれないかな」
そう言った。
私は二人目の子を産んだばかり、本格的に店に戻るまではまだ少しかかるからと、新しいバイトの人を探してはいた。
だけど美冴は嫌だった。高校の頃から、色々と美冴のよくない噂を聞いてはいたから。
だが夫は、美人で人当たりのいい美冴を気に入って雇ってしまった。
仕方がない。私の体調が落ち着き、店に完全に復帰できるまでの我慢と思っていたら、どうやらその間になるようになってしまったらしい。
私がなんとなくそのことに気がついたのは、美冴がこんなことを言ったからだ。
店の名物のハヤシライスの話をしていて、
「ハヤシさんが作ったからハヤシライスって説もあるらしいの」
と私が言ったら、
「じゃあ恵が作ったらサイオンジライスね」
そう言って鼻でくすっと笑ったのだ。
私の旧姓は西園寺という。
ごく普通のサラリーマンの家なのにと、大層な名前が嫌だった。
なので結婚する時に、ごくごく普通の林という名字になれたことがとてもうれしかったのだ。
その旧姓を持ち出して、まるで私がその姓に戻るかのような言い方に、なんとなく引っかかったのだ。
それで気をつけて見ていたら、まあそういうことでした。
「離婚してください」
「え……」
「美冴と再婚したいんでしょ? だったら財産分与と慰謝料、それから養育費をまとめて一括で払ってください。もちろん美冴にも請求するけど、それが嫌なら裁判にするだけです」
私があまりにきっぱりと言ったからだろう、すんなりと離婚話は進み、私は二人の子供を連れて住み慣れた家からも店からも出ていった。
美冴はうちに来た時から、有名な店の店主である夫を狙っていたらしい。
テレビの取材などが来た時も、美人店員としてしゃしゃり出てはちやほやされ、じわじわと私を追い出しにかかっていた。
なので私が出て行ってすぐ、二人が再婚したと聞いた。
お望み通りでよかったですね。
そして2年の月日が経った。
「いらっしゃい」
「いつもの」
常連さんがいつもの席に座ってそう言う。
私もいつものようにいつもの物をお出しした。
「やっぱりこの店のが一番だなあ、どこ行っても戻ってきてしまうよ」
「まあ、じゃあ浮気せずにずっと通ってくださいね」
「もちろんだよ」
今、私は一人で小さな食堂を経営している。
ありがたいことに、そう長い行列ができるわけではないが、「隠れた名店」として知られるようになり順調だ。
店の売りは「デミライス」、あえて「ハヤシライス」の名前は使わなかった。使いたくなかったから。
うちのデミライスは前の店のと変わらぬ味、それで前の店のお得意様も通ってくれている。
当然だ、その元になるデミグラスソースは、いつも私が手間暇をかけて作っていた秘伝のソースだ。
夫はそれを使って料理を作っていただけ。私がいなくなってから、「味が落ちた」とみるみる客足は遠のいて、あっという間に潰れてしまった。
ついでに言うと、経営もほぼ私がやっていた。
夫は目に見えて目立つところでいい顔をしていただけ。美冴はそんなことも知らず、人気店の店主夫人に収まって、ちやほやされるとあっさり信じ込んでいたらしい。
忙しくなるだけ忙しくなって、店のこと、子供のこと、その他色々のことでくたくたになってしまった当時の私にとって、夫の浮気は渡りに船だったとも言える。
今は自分のペースで、母に手伝ってもらいながらも、好きなように自分の店を経営していられる。
「残念だったわね、美冴。あなたがハヤシライスだと思っていたあの店の名物は、元からサイオンジライスだったのよ」
今はどこでどうしているか分からない二人を思い、私はくすりと楽しく笑った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
最近小説を書いていることをカミングアウトした古い知人のD氏のエピソードです。
ハヤシライスのハヤシってなんだろう、そう話していたら「林さんが作ったからハヤシライスらしい」との説が出て、「じゃあ西園寺さんが作ったらサイオンジライスか」ということで大笑いしました。
当時のおもしろエピソード、あえて毒を含ませて調理してみましたが、いかがでしょう?
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