小椋夏己のア・ラ・カルト

小椋夏己

文字の大きさ
上 下
50 / 65
2022年  7月

母たる者

しおりを挟む
「それじゃあお母さん、明日から10日間、ショートステイに行っててね」
「お姉ちゃん」

 母は不安そうな顔で私を見上げた。

「どこ行くの? ショートステイって? 私もどこかに行くの?」
「うん、だからね」

 何回繰り返しただろう、この問答。
 母はいわゆる認知症だ。
 いっそ本当に何も分からなければそれはそれで入る施設もあるのだが、まだらというやつで、介護認定の方が来られた時などはがんばろうと思うのか、いつもよりしっかり受け答えをしてしまい、「要介護」ではなく「要支援」にしか認定されない。

「よくいらっしゃるんですよねえ、そういう方」

 と、ケアマネージャーさんもため息をつくが、考えてみればそこできちんと認定してもらおうという意識が働かないというのが、すでにそういうことなのだろうと、私もため息をついて諦めてしまっている。

 元々は実家で一人で暮らしていたのだが、そういうわけで一人で置いておくわけにはいかず、私が実家にほぼ住み込みで世話をする形になってしまった。自宅は実家から車で15分ぐらいの距離なのだが、夜のうちこそ一人で置いてはおけないので、そうするしかなかった。
 今は大学生の娘は電車で1時間以上かかる距離で一人住まい、夫は通うのが大変だろうからと、週末や休みには実家に来てくれてなんとか生活を回しているという状態だ。

 妹は飛行機の距離で家庭を持っているので、気にはしてくれてもしょっちゅう来るというわけにもいかない。今はテレビ電話などというのがあるので、それで母の様子を聞いて話をして、年に何度か来てくれている。あちらはまだ高校生と中学生の子供がいるので、それで精一杯だ。

 そんな生活を続けて3年になる。
 そんな中、私に入院、手術が必要になった。
 
 手術自体は命に関わるものではないし、入院は一週間ほど、術後もしばらく安静にすれば普通の生活に戻れるだろうということだったが、それでも全身麻酔の上に体にメスを入れるのだ、不安でないはずがない。

 それに母のことも気になった。
 ケアマネージャーさんに事情を伝え、色々手続きをしてもらった上で、母を10日ほどショートステイに預けられることになった。

「だからね、お母さん、私が入院する間、お母さんが一人でいるわけにはいかないでしょ? だからショートステイに行っていてね」
「そうなの?」

 母は相変わらず不安そうな顔でそう言う。

 一気に長期のショートステイは難しかろうと、短い時間から増やして今は3日までは泊まれるようになってはいるが、最初の一泊は結構大変だったそうだ。

 夜中に起き出し、

「お世話になりました、娘に迎えに来てもらいますから」

 そう言って帰ろうとする。
 
 さすがに施設はプロ、そんな人の扱いにも慣れているらしく、こちらが深夜に起こされるということはなかったものの、翌日聞いて何度も頭を下げたものだ。
 なんとなく娘を保育園に預けて慣らし保育をしていた時を思い出した。

 そしてまた違う時のことも思い出した。
 もうずっと前、私がまだ学生の頃のことになるが、母が命に関わる病気で倒れ、無事に手術は終わったものの、しばらく麻酔が切れずに心配したことがあった。

 ICUに面会に行き、いつまで経っても目を覚まさない母の手を握りながら、ずっとこのままだったらどうしようと、俯いて一人で泣いていたら、誰かの手が私の頭に伸びてきた。

 驚いて顔を上げると、ぼんやりした顔をこちらに向けた母が、

「泣かなくていいのよ」

 そう言って私の頭を何度か撫で、そのまままた眠ってしまった。

 全然目を覚ます気配もなかったのに、母は我が子が泣いていることに気づき、その時だけ目を覚ましてそう言ってくれたのだ。
 今度は目を覚ましてくれたことがうれしくて、母の手を握って泣いたが、今度はそのままうれしそうな顔で眠っていた。

 母の顔を見ていたら、その時の私の顔に似ているのではないか、そう思った。
 
 最近は楽しそうにショートステイに行って、ただいまと元気に帰ってくるようになっていたのに、私が入院すると聞いてからはずっとこんな感じなのだ。
 
 母ならば、もっと娘を気遣って心配してくれるだろうに、ただ不安そうな顔でうろうろしているのを見て、

「お母さん、状況分かってるんだからもうちょっとしっかりして」

 と、ついつい叱る口調になっていた、イラついていた。

 でも違うのだ。
 きっと、母はもう私の娘になっているのだ。

 今はまだ小学生から中学生ぐらい、時に大人びて背伸びしたりもするけれど(介護認定の時みたいに)そのぐらいの子供になってしまっているのだ。

 この先は、もっともっと幼くなって、きっと下の世話とかも必要になり、やがてはすっかり赤ん坊に戻ったら、来た世界に帰っていくことになるのだろう。

「うん、あのね、少しの間ショートステイに行っていてね。お母さんが元気になる間だけ」

 私がそう言うと、母は少しだけびっくりしたような顔になってからにっこりして、

「うん、分かった、待ってるから早く元気になって帰ってきてね」

 そう言った。

 私を思い目を覚ましてくれた母の母たる気持ち、そして今は、娘になってしまった母を思う私の気持ちもやはり母たる気持ちになっている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。 二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。 彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。 信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。 歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。 幻想、幻影、エンケージ。 魂魄、領域、人類の進化。 802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。 さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。 私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。

処理中です...