小椋夏己のア・ラ・カルト

小椋夏己

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2022年  7月

夜、爪を切る

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「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」

 広く知られる迷信だ。

 結局は昔の夜は暗く、日本式の握りばさみでそんな中で爪を切ってケガをすると危ないので、それを戒めるための言葉なのだと聞いたことはあるが、それでもやっぱり私は夜に爪を切ることができなかった。

「そんなの迷信だろ。第一、僕は夜仕事から戻ってからしか爪が切れないから、そんなことを言ってたら今のお嬢さんたちのように長い爪になってしまうよ」
 
 夫は笑いながらそう言って平気で夜に爪を切っていた。

「それにね、僕は実家が遠くて親がそちらにいるだろう? だから到底死に目に会えるとは思っていないんだ。だから、もしもそれが本当だとしても、やっぱり夜に爪を切ると思うよ」

 そうも言う。

 今住んでいるのは私の生まれ育った土地だ。
 知り合ったのがこの土地で、夫は遠くの地から来てこちらで就職をした。
 そのままここで私と結婚して、ここで新生活を始めてここに骨を埋めるつもりだとも言っていた。

「そちらのお父さんとお母さんには申し訳ないと思っているわ」
「そんなことを言ってるんじゃないよ」

 夫が私の言葉に驚いてそう言う。

 私は両親が年をとってからの一人娘で、それもあって両親のそばを離れたくなかった。
 同居はしなかったものの、実家から歩いて10分ほどのところに新居を構えたのは、やはり私がそう望んだからだ。

「でも」
「うちは僕だけじゃなくて兄弟姉妹が4人いるからね。兄と姉がそばにいたら親はそれで満足してるよ。妹なんか海外に行ってしまったから、やっぱりあれも気にせず夜に爪を切ってるはずだ」

 冗談めかしてそう言われても、やはり私の心は晴れない。

 十年前に母が、そして今年父が亡くなった。
 今では実家は無人となってしまった。

「まあ一人娘の君が好きにすればいいよ」

 今住んでいるマンションも持ち家だし、私が生まれ育った実家と両方の世話をするのは大変だろうが、そう言ってくれている。

 うちには息子と娘がいる。
 いつかどちらかに実家、もう片方にこのマンションをというのが理想なのだろうが、今のところはどちらにも何も言っていない。
 まだどちらも高校生なのだ。とてもそんなことを今から決められるものではない。

 夜に爪を切るなというのも、今の若い子には笑い話としか受け止められないらしい。
 上の娘の千歌なんか、お風呂上がりの爪が柔らかい間の方が形を整えやすいからと、夜切っているところをよく見かける。

「結局は気持ちの問題なのよね」
 
 私が軽くため息をつくと、夫が、

「まあ、それはそうだろうね。でもその気持ちというのも大事にすればいいと思うよ。他の人に強制さえしなければそれでいいじゃない」

 と言ってくれた。

 私はそれを守っていたからかどうかは分からないが、幸いなことに両親どちらもの死に目に会えた。
 さびしく一人きりで送ることにならなかったことは幸せなことだと思っている。
 
「だから、もしもあの子たちが私の死に目に会えなかったら、その時に後悔するのではないかと思ってしまって」
「おいおい」
 
 驚いて夫が爪を切っていた手を止めて顔を上げた。

「僕はそんなのまだまだ先だと思ってるんだけど、どこか体の具合でも悪いのか?」

 心配そうな顔をする。

「ううん、全然」
「驚かせないでくれよ」

 ホッとしたのが見ても分かった。

「ごめんなさい、そうじゃないの、でもね」
「さっきも言ってたけど、結局は心の持ち方次第だろう? それに、絶対に夜に爪を切ったことがない人間が全員親の死に目に会えてる、切ったから会えなかった、なんて統計がどこかに出てたかな」

 またそう言って笑う。

「そういえば千歌なんて、そんなの迷信だ、なんて言いながらも、霊柩車を見たら親指は隠すって言ってたなあ」

 それもまた有名な迷信だ。
 霊柩車を見たら両方の親指を握って隠さないと親に悪いことが起きるとか、なんだかそういうのだったと思う。もちろん私も大人になってもずっとやっていた。これは夜に爪を切るのと違って、どういう意味からかは分からないけど。

「私は、もう夜に爪を切っても大丈夫になってしまったの」

 夫が驚いたような顔で私を見た。
 
「そうか」

 そうだ、私が本当に言いたかったのはそれだったのだ。

「そうなんだね」
「うん」

 私は一つ頷いてから続ける。

「私、親のいない子になってしまったの」
 
 もう子供も大きくなっていい年になって何を言ってるのだと思うが、いくつになっても親は親で子は子なのだ。

「お父さんもお母さんも、いなくなってしまったの」

 そう言って思わずわっと泣き出してしまった。

「そうだね、そうなんだね」

 夫はそう言ってやさしく肩を抱き、そっと頭を撫でてくれた。
 幼い頃、両親がそうしてくれていたように。

 しばらくの間そうしていて、やっと私が落ち着いた頃に夫がこう言ってくれた。

「これからも昼に爪を切った方がいいな、うん」
「え?」
「お父さんもお母さんもきちんといるんだよ、まだまだ。だから、お父さんとお母さんのためにも君は昼に爪を切ったほうがいい、うん」

 もしかしたら、一生懸命に言葉を探してくれたのだろうか。

「うん、そうする」

 私はその言葉に甘えてそう答えていた。 
 まだしばらくは、夜に爪を切ることはできないだろうから。
 きっと。
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