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学園1年生編
バジルの葛藤
しおりを挟むバジル・リオ。それが6歳の時に与えられた僕の名前だ。それ以前になんて呼ばれていたのか、今はもう思い出せない。
家を追い出された僕は、町を彷徨いとある場所に辿り着いた。古くボロボロな教会だ。
覗いてみたが酷く荒れていて、とても人が住めるような場所ではなかった。それでも中には僕と同じような…子供達が数人いた。
彼らは僕の姿を見て、仲間だと受け入れてくれた。よく分からなかったが、人恋しかった僕には嬉しかったのだ。
だがここでの生活も、決して楽なものではなかった。
僅かな食料を奪い合う…という事はなかったが、その食料がほぼ無い。毎日町中のゴミを漁り、どうしても収穫がなければ盗みをし、すぐに捕まってはボコボコにされる。
稀に優しい人に恵んでもらった一切れのパンを皆で分ければ、一口分しか残らない。
そんな日々の繰り返し。仲間は次々に息絶え、しかし減る事はない。また新たに、子供はやってくるのだ。
僕と同じく、家を追い出された子供。
物心ついた頃から路上にいた子供。
両親が死に、行く当てのなくなった子供。
どこからか逃げてきた子供。
事情は様々だが、こういう子供が完全にいなくなる事はないんだろうなと思う。
僕は暫くの間教会にいたが…ある日、貧しさに耐えられず飛び出した。
仲間はどんどん飢えて死んでいく。僕だってそう遠くない未来、同じ目に遭うだろう。
ならば、木の実が沢山生えている場所がないか、沢山残飯が捨てられている場所はないか、探しに行くのだ。
「…行くのか」
「ああ、行くよ」
僕に声を掛けてきたのは仲間の1人。少し年上で褐色の少年。
僕と彼はよく一緒に盗みをした。僕達は足が速いので、逃げ切れることもあったから。どっちかが捕まっても、食料を皆に届けてくれればそれでいい。
彼は僕を引き止める事はしなかった。黙って背中を向け、教会の中に戻る。
僕も彼に背中を向け、歩き出した。
それから数日間僕は色々な場所に行ってみたが…最終的には力尽きて倒れてしまった。
ここまでか…こんなに苦しい思いをするならば、もっと早くに自死しておくべきだった。
いや、僕みたいな子供は…生まれてくるべきじゃなかったんだ…。
絶望の中、ゆっくりと目を閉じようとした時…
ふわりと、優しい赤色が視界に映った。
「…だいじょぶ?…あったかいね、ねえきみ、おうちは?」
おうち…そんなの、どこにも…。
どちらにせよ、僕はもう限界だった。そのまま眠りにつこうと思ったのだが、何か、温かいものに包まれた。
「よいしょ…おもいー。どっせーい」
「!坊ちゃん、そのように汚れた物を抱えてはいけません!旦那様に叱られますよ!」
「?お兄さま…まあ!その子は?」
「そこでたおれてた。いっしょにかえろうと思って。
さあ、ばしゃを出して」
「しかしですねえ…!」
「お兄さまのことばが聞こえないの?はやくだしなさい!」
「は、はい!お嬢様!!」
そして温かいものに包まれたままゴトゴトと揺らされ…僕の意識はそこで途絶える。
※※※
次に目を覚ました時、真っ先に視界に入ったのは綺麗な部屋の天井。
起き上がる事もできず横になったままぼーっとしていたら、ガチャ…と扉の開く音がした。
音のするほうに目を向けると、とても可愛らしい女の子がいたのだ。
その子は止めるメイドを振り払い僕に近付き、その綺麗な手で僕の汚れた傷だらけの手を取ってくれた。
そして眩しい笑顔で「もう大丈夫だよ」と優しい言葉をかけられて…僕はその時、確かに恋に落ちたのだった。
数日の間、僕は伯爵家で療養させていただいた。
メイドは何度も「あのお優しいお嬢様が貴方を救ってくださったのです。感謝なさい!」と言っていた。
でも、あの時…最後に見た赤い髪は、お嬢様の鮮やかな赤とは違ったはず。むしろ、そう。彼女のお兄様であるという、セレスタン様の色だったような…?
だがメイドも庭師も皆お嬢様のお陰だと言う。僕の見間違いだったのだろうか…?
ただ1人だけ。専属医師のカリエ先生だけは他の人と違ったが。
「ここまで回復していれば大丈夫だろう」
「…ありがとう」
「儂は自分の仕事をしたまで。礼を言う元気があるんなら…お前さん、お嬢様と…坊ちゃんの力になってやんな」
「坊ちゃん?」
「………」
僕の診察を終えた彼は、それ以上口を開くことなく部屋から出て行った。
その後僕は、なんとお嬢様の侍従として雇ってくださると聞いた。僕が望めば、の話らしいが断る訳がない。
よく分からないが、お嬢様が口添えしてくださったらしい。その時から僕は、お嬢様に忠誠を誓った。
「おじょうさま、ありがとう!」
「あら、いいのよ。……これから話すこと、だれにも言っちゃだめよ?」
早速お嬢様のお部屋に挨拶に向かったのだが、彼女は周囲に誰もいないことを確認して、僕に本当の事を教えてくれた。
地面に横たわる僕を見つけてくださったのは、お嬢様ではなく兄であるセレスタン様であること。
ただし彼は伯爵及び屋敷の者から冷遇されていて、その彼が連れ帰ったと知られれば僕はすぐに追い出されていたであろうこと。
なので自分が保護したことにしたが、僕を救ってくれたのは兄である、と何度も言われた。
「お兄さまは、自分のりょういきに人が近づくことを好まないの。だからあなたがお兄さまにおんがえしをしたいと考えているのなら、ひょうめんじょうはわたくしに仕えてほしいの。
でもあなたを救ってくださったのはお兄さま。これをぜったい忘れないでね!」
絶対だからね!?と念を押され、僕は頷いた。
そうか、やっぱり彼が…そう、だったんだ——…。
その翌日、坊ちゃんと顔を合わせる機会があった。
でも僕はお嬢様の言葉通り、何も知らないふりをする。
「はじめまして、ぼっちゃん。ぼくは、今後おじょうさまにお仕えする、侍従のバジル・リオです」
僕の名前。バジルはお嬢様が、リオは坊ちゃんが付けてくださった。
お嬢様曰く「お兄さま、バジルのソースがすきなのよ!それとリオは、さいきんまでお兄さまの乳母をしていたアイシャ・リオからもらったらしいわ」とのこと。
坊ちゃんは僕の顔をじーっと観察した後、ふわりと笑った。
「よかった、げんきになったんだね。これから、妹のことおねがいね」
「は、はい…」
その時僕は、またまた恋に落ちてしまいました…。
なんとか「彼は男彼は男彼は男彼は男彼は男彼は男彼は男男男男男…!!」と自分に言い聞かせ、ことなきを得たが。
その後知り合ったジスラン様も僕と同じ反応をしていて…少しだけ笑ってしまったのと、仲間意識が芽生えたのは内緒だ。
むしろジスラン様が帰った後、大変だったのはお嬢様のほう。その日の夜、夕飯も終わった後のこと。
「なんてこと…完全に彼、お兄さまのことをいやらしい目で見ていたわ…!
許さないわ、お兄さまはわたくしが守るんだからね…!」
拳に力を込めて闘志を燃やすお嬢様。この1年ほど一緒に過ごして分かったことが…
お嬢様は、非常に兄であるセレスタン様をお慕いしている。
それは恋愛感情ではない、と本人は言っているし、確かに僕にもそう見える。
坊ちゃんは…あまり人と関わろうとしないし心を開いてくれないが、親しい相手にはその可愛らしい笑顔を見せてくれるのだ。
僕以外の使用人は坊ちゃんの笑顔を見た事がないと言うし、ほとんど言葉も聞いた事がないらしい。どうやら彼は自分に悪意を持つ者、無関心な者に冷たいらしい。
その分懐に入れると、とことんその素顔を見せてくれる。
その姿はさながら小動物のようで…守ってあげたいと思うのだ。
「でも彼の家は騎士として優秀な家系よね。いずれ学園に通うようになったら、お兄さまの護衛役として親しくしておくのも手かしら?」
まあお嬢様はちょっと、度を越している気がするけど。
最初はお嬢様に恋心を抱いていた僕だが、この時はすでに冷めていた。
いやお慕いしているし忠誠は変わらず、彼女の為ならこの命すらも投げ出せるのだが…それを上回る恐怖心があったせいだろう。
そんな中、一度お嬢様に聞いてみたことがある。
「…お嬢様、お嬢様はどのような男性を好みますか?」
「?好きなタイプ?そうねえ…」
いつか彼女はどこかへ嫁がれるだろう。貴族である以上、政略結婚も覚悟しなくてはいけないが…できることならば恋愛結婚をしていただきたいのだ。
だが彼女はいつも坊ちゃんのことばかりで…僕とジスラン様以外、誰とも親しくない。
縁談は全て旦那様が握り潰しているし、彼女本人も「面倒なのでそれでいい」とか言っちゃうし。
なので、彼女にも人並みに乙女な部分があるのだろうか…気になった。
「今失礼なこと考えなかった?まあいいわ。
うーん…容姿は特に気にしないけど。自分に自信がない人は駄目ね。
お金や女にだらしない人も嫌。他人に厳しく、自分にはもっと厳しく、弱者には優しく。我が道を行く人…かしらね?どこかにいないかしら?」
頬を染めながら語る彼女は、それは愛らしい様子だった。
しかし、そうか。彼女は武人タイプが好きなのか。脳筋夫婦にならないか心配だ。
というか…お嬢様を男にしたそのまんまな気がする。多分本人は気付いてないけど。これも一種のナルシストなのだろうか…?
そうして僕はお嬢様の下、様々な事を学んだ。
その中で見えた事…僕のような浮浪児が存在するのは、旦那様…伯爵の不始末から来るものだという事。
良き領主だと思っていたのだが…そもそも彼が孤児院の運営なり支援なりをしてくだされば、あんな風に…子供達が死ぬ事も無かったのに…!!
もう旦那様は当てにならない。こうなったら、一刻も早く坊ちゃんに後を継いで欲しい…!
だが彼は、常に旦那様言いなりになっていた。旦那様と一緒にいる彼は、表情が抜け落ちていて人形のようだった。
今の彼が後継になったとしても、恐らく現状は変わらない…。
お嬢様もそれを懸念していて、ここままでは良くない、と常々仰っている。
「なんとかしてお兄様には自由になってもらわないと…親戚筋の優秀そうな子供のリスト、出来た?」
「こちらに」
それは僕とお嬢様の計画。旦那様を脅してでも養子を迎えさせ、後継を変える事。
そもそもの話、セレスタン様は後継を望んでいない。以前一度だけ…僕に告白してくださった事がある。
10歳くらいの頃だったか。彼が前髪を伸ばし、顔を隠すようになった辺り。
その日彼は、屋根の上で1人泣いていた。身軽な彼は、1人になりたい時はよくここにいるのだ。
「…グス…」
その日も声を殺して涙を流す彼の姿が。なんとか僕もよじ登り、隣に腰掛けた。坊ちゃんは一瞬ビクッとしたが、僕だと分かると安心してまた泣いた。
暫く静寂が続いていたが、ふいに彼が口を開く。
「……あのね、僕ね…伯爵になりたくないの…。
いっつもみんな、僕とロッティを比べるの。僕だって…ロッティが優秀なのは分かってる。
本当は…ロッティが当主になれればいいのにね…。
僕はね…誰かの上に立つ器じゃないの。
のんびりと暮らしたい。貴族の義務とか全部捨てて、パン屋さんとかお花屋さんで働いて、いつか好きな人が出来て一緒になって…そんな暮らしがしたいの…。
でも、無理だから。だから…頑張る…!
その為にたまに、こうやって弱音を流すの…」
そう言って彼はまた泣いた。
僕にはその小さい背中をさする事しか出来なかった。
本音を言えば。「逃げてしまいましょう」と言いたかった。彼に当主は重荷すぎるようだし…このままでは本当に壊れてしまう。
この日の出来事を、僕はすぐにお嬢様に報告した。
「何それ…将来の夢が可愛すぎるわ…!」
「お嬢様、そっちではありません。同意しますけど」
悶える彼女だったが、落ち着くと真面目モードになった。
「やっぱり…お兄様に今の暮らしは辛いのね。
…バジル。なんとかしてお兄様を後継から外すわよ。あなたも意見を出してちょうだい」
「…はい!」
本当に、僕もお嬢様が後を継げればいいと思う。
それは決して、坊ちゃんが劣っているという事では無い!何より本人達がそれを望んでいるからだ。
だから僕達は、秘密裏に行動を開始した。
だが…学園に入学してしばらくの事。坊ちゃんが…少し、変わった?
エリゼ様に堂々と意見する姿、フェニックスに立ち向かう勇姿!何より、以前より明るくなられた、笑顔が増えた。
何が彼を変えたのかはわからないが…僕は、それが嬉しくてたまらない。
今の坊ちゃんなら…と思い切って孤児について相談してみた。すると彼は、僕の想像以上に子供達を想い、力を尽くしてくれた。
だがそれは…坊ちゃんと旦那様の間に、決定的な亀裂を与える事態になってしまった…。彼らは互いに屋敷内ではいないものとして振る舞うし、坊ちゃんはダイニングに姿を現さなくなった。
僕には旦那様の考えが分からない。もう坊ちゃんに後を継がせる気は無いという事なのか…?では後継は誰が?
坊ちゃんも以前は「継がざるを得ない」という認識だったと思うのだが…何か逃げ道を見つけたのだろうか?
旦那様に堂々と反抗し、まるで「僕に文句があるなら勘当でもすれば」と言わんばかりの態度だ。
「僕は将来…院長になる!!」
初めて教会に行った帰り、坊ちゃんがそう言っていた。その時ははぐらかされてしまったが、あれは本気で言っていたように見えた。
もしも本当に、彼が家を出る事を望むなら。それが貴方の願いなら。僕は…
「どこまでも、ついていきます。きっとそれはお嬢様も…」
現在僕はラサーニュ伯爵家ご令嬢、シャルロット様に執事としてお仕えしている。
旦那様にご恩はあれど、僕の主人はお嬢様。そして坊ちゃんです。
「…おい。バジル…だったか」
「なんだ、グラス」
ずっと僕の心に刺さっていた、かつての仲間達。その中の1人で、よく一緒に盗みをしていた少年、グラス。
あの最後の日…僕を見送ってくれた彼だ。
「お前、何年か前から…物置いてったろ」
僕だけがあの地獄から救い出された。その事が、常に僕を苦しめていた。
「僕の給料じゃあれが限界でな。焼け石に水だったかもしれないけど…」
苦しくて、少しでも楽になりたくて。僅かな食料を買っては教会に続く路地に置いた。
全ての元凶である旦那様など頼れるはずもなく。
奥様は論外だし、旦那様の言いなりとなっていた坊ちゃんにも相談出来ず。
お嬢様には一度、まだ侍従になったばかりの頃に相談した事がある。だがすぐ旦那様に話が伝わり…僕は頬を殴られ、「次は解雇する」と言われてしまったのだ。
誰にも頼れず、かと言って忘れる事など出来るはずもなく。
だから、いつか誰かが解決してくれるまで…細々と支援をしていた。
「……いや、あれで助かったやつもいる。
セレスタンを連れて来てくれた事…感謝する」
「…!そう、か…。
坊ちゃんの事は、セレスタン様と呼べよ」
「…お嬢様、となら呼んでやってもいい」
…?彼はそう言って、子供達の輪に戻る。
僕が教会に身を置いていた頃。その頃の知り合いは…このグラスしか残っていなかった。
他の子は恐らく死んだ、か…攫われたか、僕のような幸運に出会ったかもしれない。
この会話の後、坊ちゃんが「何を話してたの?」と聞いて来たが、内緒にさせてもらった。子供達の中で坊ちゃんを女性だと思っているのが数人いるのは知ってたけど…まさか彼が、ねえ。
この夏期休暇の間、坊ちゃんはほぼ毎日教会に足を運んでくれた。
僕は通常の業務もあるため毎日は無理だったが、なるべく来るようにはしていた。
お嬢様も、エリゼ様もよく来てくれたし、ジスラン様も終盤には何度か来てくれた。
そして驚く事に皇太子殿下、第二皇子殿下、ナハト様も一度来てくださった。
あの日…坊ちゃんに相談してみて本当に良かった。
ご恩をお返ししていないのに。また増えてしまった。
これはもう、僕の人生全てを捧げるしかないかも?
セレスタン様。貴方が伯爵を継ごうと、家を出ようと、裁かれて遠くへ行こうとも…
僕達は、何があっても貴方の味方です。
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