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第3の鍵

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毎度のことだが、舌を巻く。の腕には……


トラウザーズの後ろを引っ張り上げただけですそのたるみが洗練のラインに生まれ変わり、ただタイをさらりと交差させたに過ぎないように見えて、その結び目は、優雅にして完璧。

こんな芸当……僕の手じゃ、到底無理だ。

もちろん、昔の宮廷衣裳ジュストコールというわけじゃない。
僕が着せてもらうのは。
イタリア製? フランス製? それともイギリス仕立てだか。
ブランドがどこかは知らない。
着心地はいいけれど、ごくごく普通のスーツだ。

だけどその『普通のスーツ』が、執事……いや、今は従者か……の手にかかると、布地の良さと仕立ての美しさが際立つ『特別な一着』に変わってしまうのだから……


まるで、じゃないか!

僕がなんとか見えるとしたら、彼の功績だろう。僕じゃなく。


最後に、このスーツに合わせて革の色を染めたという、コルテ……中敷きにそう書いてある……の靴に足を入れたとき、壁の時計が鳴った。


―――時間だ。


いよいよ、臨むのだ。
文化遺産の日レ・ジュルネ・デュ・パトリモアンヌの幕開けのに。
いや、儀式と呼んでいるのは僕だけ。

実際には、形式的に書類を確認し、署名し、『第3の鍵』を警備主任に渡すに過ぎない。

たったそれだけのこと。

だが、僕はものすごく緊張する。

だから、『儀式』なのだ。

疑われないだろうか?
僕がニセモノだと。

気づかれないだろうか?
白く固いコルの内側に、冷や汗がじんわりと浮き出していることを。


―――とにかく、鍵さえ渡してしまえば!


そう、今日という日に、鍵さえ渡してしまえば、僕の役目はもう半分終わったも同然。


もちろん……その後も、スーツを脱げるわけじゃない。
時折、吹き抜けから回廊を見下ろして「見張ってるぞ」という態度を示さなければならない。

だが、館の中の行動は自由だ。
『緑のサロン』ではこという函を片っ端から開けて眺めて楽しむことだって。


―――そもそも、僕がなぜ、この館でこんな役目をする羽目になったのか……


それは『彼』のせい……いや、『彼』ののせいだ。


この城館の回廊は、およそ一年に一度、博物館みたいになる。

毎年じゃない。

その年のテーマにこの館が相応ふさわしいとされた時だけ、『文化遺産の日』に、回廊の無料公開が求められる。
もっとも、ここ2、3年は、毎年恒例のようになっているが……


こんな流れになったのは、先代がまだ存命中の時だった。
『彼』も僕も、物心つくかつかないかという歳で……もちろん、何も覚えちゃいない。

だが、いまの『彼』は、その時の先代の判断―――回廊部分の遺産指定を承諾したこと―――は、実に鹿間違いだったと言う。

『税の軽減、建物の維持に掛かる費用の補助に目がくらんだ末の、とんでもない判断の誤り』。


その先代の跡を継いだ『彼』は、大の

赤の他人が列を成して館に足を踏み入れる光景なんか、我慢がならない。
それなら指定を返上すればいいようなものだが、どういう理由からか、そうはしない。

きっと、外面そとづらがいいせいだ。
外部には『いい顔』をしたいんだろう。

そんな『彼』が考えついた対策が、“公開の前後に館を離れる” ということ。
なんのことはない。つまりは “脱走” だ。

だが、この “脱走” には、ひとつ、問題があった。

訪問客の見張りは警備員に委ねればいいが、学芸員はそうはいかない。

学芸員というやつは、意外にやっかいなのだ。
目を光らせておかないと、“ここもあそこも指定にすべきだ”などと、好き勝手に言い出しかねない。
しかもそれを放置しておくと、に報告されてしまうのだ。

そうなったら、どれほど厄介やっかいなことか……


あのとき……言われた言葉……まだ響いてる。
僕の頭の中に、はっきりと。


“君は美術品の取り扱いのプロ。
しかも、この館のことをよく知っている。
頭でっかちでプライドばっかり高くて自分こそが目利きだと思い込んでる学芸員たちが、この館のどこに狙いを定めるのかも、よくよく解るはずだろ?
―――つまり君は、彼らに何を禁じ、何を許すべきかをわきまえているんだ。
こんなにふさわしい代理人が、ほかにいるかね? 従弟いとこ殿”


そう……

『彼』の祖父母は僕の祖父母。
『彼』の父親は僕の母の兄。
つまり『彼』と僕は従兄弟いとこどうし、ということだ。

父母を亡くし、他に身寄りはなく、友達が居ないことも同じ。
ただし……共通項は、


『彼』にはこの伯爵家を継ぐという宿命があり、僕にはそれがなかった。

僕は、たかが修復師だ。美術品の。

何の執着もない……

いや―――いや、それは嘘になるな。
正直に言おう。

伯爵の肩書きにも、この城館にも、領地にも執着はない。
けれど、代々受け継がれた資産の中に、たったひとつだけ、僕にも執着するものが……
僕を惹きつけて離さないものが。


『彼』はそうと知っていて―――巧みにそれを『人質』にしたのだ。


“僕の頼みを引き受けてくれたら、僕の代わりでいる間は好きなだけ見られるんだぞ。非公開のあの絵を”


歴史のほこりにまみれたこの城とともに、『彼』が受け継いだ、膨大な数の美術品。
その中にたまさか存在している、あの絵を。


ジェイコブ=フェルディナンド・フートが描いた中でも、ただ1枚の、マリ・マンシーニ。


知的な茶色の瞳に、人を寄せ付けない唇……
微笑みを見せようとしているのか、それとも怒りを表そうとしているのかわからない、謎の表情の、マリ。

彼女に会えるという、ただそれだけの喜びのために、僕は今、ここにいるのだ。
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