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第1の鍵

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ダンフェール=ロシュロー駅からRERエール・ウー・エール、メトロと乗り継ぎ、観光客が行き交うレピュブリック駅に出る。

広場を抜け、細い路地に入る。



さあ……そろそろ、だぞ。

その角を曲がったら、視界いっぱいの……

―――ほら!

まるで、緑の壁だ……!


敷地側から外へ……外へ……

あふれ出すように伸びている。

つただ。

無数の揺れる葉。
塀そのものを、びっしりと覆って包んでる。


その緑が途切れた一角に、扉がある。

古色蒼然こしょくそうぜんとした、木製の扉。
これは、この館の裏門だ。


母屋おもやが完成したのは、17世紀初頭。
だから、実に400年以上も前のもの……?
いや、この扉の装飾金具フェロヌリーは初期ルネサンス様式だ。
つまり、この扉は、さらにさかのぼって……ひょっとすると600年ぐらい前からここにあるのかもしれない。


当時の錠前がそのまま、というわけじゃない。

この鍵束をかんぬきに近づければ、蔦に隠れたセキュリティボックスが光るんだ。

ブザーと共に鍵が開く……最新いまのシステム。

だけど、年月が崩しつつある門構えと蔦の茂みは、そのまんま。



僕は、扉を少し押した。

扉と門の間に、ほんのわずかに隙間ができる。
そこから、青っぽい、湿気を含んだ空気が漂い出て来た。
その空気のが、僕のほほを、ひんやりと撫でる。



僕は、する。


そうしないと、これ以上進めないのだ。


「よし」


意を決して、扉を強く押す。

たちまち、固くきしむ音。
蝶番ちょうつがいの悲鳴。

相変わらず、ものすごく重い。


僕の唇は、歪んでいるはず。
苦笑い、というやつだ。


鍵を最新式にするなら、いっそ、扉ももう少し軽くすればいいのに!

毎度のことながら、まるでこの扉にをされているみたいだ。

僕がこの館に入る資格があるかどうか、見定める試験。


「ふぅ……」


どうにかこうにか、扉を開けた。
自分がすり抜けられる分だけ。


足を踏み入れる。
中へ……

ごうッと……風の出迎えだ。


鳥のさえずりが、あちこちで軽やかに転がり、響き合っている。
木々がれ合うさざめき……
枝葉にちらちらと踊る、夕暮れの光。


別世界だ。
これまでの、晩夏の喧騒とは。



僕は足を止め、つかの間、堪能たんのうする。

緑の庭を飾る光と音、そして風と色。


このまま……ここに居続けたい。


でも、そうもいかない。


僕は門を閉じた。
もう一度、渾身の力を振り絞って。



裏庭を斜めに進んで行く。

と、館の扉が開き、男が姿を現した。
執事服を着た、初老の男。

旦那様ムシュー

扉を背に、その男は僕をそう呼んだ。
調子で。

僕は彼のあごのあたりを見ながら「こんばんは」とだけ返し、外階段を一気に上った。


城館の中は、淀んで、重い。
僕は、突っ切る。

もったりとまといつく空気を掻き回すように。

そこかしこで使用人たちとすれ違う。
だが、誰ひとりとして僕に驚かない。


やがて、僕は、辿たどり着いた。
館の北側に位置する部屋だ。

鍵束を取り出す。
選ぶのは、『第1の鍵』だ。

それをドアノブに近づける。
と、電子錠が解ける音がした。

そこは―――『緑のサロン』。
そう、僕が勝手に呼んでいる。


窓はない。
その代わり、解錠と同時にライトが点灯する。


古い匂いがする。

ニスとかびほこりが……古い木と混ざった匂いだ。


『お帰りなさい』


頭の中に、声が響く。
それは僕の耳だけに届く、声だ。


僕は、ドア脇のコンソールの抽斗ひきだしから白手袋を取り出し、羽根ぼうきを手にした。


縦長の棚……深い緑色の壁3面にわたって、天井から床まで設けられた棚。
薄明かりに浮かぶ柵には、ところどころ不規則に木の札が掛かっている。

そこにずらりと並んでいるのは、中性紙で作られた、平たく薄い、大小さまざまのはこだ。

その一区画―――「VOETフート」と手書きの札が掲げられたゾーン―――に、僕は行き着く。
探さなくったって解るのだ。それはだから。

羽根ぼうきでその函の埃を拭い、そろそろと棚から抜き出す。

そっと、そっと……
年代物のワインを運ぶ給仕のように慎重に……

その函を、部屋の真ん中に運ぶ。

そこにしつらえられた大きなテーブルの上で、函にかかった紐を解き、慎重にふたを開ける。
掛け布を外し、幾重いくえにもなった薄紙を一枚一枚開く。
そうするうちに、僕の鼓動は速さを増して行く。


ようやく、が姿を現した。
僕は、ゆっくりと彼女それをイーゼルに立てかけた。
……函から抱き上げるように。



―――また、会えたね。
ようやく。



茶色の背景と混ざり合う、豊かな巻き毛。

象牙色の肌に光る、大粒の真珠のネックレス。

ドレスは茶色の濃淡の縦縞。
白いレースの襟と袖が、素敵だ。

細く重ねて結んだ紺色のリボンには、ダークブルーの石をめ込んだブローチがきらめいている。



―――だよ。すごく。



僕はきみに会うために、この『身代わり』を引き受けたんだ。

なのに、きみは


茶色い瞳……こちらを見ているようで、

眼差まなざしに現れた知性……冷たささえ感じる。

いつも、きみはそうなんだ。

引き結んだ、その淡紅色の唇で、『あなたには何も言わないわよ』と、


―――マリ。


さっき、『お帰りなさい』と僕を迎えてくれたのは、きみじゃないのか?

その唇の内側の美しい歯を、見せてはくれないのか?

誰もがうっとりと聞きほれてしまうというその声で、詩を読んでくれないのか?


かおの周囲の巻き毛……動いて見える。

もちろん、錯覚だ。

だけど左右の縦ロールがゆらゆらと揺れて見えるのも、気のせいなのか?

この香り……
僕の鼻の奥をくすぐるのは、黴の匂いでも木の匂いでもなく、きみの匂いだ……




Marie Mancini by Jacob Ferdinand VOET from Wikimedia Commons (public domain)
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