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毒島奇麗が容疑者に
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蝸牛堂出版文芸局編集長のデスクに綾町奈々子が呼ばれていた。
自宅で風呂上がりにくつろいでいるときに緊急呼びだしが懸かったのだ。
「毒島先生はどこへ行ったの?」
興梠潤子は綾町奈々子を睨む。興梠潤子は四十歳で業界最大手出版社の編集部部長に抜擢された遣り手編集者だ。小柄で臙脂縁眼鏡を掛けた、どこか地味な見かけによらずに精力的に仕事を進めてゆく。
「あ、あの」
綾町奈々子は口籠もる。
毒島綺麗六冊目の著書『湯布院・湯煙の女』が上梓されたので打ちあげをしようとしているのだが連絡が取れない。
「わ、わかりません」
奈々子の返答にすぐ側のデスクに坐る片頭悠斗が顔を向ける。
片頭悠斗は二十六歳。綾町奈々子の先輩編集者にして蝸牛堂出版社長、片頭尚樹の一人息子でもある。身長のセンチメートル数値と体重のキログラム数値がどちらも一六四。
「わからない?」
「電話にも出ないしメールの返事もないしラインも既読にならないんです」
綾町奈々子は消え入りそうな声で応える
「困ったわね。次回作の打合せもしようと思っているのに」
「次回作のことなら聞いてます。ハレとケをテーマにしたいって」
「ハレとケ……」
民俗学では重要なテーマである。
「これを見てください」
綾町奈々子はバッグから一冊の本を出した。興梠潤子はその本を受け取る。
「『正月とハレの日の民俗学』……。宮田登か」
「ええ。毒島先生から次のテーマを聞いて勉強しようと思って買ったんです」
宮田登は一九三六年生まれ。日本を代表する民俗学者の一人である。
「柳田国男によるとハレは日常じゃないって事なのよね」
「そうです。日常……普通の日じゃない特別な日です」
「祭りとかがそうかな?」
「その通りです。この本によればハレは晴れに通じているんです」
奈々子はメモ帳を出して文字で説明した。
「晴れ、か」
「ええ。重労働が続く農家の日常は曇り空のように憂鬱に感じられていたんじゃないでしょうか。そこにたまにやってくるお祭りの日は雲が晴れたように気持ちも晴れやかになったんだと思います」
「それがハレね」
「はい。普通の言葉でも〝晴れの舞台〟とか〝晴れの日〟って言いますよね」
「そういえば……。結婚式とか入学式とか……。〝普通じゃない〟日ね」
「宮田登が調査したところでは山陰地方の農村に〝年に三ときは犬も知る。盆に正月、村祭り〟という言葉があるそうです」
「盆に正月、村祭り……その〝三とき〟が農村にとってのハレの日なのね」
「そういう事です」
「〝晴れ着〟もハレに繋がる言葉なんでしょうね」
「ですね」
「じゃあケは?」
「ハレが日常じゃない日だからケは日常を表した言葉なんですよ。漢字ではこう書きます」
奈々子はまたメモ帳を使う。
──褻
「これでケと読むのか」
「そうです。もちろん元々あった〝ケ〟という言葉に漢字を当て嵌めた当て字ではあるんですけど。だから〝毛〟や〝気〟の字を充てる事もあります」
「〝気〟は判る気がする」
「そうなんですよ。たとえば〝元気〟の〝気〟が日常を動かす力になっている。それがケなんです」
興梠は頷く。
「〝ケ〟が勢いあるうちは滞りなく日常生活を送ることができますけど〝ケ〟が枯れてしまうと日常生活に支障が生じるんです」
「ケが枯れる?」
「はい。それをケガレと称します」
「ケガレ……」
「ケガレは元気の元である〝気〟が枯れるから衰退現象を意味しているんです。そうなると病気にもなる。顔もやつれてくる。その辺りから〝穢れ〟〝汚れ〟という字が当て嵌められたのかもしれません」
興梠は深く頷いた。
「つまり民俗学的には世の中には〝ケ〟〝ケガレ〟〝ハレ〟の三つの概念があるという事ね」
「そうなんです。普段はケだけどケが枯れてケガレになると、その状態を回復するためにハレの日を設定して神祭を行う必要が生じるんです。〝ケ〟〝ケガレ〟〝ハレ〟はサイクルとしても機能しているんです」
「で、毒島先生は具体的にはハレとケをどんな舞台で使う気なの?」
「料亭の取材をするって言ってました」
「料亭?」
「はい。料亭はまさにハレの場ですから」
「なるほど。普段の食卓とは違う豪華なハレの場……」
「その取材旅行に出かけているのではないかしら?」
「どこに?」
社内電話がが鳴った。
「出て」
興梠淳子部長に言われて奈々子は目の前のデスクの上の電話を受ける。
――はい。蝸牛堂出版でございます。
――こちら石川県警金沢西署の表と申しますが。
――石川、県警?
奈々子の返事に興梠淳子が顔を向けた。
――毒島綺麗さんをご存じですか?
奈々子の顔がさっと蒼ざめた。
――毒島先生に何かあったんですか?
興梠淳子が「ちょっと貸しなさい」と言いながら奈々子から受話器を奪いとった。
――もしもし。お電話代わりました。わたくし蝸牛堂出版編集部長の興梠と申しますが……ええ?! 毒島先生が殺人事件の容疑者?
興梠の言葉を聞いて奈々子は卒倒しそうになった。
自宅で風呂上がりにくつろいでいるときに緊急呼びだしが懸かったのだ。
「毒島先生はどこへ行ったの?」
興梠潤子は綾町奈々子を睨む。興梠潤子は四十歳で業界最大手出版社の編集部部長に抜擢された遣り手編集者だ。小柄で臙脂縁眼鏡を掛けた、どこか地味な見かけによらずに精力的に仕事を進めてゆく。
「あ、あの」
綾町奈々子は口籠もる。
毒島綺麗六冊目の著書『湯布院・湯煙の女』が上梓されたので打ちあげをしようとしているのだが連絡が取れない。
「わ、わかりません」
奈々子の返答にすぐ側のデスクに坐る片頭悠斗が顔を向ける。
片頭悠斗は二十六歳。綾町奈々子の先輩編集者にして蝸牛堂出版社長、片頭尚樹の一人息子でもある。身長のセンチメートル数値と体重のキログラム数値がどちらも一六四。
「わからない?」
「電話にも出ないしメールの返事もないしラインも既読にならないんです」
綾町奈々子は消え入りそうな声で応える
「困ったわね。次回作の打合せもしようと思っているのに」
「次回作のことなら聞いてます。ハレとケをテーマにしたいって」
「ハレとケ……」
民俗学では重要なテーマである。
「これを見てください」
綾町奈々子はバッグから一冊の本を出した。興梠潤子はその本を受け取る。
「『正月とハレの日の民俗学』……。宮田登か」
「ええ。毒島先生から次のテーマを聞いて勉強しようと思って買ったんです」
宮田登は一九三六年生まれ。日本を代表する民俗学者の一人である。
「柳田国男によるとハレは日常じゃないって事なのよね」
「そうです。日常……普通の日じゃない特別な日です」
「祭りとかがそうかな?」
「その通りです。この本によればハレは晴れに通じているんです」
奈々子はメモ帳を出して文字で説明した。
「晴れ、か」
「ええ。重労働が続く農家の日常は曇り空のように憂鬱に感じられていたんじゃないでしょうか。そこにたまにやってくるお祭りの日は雲が晴れたように気持ちも晴れやかになったんだと思います」
「それがハレね」
「はい。普通の言葉でも〝晴れの舞台〟とか〝晴れの日〟って言いますよね」
「そういえば……。結婚式とか入学式とか……。〝普通じゃない〟日ね」
「宮田登が調査したところでは山陰地方の農村に〝年に三ときは犬も知る。盆に正月、村祭り〟という言葉があるそうです」
「盆に正月、村祭り……その〝三とき〟が農村にとってのハレの日なのね」
「そういう事です」
「〝晴れ着〟もハレに繋がる言葉なんでしょうね」
「ですね」
「じゃあケは?」
「ハレが日常じゃない日だからケは日常を表した言葉なんですよ。漢字ではこう書きます」
奈々子はまたメモ帳を使う。
──褻
「これでケと読むのか」
「そうです。もちろん元々あった〝ケ〟という言葉に漢字を当て嵌めた当て字ではあるんですけど。だから〝毛〟や〝気〟の字を充てる事もあります」
「〝気〟は判る気がする」
「そうなんですよ。たとえば〝元気〟の〝気〟が日常を動かす力になっている。それがケなんです」
興梠は頷く。
「〝ケ〟が勢いあるうちは滞りなく日常生活を送ることができますけど〝ケ〟が枯れてしまうと日常生活に支障が生じるんです」
「ケが枯れる?」
「はい。それをケガレと称します」
「ケガレ……」
「ケガレは元気の元である〝気〟が枯れるから衰退現象を意味しているんです。そうなると病気にもなる。顔もやつれてくる。その辺りから〝穢れ〟〝汚れ〟という字が当て嵌められたのかもしれません」
興梠は深く頷いた。
「つまり民俗学的には世の中には〝ケ〟〝ケガレ〟〝ハレ〟の三つの概念があるという事ね」
「そうなんです。普段はケだけどケが枯れてケガレになると、その状態を回復するためにハレの日を設定して神祭を行う必要が生じるんです。〝ケ〟〝ケガレ〟〝ハレ〟はサイクルとしても機能しているんです」
「で、毒島先生は具体的にはハレとケをどんな舞台で使う気なの?」
「料亭の取材をするって言ってました」
「料亭?」
「はい。料亭はまさにハレの場ですから」
「なるほど。普段の食卓とは違う豪華なハレの場……」
「その取材旅行に出かけているのではないかしら?」
「どこに?」
社内電話がが鳴った。
「出て」
興梠淳子部長に言われて奈々子は目の前のデスクの上の電話を受ける。
――はい。蝸牛堂出版でございます。
――こちら石川県警金沢西署の表と申しますが。
――石川、県警?
奈々子の返事に興梠淳子が顔を向けた。
――毒島綺麗さんをご存じですか?
奈々子の顔がさっと蒼ざめた。
――毒島先生に何かあったんですか?
興梠淳子が「ちょっと貸しなさい」と言いながら奈々子から受話器を奪いとった。
――もしもし。お電話代わりました。わたくし蝸牛堂出版編集部長の興梠と申しますが……ええ?! 毒島先生が殺人事件の容疑者?
興梠の言葉を聞いて奈々子は卒倒しそうになった。
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