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第41話 テルトーの湖
しおりを挟む 吹き込む突風と頬を打つ細かな刺激に、思わず目を眇め顔を避けた。
開け放たれたガラス戸を、誰かが急いで閉めている。
エリック卿が雨の中、テラスに駆けだしたのだ。欄干から身を乗りだして兄に呼びかけている。激しい雨音と、吠えるような風の音にかき消されて、なんて言っているのか聞きとれない。
兄さん、いくらこのひどい雨で薔薇たちが心配だからって、風邪をひいてしまうよ……。
僕だけでなく、ここにいるすべてが、窓ガラスに齧りついて雨の中の二人を見ていた。
「あいつらって、本当に――、」
「まぁ、ディックの馬鹿を止められるのはエリックだけだからなぁ……」
呆れたような呟き。
だらりと力なく両腕を垂らして顔を空に向けている兄は、土砂降りの雨にその輪郭を消されて白く霞んでいる。まるで天からの罰を甘んじて受けているかのようにじっと動かない。
エリック卿は、ひらりと欄干を飛び越えた。深緑の垣根に姿が消える。次に現れたときには、薔薇園の兄に駆け寄っていた。
兄は、やっとエリック卿を見た。そしてそのまま、二人して降りしきる雨に打たれている。
なにを話しているの? 早く館に入りなよ、二人とも!
僕は苛立った。
こんな雨の中で立ち話なんて正気じゃない! これだから兄さんは変人扱いされるんだ!
僕も二人を呼び戻しに行こう、とフランス窓に足を向けたときだった。
「あの二人、本当に仲がいいのね」
ネルの声が僕を引き止めた。
「ああ、あいつら血が濃いからね。おまけにプレップの頃からずっと一緒。家族よりも、ずっと互いを知り尽くしている」
「悪さするときもいつも一緒!」
どっと、みんなが笑い崩れた。
それは、お互いさまだろ!
確かにうちとラザフォード家は近親婚の繰り返しで、ただの親戚というよりもずっと血が濃いのかも知れない。でもそんなの、ここにいるみんなだって似たり寄ったりじゃないか? ずっと寄宿学校育ちで、家族よりも友人同士の方が、よほど気心知れているのも同じじゃないか?
だからここに来るんだろ?
兄とエリック卿が馬鹿にされているように思えて、ぐっと拳を握りしめていた。でも怒りにまかせてわめきたてるなんてことは、紳士的じゃないことこの上ない。だから目を瞑って、心を落ち着けるための深呼吸を繰り返した。何度も。何度も。
奥歯を噛みしめて目を開けたとき、もう兄とエリック卿は庭にいなかった。僕は、ふうっ、と深く息を漏らした。
良かった、戻ったんだ。部屋かな――。二度とあんな馬鹿な真似をしないように、兄を怒ってこなくっちゃ!
僕は足早にこの部屋を出ようと出口に向かった。ルーシーが不安そうな顔をして、パタパタと追いかけてきた。彼女もここに残るのは嫌なのだろう。
ネルの甲高い笑い声が響く。
そのあと続いた彼女の言葉に、僕は驚愕のあまり立ち尽くした。それこそ、雷に打たれたように――。
「この薔薇の香りが不快なの。片づけてくださる?」
確かに彼女はそう言った。誰かが速やかに花瓶を抱えて出口に向かう。兄の薔薇の残り香が染みつく湿った空気を吸い込んで、僕はくらりと目眩を覚えた。
薄暗い空を背に長ソファーに腰かける彼女は、ぞっとするような冷ややかな笑みを浮かべていた。その美しさは彼女が拒んだ一抱えの薔薇にも負けない。むしろ僕の捧げた一輪の薔薇に似て、孤高で、孤独で、高貴ですらあった。
「あんなやり方じゃ伝わらないよ。英国流の遠廻しな嫌味なんて通じない。それに、そんなに心配しなくても、あんな子どもを相手にしたりしない。ましてきみが、」
兄の部屋をノックしようとしたとき、わずかなドアの隙間からそんな言葉が漏れ聞こえた。
「ヤケを起こすんじゃないよ、ディック」
優しげな、でもどこか哀しげなエリック卿の声音に、僕はドアを叩くことができなくなった。
まさか――。
そっと踵を返した。
図書室に戻るのは嫌だった。かと言って自室に帰る気にもなれず、イライラした気分を抱えたまま音楽室に入っていった。
ここにも兄の優しい薔薇が飾ってある。鮮やかな黄色の薔薇だ。僕は奥歯を噛みしめ、口をぐっとへの字に曲げた。泣きだして、しまいそうだった。
棚から僕のヴァイオリンを取りだした。
兄のお薦めの曲を訊くのを忘れていた。どうしてメンデルスゾーンじゃ駄目なんだろう? 僕はもう、パガニーニだってこんなに弾けるようになったのに。
「ジオ、ジオってヴァイオリン上手なのね!」
ドアの隙間からルーシーの顔が覗く。その後ろから、ロバートがバツの悪そうな顔で続く。朝方ロバートを怒っていたことなんてすっかり忘れて、僕は彼の顔を見るなりずいぶんほっとした。
「お入りよ。お茶にしようよ」
お昼をとっくに過ぎていた。僕はどのくらい、ここにいたのだろう――。
「メアリーに何か貰ってくる」
気がついたとたんに鳴りだした腹の虫に気づかれないように、僕は愛想笑いをしながら、「ここで待っていてね」と二人に念を押して厨房に向かった。
夕食までずっと三人で過ごした。ネルは夕食に来なかった。兄たちと食べるから、とボイドが祖母に告げていた。兄は、みんなのところへ戻ったのだろうか? あんなに雨に打たれて、大丈夫だった? 本当はずっと気になっていたのに、その日、僕は兄の部屋をノックする勇気がどうしても湧かなかったのだ。
翌朝には雨は止んでいた。
水滴の向こうに青空が広がる。僕はいつものように窓を開ける。
――見下ろしたテラスが赤く染まっていた。
僕の部屋の真下。図書室の前のテラスは、打ち捨てられた真紅の薔薇で無残に赤く染まっていた。まるで、飛び散った鮮血のように。
雨の中天を仰ぐ兄の姿が殉教者のように、なぜだか、僕の脳裏を過ぎっていた。
開け放たれたガラス戸を、誰かが急いで閉めている。
エリック卿が雨の中、テラスに駆けだしたのだ。欄干から身を乗りだして兄に呼びかけている。激しい雨音と、吠えるような風の音にかき消されて、なんて言っているのか聞きとれない。
兄さん、いくらこのひどい雨で薔薇たちが心配だからって、風邪をひいてしまうよ……。
僕だけでなく、ここにいるすべてが、窓ガラスに齧りついて雨の中の二人を見ていた。
「あいつらって、本当に――、」
「まぁ、ディックの馬鹿を止められるのはエリックだけだからなぁ……」
呆れたような呟き。
だらりと力なく両腕を垂らして顔を空に向けている兄は、土砂降りの雨にその輪郭を消されて白く霞んでいる。まるで天からの罰を甘んじて受けているかのようにじっと動かない。
エリック卿は、ひらりと欄干を飛び越えた。深緑の垣根に姿が消える。次に現れたときには、薔薇園の兄に駆け寄っていた。
兄は、やっとエリック卿を見た。そしてそのまま、二人して降りしきる雨に打たれている。
なにを話しているの? 早く館に入りなよ、二人とも!
僕は苛立った。
こんな雨の中で立ち話なんて正気じゃない! これだから兄さんは変人扱いされるんだ!
僕も二人を呼び戻しに行こう、とフランス窓に足を向けたときだった。
「あの二人、本当に仲がいいのね」
ネルの声が僕を引き止めた。
「ああ、あいつら血が濃いからね。おまけにプレップの頃からずっと一緒。家族よりも、ずっと互いを知り尽くしている」
「悪さするときもいつも一緒!」
どっと、みんなが笑い崩れた。
それは、お互いさまだろ!
確かにうちとラザフォード家は近親婚の繰り返しで、ただの親戚というよりもずっと血が濃いのかも知れない。でもそんなの、ここにいるみんなだって似たり寄ったりじゃないか? ずっと寄宿学校育ちで、家族よりも友人同士の方が、よほど気心知れているのも同じじゃないか?
だからここに来るんだろ?
兄とエリック卿が馬鹿にされているように思えて、ぐっと拳を握りしめていた。でも怒りにまかせてわめきたてるなんてことは、紳士的じゃないことこの上ない。だから目を瞑って、心を落ち着けるための深呼吸を繰り返した。何度も。何度も。
奥歯を噛みしめて目を開けたとき、もう兄とエリック卿は庭にいなかった。僕は、ふうっ、と深く息を漏らした。
良かった、戻ったんだ。部屋かな――。二度とあんな馬鹿な真似をしないように、兄を怒ってこなくっちゃ!
僕は足早にこの部屋を出ようと出口に向かった。ルーシーが不安そうな顔をして、パタパタと追いかけてきた。彼女もここに残るのは嫌なのだろう。
ネルの甲高い笑い声が響く。
そのあと続いた彼女の言葉に、僕は驚愕のあまり立ち尽くした。それこそ、雷に打たれたように――。
「この薔薇の香りが不快なの。片づけてくださる?」
確かに彼女はそう言った。誰かが速やかに花瓶を抱えて出口に向かう。兄の薔薇の残り香が染みつく湿った空気を吸い込んで、僕はくらりと目眩を覚えた。
薄暗い空を背に長ソファーに腰かける彼女は、ぞっとするような冷ややかな笑みを浮かべていた。その美しさは彼女が拒んだ一抱えの薔薇にも負けない。むしろ僕の捧げた一輪の薔薇に似て、孤高で、孤独で、高貴ですらあった。
「あんなやり方じゃ伝わらないよ。英国流の遠廻しな嫌味なんて通じない。それに、そんなに心配しなくても、あんな子どもを相手にしたりしない。ましてきみが、」
兄の部屋をノックしようとしたとき、わずかなドアの隙間からそんな言葉が漏れ聞こえた。
「ヤケを起こすんじゃないよ、ディック」
優しげな、でもどこか哀しげなエリック卿の声音に、僕はドアを叩くことができなくなった。
まさか――。
そっと踵を返した。
図書室に戻るのは嫌だった。かと言って自室に帰る気にもなれず、イライラした気分を抱えたまま音楽室に入っていった。
ここにも兄の優しい薔薇が飾ってある。鮮やかな黄色の薔薇だ。僕は奥歯を噛みしめ、口をぐっとへの字に曲げた。泣きだして、しまいそうだった。
棚から僕のヴァイオリンを取りだした。
兄のお薦めの曲を訊くのを忘れていた。どうしてメンデルスゾーンじゃ駄目なんだろう? 僕はもう、パガニーニだってこんなに弾けるようになったのに。
「ジオ、ジオってヴァイオリン上手なのね!」
ドアの隙間からルーシーの顔が覗く。その後ろから、ロバートがバツの悪そうな顔で続く。朝方ロバートを怒っていたことなんてすっかり忘れて、僕は彼の顔を見るなりずいぶんほっとした。
「お入りよ。お茶にしようよ」
お昼をとっくに過ぎていた。僕はどのくらい、ここにいたのだろう――。
「メアリーに何か貰ってくる」
気がついたとたんに鳴りだした腹の虫に気づかれないように、僕は愛想笑いをしながら、「ここで待っていてね」と二人に念を押して厨房に向かった。
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翌朝には雨は止んでいた。
水滴の向こうに青空が広がる。僕はいつものように窓を開ける。
――見下ろしたテラスが赤く染まっていた。
僕の部屋の真下。図書室の前のテラスは、打ち捨てられた真紅の薔薇で無残に赤く染まっていた。まるで、飛び散った鮮血のように。
雨の中天を仰ぐ兄の姿が殉教者のように、なぜだか、僕の脳裏を過ぎっていた。
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