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母の悲鳴を聞いたような気もするが、あんな女のことなどどうでもよくて忘れてしまった。
次にはっきりと記憶に残っているのは、強く抱きしめられた感触だ。
厚い胸板に顔が埋もれ息が苦しい。
それを訴えようとむめは何とか視線を上に向けた。とたん、あられもなく泣いている魁偉な風貌の老人の顔が視界に入った。
状況が理解できずあっけにとられる彼女に向かって彼は口を開く。
とっさにむめは身を硬くした。
悪鬼のごとき二親から解放されてなお、大人に怒鳴られることをまず彼女は連想してしまったのだ。その癖はもはや、性根の水準で彼女の心を支配していた。そんな自分がむめはむしょうにみじめに思える。
だが、老人が発したのは彼女が予期したのとは正反対の言葉だ。
「よう、頑張った」
力強い、それでいて慈しみのこもった声で彼はねぎらう。
「もう、大事はない。誰もお前さんに拳骨を喰らわしたりひっぱたいたり、怒鳴ったりはしない」
「うそ」
意識するよりも早く、むめの口からはそのせりふがこぼれていた。
鬼などいなくとも、血の池などなくとも、針の山などなくとも、地獄とはほかでもない“ここ”なのだ。この現世こそが苦界に他ならない。
老人はそっと抱擁をといて、こちらと正面から目を合わせた。
「嘘などではない」
「うそ、うそ、うそ」
老人の否定の言葉をふりはらおうとするように、むめは首を激しく左右に動かした。
希望など抱いても失望するだけだ、そのことは長屋の住人が父を注意してもなんの変化もなかったときに理解していた。
次にはっきりと記憶に残っているのは、強く抱きしめられた感触だ。
厚い胸板に顔が埋もれ息が苦しい。
それを訴えようとむめは何とか視線を上に向けた。とたん、あられもなく泣いている魁偉な風貌の老人の顔が視界に入った。
状況が理解できずあっけにとられる彼女に向かって彼は口を開く。
とっさにむめは身を硬くした。
悪鬼のごとき二親から解放されてなお、大人に怒鳴られることをまず彼女は連想してしまったのだ。その癖はもはや、性根の水準で彼女の心を支配していた。そんな自分がむめはむしょうにみじめに思える。
だが、老人が発したのは彼女が予期したのとは正反対の言葉だ。
「よう、頑張った」
力強い、それでいて慈しみのこもった声で彼はねぎらう。
「もう、大事はない。誰もお前さんに拳骨を喰らわしたりひっぱたいたり、怒鳴ったりはしない」
「うそ」
意識するよりも早く、むめの口からはそのせりふがこぼれていた。
鬼などいなくとも、血の池などなくとも、針の山などなくとも、地獄とはほかでもない“ここ”なのだ。この現世こそが苦界に他ならない。
老人はそっと抱擁をといて、こちらと正面から目を合わせた。
「嘘などではない」
「うそ、うそ、うそ」
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希望など抱いても失望するだけだ、そのことは長屋の住人が父を注意してもなんの変化もなかったときに理解していた。
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