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 丑三つ時、胡頽(ぐみ)を思わせる色の月が雲一つない空には浮かんでいる。空気が夏の沼地のそれのごとく駆けている伊左衛門の肌に不快にまとわりつく。
「おん、だきに、ぎゃち、ぎゃかにえい、そわか、おん、きりかく、そわか」
 寝静まった町屋には、大音声での茶柷尼天(だきにてん)がひびいていた。唱えている主は、伊左衛門から三間ほど前を走る人影だ。その正体は大店のご新造だった。昼間はつややかで女人なら羨まずにはいられない髪も、今は髷がほどけ毛が魍魎のごとき不気味な動きで宙に舞っている。
 伊左衛門と大店のご新造、ちよは既に四半刻ほどこうして追いかけあっていた。全力でそれだけの時間を駆けつづけられる伊左衛門の体力もたいしたものだが、女の身でその先を行くご新造の脚力には空恐ろしいものがある。ちよは夜の逃亡劇が楽しいのか、
「おん、だきに、ぎゃち、ぎゃかにえい」
 真言を唱えながらも、肩越しにこちらをふり返り確認してくる。
 大きな瞳に形のいい鼻梁、白い肌と容姿は大店の主が惹かれるのも無理はないというものだ。もっとも、今の彼女の姿を見て女性的な魅力を感じる者はいないだろうが。
 いい加減にして下さい――伊左衛門は足を動かしつづけながらも胸のうちで嘆息する。手にしている杖が走るのに邪魔になっているが捨てる訳にもいかなかった。
 が、両者の追いかけあいは彼が望まぬ形で終止符が打たれることとなった。
 町屋の表の通り、ちよが向かう先で銀光がひらめいている。
 あれは、と伊左衛門は双眸を細めて正体を見定めた。
「やはり、大刀(たち)」
 驚きと辟易の入り混じった思いを伊左衛門は抱く。
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