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 だが、習慣とは恐ろしいものだ。
 時の感覚を失くした助之進は、いつの間にか木剣を手に兄弟子と向かい合っている。
 立っている場所も外ではなく、道場の床の上に様変わりしていた。壁際に門弟が並んで見取り稽古を行っている。
 攻撃をくり出した瞬間、助之進は躱され逆に胴を打たれていた。寸止めではあったが、完全な停止はむずかしく硬い木剣が腹を打ち据える。その衝撃と痛みに息を詰まらせ彼はその場にひざをついた。なさけなくて、痛み以外の理由で目尻に涙がにじんだ。
 師匠の叱責が飛んでくる。「どうした、助之進。たるんでおるぞ」
 ほかにも、立ち合い稽古を見守る門弟たちの戸惑いやいぶかしさのこもった視線が助之進には向けられていた。道場破りを打ち破ったのがついこの間のことだけに余計に彼らの困惑は強いのだろう。
「あいつ、腹の調子でも悪いのか」
 あまりにも本調子でないことを怪訝に思ったのか、門弟のひとりが晴幸に確認を取る声さえ聞こえる。
「さようなことはないはずですが」
 事情をありのままにいう訳にもいかず晴幸が言葉を濁した。
 ただ、そういう朋友の気づかいをありがたがる精神的余裕が今の助之進にはない。なかった。あるはずもない。
 志乃の縁談の話に心を乱し、かつ己の心の拠り所である剣の腕すら十二分に発揮できないことがとほうもない重圧となって彼を引き倒そうとしていた。現し世そのものが重みをもって襲いかかってきているような感覚だ。
「もうし、わけありません」
 助之進は腹に力を込め師に謝る。声を出すのにさえ一苦労だった。
 必死の形相に、立ち合いの相手を務める兄弟子吉原平内が眉間にしわを寄せた。『昼幽霊』などというあだ名がひそかにつけられるほどに陰気な顔つきの男だが、意外に気の利くことを門弟であれば誰でも知っていた。
「なにか仔細があるのか」
 平内が彼特有のささやくような聞き取りづらい声でたずねてくる。
「いえ」一拍の間を開けて応じた助之進の態度に彼は納得のようすを見せないが、
「もう一本、お願いします」
 弟弟子が懇願の声を張り上げたことでそれ以上の追及は思いとどまらざるを得ないようだった。剣をふるっては反撃を喰らい、隙をうかがっては捨て太刀に乗って一本とられ、そういうことをくり返した末、
「もうよい、助。今日のお前の立ち合いでは、見取り稽古にならぬ」
 師の厳しい声が飛んできて壁際にさがらされる。生きた心地がしないまま、助之進は門弟たちの立ち合い稽古を上の空で眺めた。
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