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「そのせいで畜生どもが村を荒らす。みずからの足もとが脅かされるのが嫌で鉄砲を使わせない、そんな公儀の了見のせいで婆さまみたいな者が死ぬのです。そんな間違いを招く法度を作る公儀の決めたことが、ことごとく正しいとでも思うのですか?」
ふいに、平太の胸のうちに渡世人飛脚の話を聞いたときの感覚が訪れる。
間違いを招く法度を作る公儀の決めたことなら、過ちもある、か――言われてみればその通りだ。
「さっきも言ったが物は試しだ。この世過ぎが気に入らなけりゃ、これまでと同じく畑を耕して生きればいいじゃねえか」
心が動いたところに告げられたこのせりふが最後の一押しとなった。
「それじゃあ、親分。一度だけお引き受けします」
と平太は酒で熱くなったほおの熱をさらにあげながら首を縦にふる。
五
三度笠などの渡世人の旅支度は周太がととのえてくれた。というより、事前に用意していたのだろう。縞の合羽の丈は平太にぴったりなものだったのだ。
それをあてがわれたとき彼はあきれた視線を親分に向けたものだが、当の周太は「おう、似合ってる、似合ってる」とよろこんでまったく意に介さなかった。
ただ、周太の住処(すみか)をはなれてしばらく歩いてみて平太は唖然となる事実に気づいたのだ。
体が軽い――風にひるがえる衣のごとき身軽さを総身におぼえた。今なら、話に聞く富士の御山の山頂にすら駆け登れそうな気すらする。
“平太”というひとりの人間の様々なしがらみから解放されたからだ。
父のようになりたくないという思い以外に、村での暮らしを守る意義など平太にはなかった。そのために、一時的にとはいえすべてを放り投げて旅に出ることは想像だにしなかった爽快感を平太の心のうちに満たしている。
だから、ふたつの“事柄”も気にならない。
ひとつは、親分に「仕事を任せるっていっても、右も左もわからねえやつをひとりで送り出すわけにはいかねえからな」といって指導役としてつけられた渡世人がとにかく不愛想なことだ。
既に又一郎は周太のもとを発っており、旅連れとして割り当てられたのはちょうど居合わせた己之吉という無宿だった。起伏の少ない細面の顔貌をした三十絡みの男で、体格こそ中肉中背だがなかなかの貫禄を感じさせる。ただ、とにかく寡黙だった。
「今回の仕事は斬った張ったのやり取りはありそうなんでありやしょうか?」
「さあな」
「己之吉の兄貴は渡世人飛脚を長いこと請け負ってなさるんで?」
「まあな」
「兄貴は剣術(やっとう)のほうは遣(つか)うんで?」
「いや」
といった調子で、どんな言葉をかけても一言しか返ってこないのだ。
これが物見遊山の旅なら、さっさと見切りをつけて通りがかりの者でいいから旅連れの者を見つけているところだった。
ただ、仕事の相方となればそういうわけにもいかない。
が、前記の通り、心が軽いために己之吉の態度も別段気にならなかった。なんの平凡もない里山の景色でも移り変わりを目にするだけでどこか心がすこし躍る。
寝起きもまあ“あれ”だったが――。
その明け方のちょっとした出来事こそ、ふたつ目の“事柄”だ。
ふいに、平太の胸のうちに渡世人飛脚の話を聞いたときの感覚が訪れる。
間違いを招く法度を作る公儀の決めたことなら、過ちもある、か――言われてみればその通りだ。
「さっきも言ったが物は試しだ。この世過ぎが気に入らなけりゃ、これまでと同じく畑を耕して生きればいいじゃねえか」
心が動いたところに告げられたこのせりふが最後の一押しとなった。
「それじゃあ、親分。一度だけお引き受けします」
と平太は酒で熱くなったほおの熱をさらにあげながら首を縦にふる。
五
三度笠などの渡世人の旅支度は周太がととのえてくれた。というより、事前に用意していたのだろう。縞の合羽の丈は平太にぴったりなものだったのだ。
それをあてがわれたとき彼はあきれた視線を親分に向けたものだが、当の周太は「おう、似合ってる、似合ってる」とよろこんでまったく意に介さなかった。
ただ、周太の住処(すみか)をはなれてしばらく歩いてみて平太は唖然となる事実に気づいたのだ。
体が軽い――風にひるがえる衣のごとき身軽さを総身におぼえた。今なら、話に聞く富士の御山の山頂にすら駆け登れそうな気すらする。
“平太”というひとりの人間の様々なしがらみから解放されたからだ。
父のようになりたくないという思い以外に、村での暮らしを守る意義など平太にはなかった。そのために、一時的にとはいえすべてを放り投げて旅に出ることは想像だにしなかった爽快感を平太の心のうちに満たしている。
だから、ふたつの“事柄”も気にならない。
ひとつは、親分に「仕事を任せるっていっても、右も左もわからねえやつをひとりで送り出すわけにはいかねえからな」といって指導役としてつけられた渡世人がとにかく不愛想なことだ。
既に又一郎は周太のもとを発っており、旅連れとして割り当てられたのはちょうど居合わせた己之吉という無宿だった。起伏の少ない細面の顔貌をした三十絡みの男で、体格こそ中肉中背だがなかなかの貫禄を感じさせる。ただ、とにかく寡黙だった。
「今回の仕事は斬った張ったのやり取りはありそうなんでありやしょうか?」
「さあな」
「己之吉の兄貴は渡世人飛脚を長いこと請け負ってなさるんで?」
「まあな」
「兄貴は剣術(やっとう)のほうは遣(つか)うんで?」
「いや」
といった調子で、どんな言葉をかけても一言しか返ってこないのだ。
これが物見遊山の旅なら、さっさと見切りをつけて通りがかりの者でいいから旅連れの者を見つけているところだった。
ただ、仕事の相方となればそういうわけにもいかない。
が、前記の通り、心が軽いために己之吉の態度も別段気にならなかった。なんの平凡もない里山の景色でも移り変わりを目にするだけでどこか心がすこし躍る。
寝起きもまあ“あれ”だったが――。
その明け方のちょっとした出来事こそ、ふたつ目の“事柄”だ。
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