【本編完結済】底辺αは箱庭で溺愛される

架向３１

『猪瀬、俺と一緒に逃げよう。』

親父は予想していたはずだ。父さんのこの言葉ぐらいは
けれど、実際に最愛の番が自分の巣から他のオスに逃げようと囁いているのを見てしまうのだ。その衝撃は親父の心を打ち砕いたのだろう。
憤怒というのは、この状態のことを言うのか？

「それは、さすがに許せないね？陸」
息を飲む音が聞こえた。

「なんで、ここにいる。出張は…」

父さんは親父がいない日を狙ったのだ。親父がいなくて俺も居ない日に猪瀬さんと2人、見つからないようにここを出るつもりだったのだ。

「きなさい、陸。」

親父の威圧に俺は腰が抜けてしまった。親父は俺に興味を示すこともなく、リビングに入って行った。
猪瀬さんを守るつもりで来たのに、廊下で腰を抜かしているだけなんて、これでは何の役にも立たない。恐怖で唇さえも震え、言葉を発することすら叶わない
駄目だ、親父は言葉だけで猪瀬さんを殺せてしまうのに……！

「猪瀬、長年よく私に仕えてくれたな。もう」

「貴嗣！猪瀬が逝けば俺もついていくぞ！」

親父の言葉をお父さんが遮って。親父の言葉お父さんが遮った。猪瀬さんは、猪瀬の家は、猪瀬の血筋は京極家にとらわれている。京極当主の言葉に。京極当主の言葉に逆らうことは難しく、当主が拒絶しただけで命を絶つこともあるのだ。父さんはそれを防止したのだ。この威圧が荒れ狂う中で。

「懐かしいね、その台詞。」

懐かしい。もしかしたら親父は猪瀬さんを殺そうとしたことが。あったのかもしれない。その度に父さんはこんなふうに言って、猪瀬さんを守ってきたのだ。
そうだ、いくら右腕とは言ったところで。親父にとって猪瀬さんは父さんの初めての番なのだ。レイプまでして番おうとした父さんの初めての番。目の上のたんこぶだろう。

「でもね、陸？今の君にそんなことができるの？架向はいいのかい？」
ぎくりとした。
『お前は俺の大事な大事な息子だ。何よりも大切な息子だ』
父さんの口癖。
「陸がいないなら、私にとって架向は何の価値もない」
…愛されていなことぐらい知ってた。けれど…分かっていても親父の言葉はつらい。

「そうだね、寧ろ今回の事態を引き起こした責任を取らせるか」
俺の、親父にとって俺の価値は父さんへの人質…ただのそれだけ

「だ、駄目だ…た、貴嗣。架向も猪瀬も悪くないんだ。お、俺が早合点して動いてしまっただけで…」
「そう？まぁ、私なら陸の悩みなんて簡単に解決できるよ。どちらかが死ねばいい」
息をのんだ。親父にとって俺も猪瀬さんもそこまでどうでもいい存在なのか。
「お前の息子でもあるんだぞ！家族なんだぞ！」

「陸にとって必要なものであって私に必要なモノではない。そして、陸がソレを捨てて行くなら廃棄するだけだ」
「棄てるつもりは無い！数年で数年で戻って来るつもりだった！架向が猪瀬を諦めるか、ヒートが来ない年齢に猪瀬にがなったら！そしたら戻るつもりだった！Ωになりようもないから！」
親父がくすりと嗤った。空気がさらに冷える
「そうだね、陸にとってはそれはたった数年かもね。でも、私は数十年に感じるだろう。想いの差をこうやって見せつけるのだから、残酷だよね。……陸らしいけど」

…たった数年
そう、父さんにとってはたった数年。けれど、俺も親父も番がいない一日は千秋にも等しい

「お前を頼りにしていた。猪瀬を見失った架向がどうなるか不安だった。小学校時代の初恋の様に冷めてくれるのか、上位αの執着になってしまうのか。けれど、今の架向ならお前がいれば導いてくれるだろうと思っていた。初めはお前も苛つくだろうが俺の意図を理解してくれると、連絡を取りながら何とか…と、今のお前ならと思って架向を託そうとした。」
「だろうね。でも、陸が他のオスと逃げるなんて許せる訳がないだろう」

父さん、それは無理だよ。
俺ですら、猪瀬さんを奪っていこうとした父さんへの怒りが強いんだ。今、猪瀬さんを、俺を守ってくれているのは父さんだってわかっている。でも、でも、猪瀬さんがメスと逃げるなんて許せる訳がない。
自分の頭の中がぐしゃぐしゃだ。