僕たちは正義の味方

八洲博士

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 「何でこんな物を救急車に持ち込んでいるのよ」
 何事かつぶやきながら考え事をしていた香川先生がいきなり尋ねてきた。先程僕が救急救命士を説得していた話を聞いていなかったようだ。剣道の竹刀を知らない人はいないと思うがサイズや重量を正確に説明するよりは実物を見た方が早いと思う。それが与えるダメージも想像しやすいはずだ。多分。

 担当した医師も最初に竹刀を見て驚いたものの、説明を続けるうちには竹刀を手に取り、質感を確かめていた。帯刀さんは急な話で手術室に空きがないこともあり急遽処置室で手当てが行われた。強い痛み止めを点眼しながら、眼球に刺さった竹の組織を引き抜く。生理食塩水で洗浄して包帯で保護する。あとは瞼に軽い擦り傷。これを消毒して終わる。メスを使わないし傷を縫合することもない。素早い治療を優先したのだ、合理的ではある。それでも今夜は入院することになった。大変なのはその後の話だ。きっと。

 運が良かったと言えるのだろう。帯刀陽子を担当した医師は回想する。軽いとは言え一本の竹刀の全重量がささくれた繊維数本分の面積に集中した場合、眼球を突き抜けて脳に損傷を与えてもおかしくはなかった。剣道の部活中という話だったから防具が被害を減衰させたのだろう。被害は眼球に留まったのだがダメージは深刻だった。水晶体も虹彩も損傷が激しい。視力の回復は絶望的で精神的に落ち着いたら、義眼を装着するための手術になるだろう。中学の二年生か。なかなかの美少女だった。スポーツに恋愛、彼女の豊かであろう青春時代に影を落とすようで気が重い。外見的には義眼の方が良くなるはずなのだが。距離感を失うのはつらいはずだ。どんな競技であれスポーツであれ、距離感がつかめないというのは大きなハンデになる。こんなやりきれない思いをした日は浴びる程酒を飲んで、重苦しい気持ちを押し流したいものだが。今夜は当直なんだよね、俺は。
夜半を過ぎたあたりで心に蓋をして仮眠を取る。寝不足でのミスが許される職場じゃないからな。

 心と体の芯にこびりついた疲労感を感じながら俺を起こしにきた看護師の後を追う。昨夜は夢見が悪かった。俺が処置した女の子、その子が無言で目の前に立っている。ケガした左目は抉り取ったかのように赤黒く眼窩が見えてる。泣きながらも無表情で俺を睨む女の子。やめてくれ、あんたにケガをさせたのは俺
じゃない。
 聞けばナースコールのあった個室は彼女の病室だった。
 麻酔が醒めて、現実を認識したら大声で泣き叫びかねない。とてもじゃないが相部屋になんか入れられない。そういえば麻酔が切れる頃か。麻酔が切れれば
痛覚も蘇る。その辺は個人差があるので痛み止めは朝食後にと考えて処方したのだが今となっては後悔しかできない。
 外はもう日が出ているはずだが病室のカーテンは閉められたままだ。巻かれていたはずの包帯を外したのは看護師か。病室の明るい照明の下でベッドに体を起こした患者がこちらに顔を向ける。
 一瞬息が止まった。体もだ。心臓だけが強く大きく暴れている。
 彼女の左目は赤黒く変色していた。俺が見た悪夢そのままに。
 なんとか平静を装って近づき、診断を始める。赤黒く見えたのは眼窩ではなく
目ヤニのようだった。俺を呼びにきた看護師に蒸しタオルを用意させると担当の看護師に話を聞く。それは十数分前の事だった。

 どうやら彼女の担当看護師もいろいろと気に病んでいたらしい。聞けば大学生の娘さんがいるそうで、中高生の子育て期には何度か手を焼く時期があったらしい。あまりにも理不尽な暴力で奪われた視覚と将来の夢や希望。与えられたハンディキャップ。認識が深まるほどに絶望しかない状況で患者が暴れだしてもおかしくはなかった。入院患者に朝食を配膳すれば、自分の勤務終了は目前だ。しかし眠っている少女を起こす時が最難関ポイントであることも意識していた。
痛み、怒りと悲しみ、絶望。どれ一つとっても、少女を狂乱させるに十分なものだ。そこで彼女は様子見に来たのだが、ベッドは、いや病室は空だった。
 唖然とした看護師が立ち直るのと部屋の主たる少女が帰ってきたのはほぼ同時だった。看護師は努めて優しく話しかける。
 「姿が見えないので心配したわ。距離感がおかしくなるから一人で歩くのは
お勧めしないけど。転んだりすると危ないですし大丈夫でしたか」
 うつむいた少女は小さな声で返事をする。
 「あ、その。トイレを我慢できなかったので・・・」
 「・・・あっ。そ、そうなのね」
 彼女の個室は洗面台やトイレも完備されているグレードの高い部屋だったのだが。照明を落とした消灯時間のせいでわかりにくくなっている。さらに今は
視野が狭い。トイレのドアを見落としたのだろう。
 中学校での部活中の事故により病院に搬送されたこの女の子には痛み止めの点眼と同時に麻酔薬も処方されている。夕食も食べずに眠り続けていたわけで、さぞかしお腹を空かしているだろうとは思っていたが。それはトイレも同じ事だ。むしろ絶食した分のエネルギーを皮下脂肪などの消費で補った場合、よりトイレが近くなる。麻酔の効き目が早く切れたのもそのせいかしらと思いを巡らす看護師に少女が話しかける。
 「あのう、痛くはないんですけど、左目の感覚がおかしいので。診てもらえませんか」
 昨日自分も立ち会ったが、彼女への手当ては、さらに悪化することを防ぐための応急処置でしかない。何かしらの不具合があった場合担当医に報告をする為ケガの具合をみることにした。包帯、ガーゼの交換は看護師の守備範囲である。
 包帯を外しガーゼの下から現れた眼窩にみえるカサブタに気が動転した看護師はあわてて仲間に助けを求めた。ナースステーションに詰めている看護師にコールを送って。

 もうひとりの看護師から蒸しタオルを受け取った医師は少女の左目に軽く押し当てる。乾いた目ヤニをふやかしてゆっくりと拭い取るために。やがて開かれたまぶたの下から傷ひとつない綺麗な瞳が現れた。カーテンを開ける看護師の動きに合わせて虹彩が過剰な光を調節していく、正常な瞳だった。
 呆けた医師と看護師の顔を見て少女がクスリと笑う。
 「すみません、みなさん同じような表情をしてたので・・・」
 「いや、いい。うん、よかった」
 正気に帰った大人達は病室から退散していく。
 看護師は患者への配膳のために。
 医師は、報告書の書き方について全力で思考を回転させながら。
 「(失明確定な少女の瞳が一晩で完全再生されました、なんてな・・・)書けるか、そんな報告書。・・・まあ、良かったけどよ」

 一方、個室で朝食を済ませた帯刀陽子は一人静かに頬を染めていた。
 「どうしよう舞ちゃん。ごめんね里紗ちゃん。私も次郎君に惚れちゃった」
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