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再会編

03:水谷加奈

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水谷加奈みずたに かな

 私は幼い頃から、父の転勤に合わせ、街を転々として来た。

 どんなに仲の良い友達が出来ても、その関係が続くことは無かったし、それ以上に......。

 母は、私に習い事を強要した。その街に、評判の先生がいればピアノを、テニスクラブがあれば、テニスを。学校と習い事を行き来し、自由時間はほとんど無かった。

 加えて、母は私が行儀良く振る舞う様にしつけ、模範的な子と友達になる様、口を酸っぱくして言い聞かせて来た。

 息が詰まりそうだった。

 けれど、そんな母も学校での過ごし方に干渉する事は出来なかった。

 小学五年の春、私は御殿場市に引越し、桜木美代子と、高林百合に出会った。

 二人はお世辞にも、母の求める基準を満たす子では無かった。美代子は目立ちたがり屋で、下品な言動も目立ち、宿題もしょっちゅう忘れてくる。

 百合は引っ込み思案だが、粗暴で、悪ふざけが過ぎて学校の物を良く壊して怒られていた。

 二人と仲良くなったのは、家が近かったから。

 下校中、たまたま一緒になる事が多くて、少しずつ色々な話をする事になった。

 意外にも、美代子の将来の夢は、小説家と舞台役者だった。役者はともかくとして、目立ちたがり屋の美代子が、小説家になりたがっている理由が分からず、不思議だった。

 休み時間に、美代子は大学ノートに小説を書き、百合はそれを眺めていた。

 ある時、私は宿題のノートに小さく描いた落書きを消し忘れた事をきっかけに、学級新聞にイラストを描くようになった。

 色々な習い事を母に強要され、趣味と言わされて来たが、イラストだけは、自分が描きたいと思って描いていた。だから、嬉しかった。

 それが美代子の目に留まり、小説の挿絵を描いてくれと懇願された。とても......とても嬉しかった。

 休み時間は、毎日美代子や百合と過ごす様になった。

 そして、家にいる時も、母に隠れて絵を描く様になった。その事で、口論になる事が多くなった。

 母は、私の描いた絵を取り上げ、目の前で破り捨て、「こんな暇があるなら、勉強かテニスの練習をしなさい! 将来のために!」と金切り声を上げた。

 以前の私なら、恐怖に竦み上がり、泣きながら謝った事だろう。けれど、私の中には、確固たる私が生まれつつあった。

 美代子も、百合も、奔放に生きている。それが許されている。

 ーー何故、私だけが駄目なんですか?

 ヒステリックに叫ぶ母を、冷めた目で見ていた。この生き物は、一体なんなんだろう?

 何度母が破り捨てようとも、美代子が持っている小説の挿絵は、消えやしない。練習の成果が、結果として永遠に残る。

 だから、なんとも思わなかった。

 美代子と百合のおかげで、私は私を取り戻した。

 それなのに、私は二人に度々酷い事を言ってしまった。

 田舎で、小学生が外で遊べば、服が汚れるなんて当たり前。けれど、母はそれを許さない。私が着ている物は、殆どがブランド品で、時々服の方が私よりも価値が高いんじゃないかと思うくらい。

 泥がつけば怖かった。母に怒られる母に怒られる母に怒られる!!!
 だから、美代子や百合に怒鳴り散らしてしまう事があった。

 それでも、翌日になれば二人は、底なしに明るい表情で話し掛けてくる。......どれほど救われたか、分からない。

 けれど、幸せな時間は長く続かないものだ。その年の内に、私はまた県外へ引っ越す事になった。

 お別れ会では、写真を何枚も撮って、わんわん泣いてしまった。必ず手紙を書くと約束して、私は御殿場を去った。

 だけど......だけど、私は、二人に手紙を書くことが出来なかった。

 外へ遊びに行って服を汚した時、母は誰と遊んで来たのかを詰問した。美代子と百合の名前を出してしまった。だから、母は二人の名前を知っていた。

 二人からの手紙は、私に届く前に、母の手によって処分された。私から手紙を書く事も禁じられた。

 さよならも言えずに、私たちの関係は消えてしまったのだ。

 中学に上がり、当然の様にテニス部に入ったが......私はどうやら、普通の人よりも更に、テニスに関する才能が無かった様だ。

 誰よりも遅くまで残って練習しても、レギュラーにはなれなかった。

 それを一度だけ、堪えきれず母に相談した事がある。あの女は、思い悩む私にこう言った。

「吹奏楽部に入れば良かったのに。県大会まで行ってるらしいじゃない?」

 私の苦しみを一ミリも汲み取らずに発せられた、無神経な一言。その時既に、私は傷付き過ぎていた。だから、自分に深い傷が増えた事に気が付かなかった。

 芽生えたのは、単純な殺意。

 ただ、目の前の女を苦しませたかった。自分の抱えている苦しさの意味も分からず、それでいて同じ様に苦しめてやりたかった。

 丁度その頃、新たな問題が顕在化し始めていた。引越しを機に同居を始めた、父方の祖母と母の関係。

 祖母は金遣いが荒く、最初の頃、母は抗議していたが、強くは言えない様だった。祖母の殺し文句は、「誰の家に住ませてやってると思っているんだ」

 その言葉で閉口する母を見て、私は笑ってしまった。おかしかった。私に対して、あんなにも大きな権力を奮っていた母が、小さく、小さく萎んで行った。

「習い事をさせてやってるんだから!」

「高い服を買ってるんだから!」

「育ててやってるんだから!」

 ーーそれは、私の望んだことですか?

 これは、復讐の機会なのではないか?

 私は、ただ全てを見ていた。母から距離を取り、働き詰めの父を適度に労い、祖母の気持ちを忖度するフリをして。

 母は、緩やかに壊れて行った。

 最初は、怠そうに生活をし、次第に横になっている時間が長くなって行った。

 母自身、壊れ行く自分を許せなかったのだろう。家事をしない事を祖母に責められる度、癇癪を起こして物を壊す様になった。

 初めのウチは、自分の部屋の中だけだったけれど、次第にエスカレートし、私が高校に入学してすぐの頃、遂に事件は起こってしまった。

 母は、祖母を殴った。私の大切にしていたテニスラケットで。祖母に非がないとは言えないが、母は一線を越えてしまった。

 居合わせた祖父が、慌てて父に連絡を取り、祖母は救急搬送された。脳挫傷と足の骨折。膝の皿は粉々になっていたらしい。

 母も精神科の閉鎖病棟に措置入院となり、私は父と祖父の三人で暮らすことになった。

 大変な事件が起きたのに、私は静かになった自室で、腹の底から声を出して笑っていた。笑いが止まらなかった。

 私自身は手を汚さずに、浪費家の祖母と、束縛の激しい、不安定な母を遠ざける事に成功したのだ。なんて、出来たシナリオだ。

 でも......遅かった。

 私は自由を手に入れたけれど、普通にはなれなかった。

 いつの間にか、自分で友達を選ぶ事も、服を選ぶ事も出来なくなっていた。大学も、選べなかったから行かなかった。

 将来の夢......夢など、もう見られなかった。小さい頃の夢はなんだったんだろうと、探してみても、私が楽しいと思えた物は、全て母に消され、残ってはいなかった。

 私は、私を案じた母方の祖母の元へ行く事になった。トランク一個分しかない荷物を抱えて家を出た時、初めて涙がこぼれ落ちた。

 止まらなかった。次から次へと。喉の奥が塞がり、肩が震えた。

 御殿場の冷たい風は、二度と手に入らない、懐かしい記憶を呼び覚ます。記憶......記憶だけは、母にも奪う事は出来なかったのだ。それは残酷に、私を苦しめると同時に、救いをもたらした。

 毎日絵を描いて過ごした。無気力だった私に、母に抵抗するだけの力を与えてくれた日々。

 何かを生み出す......創る仕事がしたい。

 こうして私は、伊豆市の小さな工房に弟子入りして、銀細工のアクセサリーを売り始めたのだ。
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