EMPTY DREAM

藍澤風樹

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呪われしもの

呪われし者

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吸血鬼に襲われ血を吸われた者は『犠牲者』と呼ばれる。
首筋に穿たれた牙の跡がその証。

『犠牲者』は吸血鬼の獲物の証であり、下僕にされた事に他ならない。
いつ、血の渇望のままに牙を剥くか分からず、そうして襲われた者は新たな『犠牲者』となって、呪われた連鎖は終わらない。
事実、そうやって街一つ壊滅してしまう事だって珍しくないのだ。

だからその前に身内で始末を付けようとする。
愛している家族や友人達が畏れの目を向け、穢らわしいと嘆き、各々白木の杭を握りしめて昨夜までの最愛の人を串刺しにすべく追い詰める。

人間が吸血鬼を恐れるのは、血や生命を奪われるからだけでは無い。
一人だけでは済まない、村や町を飲み込む呪いに取り憑かれてしまうからなのだ。




夜が怖かった。
目を瞑ればあの夜のことがまざまざと瞼の裏に浮かぶ。 
それに加えて――

スーザンは恐ろしい想像に怯え両手で我が身を抱きしめた。
夫は隣のベットでそんな妻の様子も何も知らずに眠りこけている。 

「ああ……」 

怖い。
夜になるにつれ、自分の心と身体がまるで空に浮いてしまいそうなほどの解放感に満たされていくことが。
昼の間にのしかかってくる、このまま消えてしまいたいと思うほどの倦怠感は跡形も無く、ただただ自由。
それを何とか縛り付け抑えつけているのは彼女の理性。

熱い疼きを感じて、彼女はそっと手を首へと当てた。
寝るときにも外さない、外せない、この首元のスカーフ。 

「私は……どうすれば……いいの……?」

ラルクと名乗った美しい吸血鬼からの無慈悲な宣告。
彼を見つけた時、どんなに嬉しかったか。
話を聞いてくれた時は、ようやくこの悪夢から救われると信じた。

けれど結果は――

ドアを小さくノックする音が聞こえ、スーザンは飛び上がって身構えた。 
黒い影に爛々とした二つの赤い光が脳裏へ浮かび、パニックに陥り掛けた。
それとも、出て行ったはずのラルクが……?!

ノックの相手は、どちらでもなかった。 
聞き慣れている弱々しい音。

「ママ……」 

扉を開けると、そこには手を握り合った小さな影が二つ立っていた。 

「どうしたの? こんな時間に」 

幼い子供達は、母親に問われてもただもじもじするばかり。 

「眠れないのね」 

二人の幼子は恥ずかしそうに頷いた。 

「うふふ、いらっしゃい」 

スーザンは優しく我が子に手を差し出した。 

「さあ、ゆっくり眠りましょう」

子供達は満たされた笑顔で母親にすがりついた。

「可愛い、私の坊や達……」

せめて、愛する母の目が闇の中で赤く光っている事に気づかなかったのは幸いだった。


   

人通りも絶えた深夜、ほの暗い街灯の明かりの下でひとつの出会いが交わされた。 

「あらあら、こんな小さな街で、同族に会うなんて」 

そう言って、小柄な黒い影は笑った。
口元から覗く小さな白い牙が、影が何者かを明確に語ってくれる。 
狭い街に、吸血鬼が数人もたむろするわけがない。
スーザンを咬んだ吸血鬼は、目の前の相手に間違いなかった。 

「それも……こんなにも綺麗な……」 

嘆息しながら影が黒い外套を頭から外すと、長い髪が現れた。
女だ。
彼女も我ながら誇れると思っていた顔立ちだが、薄明かりに浮かぶラルクの姿には到底敵わないと悟ったようだ。
人間であれば、すぐにでも血を吸って一番のしもべとしてやりたい。
いいえ、同族でもいい。
その血潮を一滴でも舌の先で味わってみたい――
そう思わせる天与の美貌。
それを思い留ませるのは、美しさの影に潜む圧倒的な迫力。 

「あの、悪趣味な真似はお前か」 

同族の嘆息を無視し、ラルクは口を開いた。
その声に陶然としていた女も、問われたのだと気づきようやく我に返った。 

「悪趣味……?」 

怪訝な顔をしていたが、ようやく意味を理解したようだ。 

「もしかして、あの女の事を言っているの?」 

ラルクが頷いた。

「悪趣味だなんて、おかしな事を言うのね。ただ吸っただけよ。血の味は普通だったし」

「その女に頼まれた。傷跡を消して欲しいと」 

ラルクの言葉に、相手は手を叩いて大笑いした。 

「あはは、足掻いてるんだ! あんな小さな二つの傷跡で人間の人生なんて一瞬で狂っちゃうんだものね! しかも人間が吸血鬼に頼るなんてどんなジョーク?」

自分たちの力こそが上であるが故の奢り。
それを人間の運命を弄ぶことでしか実感できない愚劣な者ども。 

「悪魔以上に残虐な行為を厭わない人間達が、哀れな吸血鬼の犠牲者に対し、どうするか……。貴男も分かるでしょう? あたし達を忌み嫌う者どもが、あたし達以上に恐ろしいことを平気で行うの」 

女はまだまだ愉快そうに口元を歪めて笑った。 

「それに、今宵であの女の我慢も限界。あの女の不幸っぷりはたっぷり見られたからあたしもそろそろ次へ行くの。その前に最後の演し物だけは見て行かなきゃ」 

「――!!」

彫像の様に動かなかったラルクの表情が僅かに揺れた。
このまま、何も見ず何も知らず彼もこの街から去るべきだ。
一家とは何の関わりも義理も無いのだから。
だが黄金の旅人は黒衣を翻した。
  

通りと同じく、宿も夕方の喧噪が嘘の様にひっそり静まり返っていた。
だが、ラルクの鼻は家族の住居がある奥の棟から漂う、覚えある匂いを嗅ぎつけた。

「ど……して……?」

迷い無く廊下を進み、低く嗚咽が漏れる扉を、彼は開けた。
途端に、むせ返るほど強い血の匂いが一気に押し寄せてくる。

「どうして……我慢できないの……?」

血溜まりの床に蹲って呻くスーザンの口元から、鋭い爪が伸びた指先から滴る、赤い血。
そして、周囲には――
彼女の愛する家族が眠っていた。
変わり果てた姿で。 

喉を裂かれぼろ切れの様に床に転がる子供達。
皮一枚でようやく首が繋がっている夫の太った身体はベッドの上からずり落ちかけて滑稽だった。

ずっとずっと耐えてきた。
おぞましくも激しく喉を苛む渇きに。
子供達の柔らかい肌に触れる度、その下を這う温かい血管に噛み付きたくなる誘惑に。

か細くも耐え続けた精神の糸も、今宵見つけた旅の吸血鬼からの絶望的な宣告でぷっつりと断ち切られてしまった。
吸血鬼に呪われた自分に救われる道など最早無い。
昼に怯え、人々の視線に怯え、そして何よりずっとずっとこんな苛みが永劫に続くのだと――

「――ねえ、吸血鬼ってどうすれば死ねるんだい? お日様を待ってたらお役人に気付かれちゃう」

ようやくラルクに気付いたのか、スーザンは項垂れていた首を持ち上げた。

「この首の傷さ……ずっとえぐってるんだけど、駄目なんだね。ふふ、すぐに治っちゃう」

 言葉の通り、彼女の首は痛々しいほど肉が弾けて血塗れだった。
それなのに、そこまでしても忌まわしい傷跡だけははっきりと分かってしまう。

「――ああ、そっか」

黄金の眼差しと交差した、虚ろだったスーザンの瞳に意思の光が一瞬宿った。

「どうして気づけなかったんだろう」

這いつくばる様にのろのろと動き、血をたっぷり吸ったベッドの枕の下から取り出したのは、鈍く光る銀のナイフだ。

「もっと早く……」

再び自分を襲った吸血鬼が現れた時のために隠していたもの。
銀の武具は吸血鬼への有効な対抗手段に成り得るからだ。
そう、

「こうすれば良かったんだ」

『犠牲者』にも。

牙を食いしばり、赤い目から血の涙を流しながら、スーザンは自らの左胸を深く刺し貫いた。
もう痛みも恐れも何も感じない。
そのまま首筋の傷跡も抉るべくナイフを向けようとしたが、そこまでの力は既に残っておらず、前屈みのまま床の血溜まりへと倒れ込んだ。
その傍らへ膝をついた美しい影を見て、スーザンは穏やかに微笑んだ。

「ねえ、どうして――あたしだったんだろう」

御伽話なら、不幸に晒されるのはいつだってとても美しく恵まれたお姫様やお嬢様。
それなのにどうして、顔も平凡なら身分だって平凡な、このあたしがこんな不幸に選ばれたの……?

「だからよ」

スーザンを見守るラルクの後ろで、己が撒いた種の顛末を見届けた女がげらげらと笑った。

「何の取り柄もない、自分の家族くらいしか大事なものがない。そんなささやかなものがあっという間に崩れる、そういうのをあたしは見たいのよ」

女吸血鬼の独白も、もうスーザンの耳には届かなかった。

「――それは、お前も人間だったからだろう」

事切れたスーザンの目蓋をそっと閉じてやってから、ラルクは立ち上がった。

「……どうして、そう思う?」

黄金の吸血鬼の言葉に、女吸血鬼は不快げに眉を上げた。

今の自分に咬み跡は残されていない。
けれど、反射的に首の脇を手で押さえた動作がラルクの言葉を肯定していた。

元は、吸血鬼と噂される領主に奉公していたメイドだった女。
その噂は真実で、戯れに血を吸われて『犠牲者』とされた後、欲望のまま自分も城に召し上げられる人間を襲い続けた。
自分を支配していた領主は後に反発した領民に襲われ滅ぼされたが、女は逃げのびた。
自分を咬んだ吸血鬼が滅んだおかげで咬み跡は消え、けれど既に多くの血を吸っていたせいで人間には戻れず、本物の吸血鬼となった。
だから彼女が狙って血を吸うのは、元の自分と同じような境遇の人間。
何の取り柄もなく、日々の幸せだけを噛み締めて生きる平凡な女達。
それが一夜にして全てを失うか、自分で壊すか、その様を見て嘲笑うのが魔物へ成り果てた今の生き甲斐。

そんな過去や思いをこの黄金の吸血鬼に見透かされた気がして、女は不安を振り払うべく気持ちを切り替えた。

「さあ明日の朝が楽しみね。この街全部を引っ繰り返すほどの大騒ぎよ。どう見たって吸血鬼の殺戮現場だもの! 『まだ吸血鬼がこの街に潜んでいるかも知れない!』。人間達は血眼になって新たな『吸血鬼』を捜し、いなければ作り出すでしょうよ」

無表情のラルクが扉の前に立ち塞がった時、ようやく女は笑いをおさめ、怪訝な顔をした。
その手に、スーザンの血に染まった銀のナイフが握られているのを見て青ざめた。

「あ、貴男……あたしを殺す気なの? 同族を?」

「人が人を殺し、吸血鬼が人を殺す。吸血鬼が吸血鬼を殺すのは不思議か?」

女の目が驚愕と恐怖に見開かれた。

「何で……」

「咬み跡を消して欲しいと頼まれた」

スーザンの首には、死しても消えぬ二つの跡が未だ残されていた。

「はあ? もうこいつ死んでるじゃない! 甦る事も無いただの屍よ」

怯えて一歩下がった女の足がスーザンの血溜まりを踏んで、ぬかるんだ音を立てた。
咬んだ主が生きている限り吸血鬼の証が残り続けるのなら――

「じゃ、じゃあさ、咬んだ跡を消せばいいんでしょ。そうすれば……」

「勘違いをしないことだ。私はお前を殺しはしない。ただ――」

冷たい美貌がふっと緩んで浮かんだ微笑を見た瞬間、彼女の息が止まった。
ぞっと背筋が凍り付きそうなほど美しく魅惑的な微笑み。
黒い袖がこちらへ差し出されると、彼女は躊躇い無くその腕の中に収まった。
女の自分よりすらりと優雅に伸びる白い指。
それが自分の腰を力強くも繊細に抱き寄せ、吐息と甘い囁きが耳をくすぐる。

「お前の心臓がどんな形をしているのか、どんなに艶めいているのかを私に見せてくれないか。お前の中身は、さぞや美しいだろう」

黄金色の瞳に見つめられながら既に血を吸った銀のナイフをそっと握らされた時、女吸血鬼の全身を甘い痺れが走り、思考も彼の事だけに満たされた。
ただただ、目の前のこの美しく愛しい男の望みを叶えたいと。
そして、血に染まって美しくなった自分の姿を彼に見て欲しい、と。

早くしないと、この胸の中にある心臓は今にも破裂せんばかりに飛び跳ねている。
弾けてしまっては手遅れになってしまう!
だから躊躇いはなかった。
女吸血鬼は聖なるナイフを構え、己の左胸へと突き立てた。
その姿は、自分が散々弄び嘲笑った先程のスーザンと同じ。

「さあ、見て……」

身体を貫く激痛もこの興奮を鎮められない。
そのまま刃先を捻って肉を切り裂き、空いている手を傷口に差し込んで、未だ辛うじて弱々しく脈打つ心臓を掴み出そうと試みた。
跳ねた自分の血がラルクの白い頬に赤く点を付けたのを見て、女はますます高ぶった。
この人を、あたしの血で全て染めてやりたい。

ぐっと力が籠もりすぎた女の手の中で、水風船が割れる様な音がした。

「あっ……」

噴きだした自分の血に濡れるのも構わず、女は自分を抱く男の顔を見上げた。
そこにあるのは、ただただ冷たい氷の刃の様な美貌。

なんて無様なの。
あたしは、この方の願いを叶えて差し上げられなかった。
こんな簡単な、自分の心臓を見せるだけのことすら出来ないなんて――

自分を見下ろす無表情を女は失望によるものと見て、先程までの高ぶりは一気に失われ絶望が取って代わった。
その間にも、心臓を失った肉体はさらさらと足下から白い塵になっていく。

滅びへの恐怖では無い、美しいこの男の願いを自分は叶えられなかった、ただそれだけのための無念の涙をぽろりと一筋だけ流し、女はラルクの腕の中で一片の肉体も残せず崩れ去った。



翌朝、小さな街を引っ繰りかえす様な大事件に大騒ぎになった。
けれど役人からの聞き取りを受け、皆一様に話す事は同じだったため、鎮まるのも早かった。
内容はこんなところだ。

「こんな痛ましいことがあるでしょうか。ご主人とそのおかみだけじゃない、まだ幼い子供達まで火事から逃げられなかったなんて……。真夜中だったし皆ぐっすりだったんでしょうねぇ。そりゃもうすごい炎でしたよ。死体がどんな感じだったのかは骨まで消し炭になってしまってもう解りませんが。あの夜に泊まった客は一人だって話じゃないですか。それがどうにも胡散臭い男で、夕方の食堂でも騒ぎを起こしたって聞きましたしね。黒の外套が焼け跡から見つかったんでしょう? ならもう間違いありません。よそ者だったそいつの仕業に決まってますとも――」
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