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吸血鬼幻想
吸血鬼幻想
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簡単な依頼だと思っていた。
陽光の下で生き延びられる吸血鬼などいる筈が無いのだから。
永く語られる吸血鬼の歴史の中で、そんな話はひとつとて聞いたことが無い。
強大な力と恐怖で夜を支配する吸血鬼と言えど、生命を育む偉大な太陽にまでは逆らえない。
だとすれば、その仕業は混血か、吸血鬼に見せかけた、それ以外のモノ。
それが人間の偽装であれそれ以外の人外の仕業であれ、恐るるに足りない。
そうである筈、だったのに──
この森に入った時から追ってきた跡の先に、影の気配は続いていた。
それは、以前リュションを発見したときに感じたものと同じ。
吸血鬼のようであって、違うもの。
(だが……こいつは──)
ラルクの眼が、軽く不快気に細められた。
こいつは、気にくわない展開だ。
木立の中を進むと、見慣れた場所に出た。
そうだ、昨夜ハリスと共に訪れた所だ。
リュションが薬草を握りしめて息絶えた広場。
運び去った少女の死体の代わりに、小さな黒い影がうずくまっている。
そして、ひっきりなしに聞こえてくる、ぴちゃぴちゃと何かを舐める水音。
影が顔を上げて、ラルクの方を見た。
月明かりが、ラルクと、その影を照らし出す。
「お前が、吸血鬼……?」
ラルクの言葉を受けて、影は耳元まで裂けた口をきゅーっとつり上げた。
「吸血鬼……ナル…。コウシテ、血ヲ飲ンデ、チカラヲツケテ……」
そう呟く醜い顔の口には牙どころか歯も無い。
歪に捻れた鉤爪、血で濁った大きな目、せむしのように曲がった背骨。
ちろちろ伸びる舌は赤く濡れていた。
そいつがのしかかっているのは、ジムと呼ばれた村人か。
喉が例に漏れず大きく裂かれているものの、弾けた傷口は丹念に舐め取られたせいか綺麗で、もう血も流れ出さない。
「タップリ血ヲ啜ッタオ陰デ、コンナニ大キクナレタ……。チカラモツイテキタ……」
人の子供ほどの大きさのそいつは誇らしげな笑みを浮かべたが、ラルクは冷ややかな視線を返すだけだ。
「お前は、ここに君臨したという吸血鬼の下っ端か?」
「アア…偉大ナ吸血鬼ダッタ……。アノチカラ、アノ美シサ……憧レタ」
魔物は陶然とした表情になった。
醜かった顔がますます歪み、嫌悪感をいや増す。
「ダカラ、俺モナルンダ。吸血鬼ニナルンダ。アノチカラト美シサヲ手ニ入レルンダ。モットモット……血ガ必要ダ……」
陽光に耐えられる吸血鬼。
そんなものは存在しなかった。
いたのは、吸血鬼に焦がれるあまり、遺された吸血鬼の気配の残滓と融合し人間の血を啜ることで力をつけた、それでもただの下等な魔物。
そいつの濁った瞳が、ラルクを見た。
「オ前モ美シイ……。オ前ノ血モヨコセ」
血でぬめった鉤爪をラルクへ向けた。
「お前が、吸血鬼になるだと?」
欲望のままに襲いかかろうとした魔物は、氷の剣のように冷たい声に貫かれて凍り付いた。
「オ前、目ノ色ガ……?!」
魔物が一歩後ずさった。
目の前の、世にも美しい獲物が、変貌を遂げようとしていた。
髪と同じ黄金色だった両の目が、徐々にその色を変えていく。
赤く赤く、鮮やかな血の色に。
そして、先程までは微塵も見せなかった異様なほどの鬼気。
風は吹いていないのに、周囲の空気が揺れ動いているようにも感じる。
いいや、今まさに辺りの木立がざわざわと音を立て始めたではないか。
恐れをなした魔物は、耳障りな悲鳴を上げて村人の死体の影に隠れようともがいた。
「どうした?」
今や爛々と赤く燃える瞳で、ラルクは見下ろした。
うずくまったまま、キイキイ鳴きながらただ震えている小虫の様に哀れで惨めな屍鬼を。
「吸血鬼がそんなに恐ろしいか?」
とうとう、耐えきれなくなった魔物は弾かれたように死体の影から飛び出して、木立の中へ逃げ込もうとした。
その背をラルクが睨め付けただけで、筋張った体は空中で硬直し地に落ちる。
「オ前……ソンナ…………!?」
「お前のような下蔑の者が吸血鬼になるだと?」
吹き荒れる吹雪のような鬼気以上に、ラルクの声は冷たかった。
「身の程知らずが」
その言葉と同時に、ぼんっと風船が破裂するような音があたりに響いた。
「なっ……」
背後からの声に、ラルクはゆっくりと振り向いた。すでに瞳は静かな黄金色に戻っている。
「あれが、吸血鬼の正体……?」
エマが銃を構えたまま、立ちつくしていた。
「あんなのが……村ひとつをこんなに……」
彼女は呆然と、辺りに散った汚らしい肉片を見回した。
「動かないで!」
立ち去ろうとしたラルクの背中に、エマが銃を向けた。
「例え村を襲ったのがあんたでなくても、あんたは正真正銘の吸血鬼じゃないの! 見逃すと思って?」
「……やめておけ。今は夜だ」
「そうね。それなら、このまま朝まで待ってくれる?」
ラルクはため息を吐きながら、ゆっくりとエマに向き直ろうとした。
「ラルク! そこにいるのか?!」
予想しなかった闖入者の声に、二人の間に張りつめいていた緊張の糸が弾けた。
エマの指が反射的に声の主に向かって引き金を引いてしまった。
同時にラルクの投げた小石がエマの手の甲に鋭く当たり彼女は銃を取り落としたが、
「あ……」
ハリスがよろよろと木立の中から現れて、がくりと膝を突いた。
聖なる弾丸は、護るべき人の子を貫いた。
胸を押さえたハリスの手の間からは夜目にも鮮やかな血が溢れ出している。
彼の元へ寄ろうとしたラルクは、不意に身を捻った。
その彼の喉元を風の塊が駆け抜け、大理石のような白い肌の頬にうっすらと赤い傷を一筋残した。
「近づくな! 汚らわしい魔物が!!」
無関係の人間を撃ってしまった事でエマも動転したが、被害者の救命よりも目の前の使命を優先した。
そのエマの足下に、いつの間に現れたのか、白く光を放つ半透明の子犬が控えている。
「そうか……。お前、土曜日の子か」
ラルクは頬の傷から滲み出た血を白い指先ですくい、ぺろりと舐めた。
そんな動作に知らず目を奪われていたエマが、振り切る様に頭を振った。
いけない。
こいつは人の血と魂を奪う魔性だ。
美しさに惑わされるな、心を強く持たなくては──
「そうよ。普通の人間が吸血鬼を狩るなんて出来るわけが無いじゃない」
サバタリアン――土曜日は聖なる曜日であり、その日に生まれた子供は屍鬼に対抗する力を持つと言われる。
その能力の一つが『霊犬』だ。
通常の人間には見えない守護霊のようなもので、サバタリアンといつも共にあり、吸血鬼に攻撃出来る強力な存在。
先程ラルクが身をかわさなければ、エマを守るべく今も唸るこの子犬に喉笛を噛み砕かれていたかも知れない。
「お行き!」
エマの叱咤と共に、咆哮を上げて霊犬が再び飛びかかってきた。
すっと細まったラルクの瞳がまたも赤みを帯びて行く。
伸ばされた左腕に、獣は鋭い牙を立てた。
エマと霊犬の一瞬の困惑。
そして――
黒い袖に包まれた腕を咬み千切られる前に、ラルクの右手が霊犬の首筋に触れた。
「ああっ?!」
エマが止める暇もなかった。
半透明の霊体の犬の首が、たいして力を入れたとも思えぬラルクの爪によって刎ねられたのだ。
霊犬は悲痛な叫びを残してかき消えた。
実体を持たないものまでをも引き裂いた、吸血鬼の力。
「よ……よくも……!」
怒りと悲しみに震えるエマの表情が、さっと凍った。
自分を絶対的に守護してくれていた霊犬はもういない。
そして、銃は手の届かない草むらへ……。
残されたのは、最後に打ち込む予定だった白木の杭だけ。
今の自分は、もはや歴戦の吸血鬼ハンターではなく、無力な一人の女に過ぎないことを理解してしまったのだ。
そして、獲物であった筈の吸血鬼はゆったりととこちらへ迫ってくる……。
眩く輝く黄金の髪と、瞳。
――ああ、対峙している敵の何という美しさ。
闇は、この吸血鬼を覆い隠すどころか、その美貌を引き立てる最高の色。
エマは恐怖を忘れて目の前の男に見入った。
その頬に、ふと、小さな水滴があたった。
エマが思わず空を見上げると、先程まで照らしていた月はいつの間にか暗雲に姿を隠されている。
そして、見る間に大粒の雨が地上に降り注いだ。
「雨……」
呟いたエマと、ラルクの体を、滝のような雨が包んでいく。
血溜まりに倒れて呻き続けるハリスにも。
雨にうたれた途端、ラルクの顔が強ばり、エマは逆に元気を取り戻した。
不敵な笑顔が甦る。
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「神様はあたしを見捨てなかったようね」
嘲るエマの声に、ラルクは答えなかった。
伝説に言う――
吸血鬼は流れ水に弱い。
悪を清め、洗い落とすからだと。
その為、吸血鬼は河を渡ることも出来ない。
水に入れば体は硬直し、泳ぐことが出来ずに溺れて沈んでしまうのだ。
不死の生命ゆえ、水の中でも死ぬことはないが、仮死状態のまま、地上に引き上げられるまで復活も出来ない。
そして、その流れ水は、天から降る雨にも当てはまる。
雨の中では吸血鬼は動けない。
太陽の無い夜でもだ。
だからハンターが吸血鬼を襲うのは陽光の射す真昼か、雨の日を選ぶ。
もっとも、雨でも室内で戦う場合は意味が無いが。
だが、今回は大いに意味があった。
現に、エマの目の前に佇む吸血鬼は雨にうたれて動けない。
「あはは、そこの木立へ逃げ込まないのかい? 雨は吸血鬼を酷く弱らせるのに。それとも、もう全身が固まって動けないの」
言いながら、エマは白木の杭と鉄槌を取り出した。
これこそ確実に吸血鬼を滅ぼす方法。
ゆっくりとラルクに歩み寄る。
もう大丈夫。
雨に打たれるこの男は、既に無力な、ただの美しい置物なのだから。
「――え?」
エマは我が目を疑った。
この吸血鬼とは、まだ十五歩ほどの距離はあったはずだ。
それなのに、瞬きした一瞬で、こうして今、息がかかるほど傍に美しい美貌があるなんて。
「そ……そんな、馬鹿な?! どうして……」
エマの青ざめた顔を、冷たい黄金の瞳が見つめる。
こんな豪雨の中で、流れ水の中で動ける吸血鬼がいるなんて――!!
「生憎と……」
白い指先がエマの細い首筋を撫でると、胸にかかる鎖がぷつんと切られ、銀の十字架は空しく足下に落ちた。
首筋に走る青い静脈を愛おしそうになぞられても、エマは抵抗できなかった。
それどころか、今まで感じたことの無い興奮がぞくぞくと彼女の背筋を駆け上る。
「雨の中で夜を明かしたこともあるのでね」
静かに語るラルクの脳裏に、過去の光景が甦る。
痛いくらいの雨が、彼女の体から温もりを奪っていく。
どんなに抱きしめても、冷たくなっていく体に温もりは戻らない。
それでも、彼女は最期まで笑った──
「美しき吸血鬼ハンターさん」
ラルクの吐息がかかるほど寄られてもエマは動かなかった。
頭の奥では悲鳴を上げ続けていても、雨で濡れた金髪の下で映える赤い瞳に否が応でも惹きつけられる。
「貴女に極上の夢をあげよう」
耳元で囁かれる声は、心の芯まで溶かす魔力を秘めていた。
(ああ……だめ……!!)
激しい心の抵抗も虚しく、ついにエマは震える手で襟元を開き、自らラルクの前にその白首を差し出した。
凍えてしまいそうに冷えた吐息の後に柔らかい唇の感触を感じた瞬間、ぎりぎりまでしがみついていた彼女の最後の理性が砕け散った。
「永遠に醒めない、美しい夢をね――」
ハリスはまだ生きていた。
「……本当に、ラルクは吸血鬼だったのか」
もう雨は止んでいる。
木にもたれてハリスは懸命に呼吸しているが、上半身を朱に染めた血の量はもはや手の施しようがない。
「じゃあ、昨夜の俺の……第一印象も間違ってなかったんだな……」
蒼白な顔を微かに上げ、ラルクを見る。
「だけど、俺を助けてくれて、一緒にリュションを探してくれたことも嘘じゃない。……ありがとう」
言葉と共に、ハリスの口から、ごぼっと血の固まりが吐き出された。
その様子を無表情で見つめていたラルクが、口を開いた。
「お前……笑っているのか?」
その言葉に、ハリスは再び顔を上げた。
そこに浮かぶのは、確かに笑み。
「ああ。……これで……リュションの所に、行けるんだ」
好きな女のもとに――
シェルが死んで、炎に包まれ――
ラルク」も生きてはいないはずだったのに。
「俺の血は……吸わないで……くれよ」
「生憎、もう腹は一杯だ」
その返答に、ハリスはもう一度笑った。
「なあ……一つだけ、教えてくれよ」
紙のような顔色になりながらも、ハリスの目だけはまだ光を失っていなかった。
「リュションや、村を襲ったのは……あんたじゃないよな?」
この少年は、あの魔物のことを知らなかった。
吸血鬼に憧れ、ただただ人の血を啜り続けて力をつけただけの低俗な屍鬼を。
全ては、幻想。
ラルクは頷いた。
「村を襲った化け物は死んだ」
吸血鬼、とは言わなかった。
あれを同族――吸血鬼だなどと呼ぶことは許さない。
「そうかい」
答えに満足したのか、ハリスはそれっきり瞼を閉じた。
そして、ひゅうっと浅い呼吸。
それが最期だった。
翌朝、村は大騒ぎだった。
村はずれの墓地、リュションが眠る墓の前で、すでに冷たくなった村長の息子が、森ではジムと御者の死体と、女吸血鬼ハンターが虚ろな目をしながらふらふらと彷徨っているのが発見されたのだ。
服の襟の下に隠された女の首筋に明らかな吸血鬼の噛み跡があることから、これこそがハンターを装った吸血鬼騒動の犯人と断定。
村の男達の手で杭を心臓に打たれて死体は燃やし、その灰は河に撒かれた。
そして、村長の息子は女ハンターに銃で撃たれて殺されたのだと村中で嘆き悲しみ、丁寧な葬儀が執り行われた。
あまりに色々なことがありすぎて、誰も、いつの間にか消えた美しい旅人のことはもう思い出せなかった――
陽光の下で生き延びられる吸血鬼などいる筈が無いのだから。
永く語られる吸血鬼の歴史の中で、そんな話はひとつとて聞いたことが無い。
強大な力と恐怖で夜を支配する吸血鬼と言えど、生命を育む偉大な太陽にまでは逆らえない。
だとすれば、その仕業は混血か、吸血鬼に見せかけた、それ以外のモノ。
それが人間の偽装であれそれ以外の人外の仕業であれ、恐るるに足りない。
そうである筈、だったのに──
この森に入った時から追ってきた跡の先に、影の気配は続いていた。
それは、以前リュションを発見したときに感じたものと同じ。
吸血鬼のようであって、違うもの。
(だが……こいつは──)
ラルクの眼が、軽く不快気に細められた。
こいつは、気にくわない展開だ。
木立の中を進むと、見慣れた場所に出た。
そうだ、昨夜ハリスと共に訪れた所だ。
リュションが薬草を握りしめて息絶えた広場。
運び去った少女の死体の代わりに、小さな黒い影がうずくまっている。
そして、ひっきりなしに聞こえてくる、ぴちゃぴちゃと何かを舐める水音。
影が顔を上げて、ラルクの方を見た。
月明かりが、ラルクと、その影を照らし出す。
「お前が、吸血鬼……?」
ラルクの言葉を受けて、影は耳元まで裂けた口をきゅーっとつり上げた。
「吸血鬼……ナル…。コウシテ、血ヲ飲ンデ、チカラヲツケテ……」
そう呟く醜い顔の口には牙どころか歯も無い。
歪に捻れた鉤爪、血で濁った大きな目、せむしのように曲がった背骨。
ちろちろ伸びる舌は赤く濡れていた。
そいつがのしかかっているのは、ジムと呼ばれた村人か。
喉が例に漏れず大きく裂かれているものの、弾けた傷口は丹念に舐め取られたせいか綺麗で、もう血も流れ出さない。
「タップリ血ヲ啜ッタオ陰デ、コンナニ大キクナレタ……。チカラモツイテキタ……」
人の子供ほどの大きさのそいつは誇らしげな笑みを浮かべたが、ラルクは冷ややかな視線を返すだけだ。
「お前は、ここに君臨したという吸血鬼の下っ端か?」
「アア…偉大ナ吸血鬼ダッタ……。アノチカラ、アノ美シサ……憧レタ」
魔物は陶然とした表情になった。
醜かった顔がますます歪み、嫌悪感をいや増す。
「ダカラ、俺モナルンダ。吸血鬼ニナルンダ。アノチカラト美シサヲ手ニ入レルンダ。モットモット……血ガ必要ダ……」
陽光に耐えられる吸血鬼。
そんなものは存在しなかった。
いたのは、吸血鬼に焦がれるあまり、遺された吸血鬼の気配の残滓と融合し人間の血を啜ることで力をつけた、それでもただの下等な魔物。
そいつの濁った瞳が、ラルクを見た。
「オ前モ美シイ……。オ前ノ血モヨコセ」
血でぬめった鉤爪をラルクへ向けた。
「お前が、吸血鬼になるだと?」
欲望のままに襲いかかろうとした魔物は、氷の剣のように冷たい声に貫かれて凍り付いた。
「オ前、目ノ色ガ……?!」
魔物が一歩後ずさった。
目の前の、世にも美しい獲物が、変貌を遂げようとしていた。
髪と同じ黄金色だった両の目が、徐々にその色を変えていく。
赤く赤く、鮮やかな血の色に。
そして、先程までは微塵も見せなかった異様なほどの鬼気。
風は吹いていないのに、周囲の空気が揺れ動いているようにも感じる。
いいや、今まさに辺りの木立がざわざわと音を立て始めたではないか。
恐れをなした魔物は、耳障りな悲鳴を上げて村人の死体の影に隠れようともがいた。
「どうした?」
今や爛々と赤く燃える瞳で、ラルクは見下ろした。
うずくまったまま、キイキイ鳴きながらただ震えている小虫の様に哀れで惨めな屍鬼を。
「吸血鬼がそんなに恐ろしいか?」
とうとう、耐えきれなくなった魔物は弾かれたように死体の影から飛び出して、木立の中へ逃げ込もうとした。
その背をラルクが睨め付けただけで、筋張った体は空中で硬直し地に落ちる。
「オ前……ソンナ…………!?」
「お前のような下蔑の者が吸血鬼になるだと?」
吹き荒れる吹雪のような鬼気以上に、ラルクの声は冷たかった。
「身の程知らずが」
その言葉と同時に、ぼんっと風船が破裂するような音があたりに響いた。
「なっ……」
背後からの声に、ラルクはゆっくりと振り向いた。すでに瞳は静かな黄金色に戻っている。
「あれが、吸血鬼の正体……?」
エマが銃を構えたまま、立ちつくしていた。
「あんなのが……村ひとつをこんなに……」
彼女は呆然と、辺りに散った汚らしい肉片を見回した。
「動かないで!」
立ち去ろうとしたラルクの背中に、エマが銃を向けた。
「例え村を襲ったのがあんたでなくても、あんたは正真正銘の吸血鬼じゃないの! 見逃すと思って?」
「……やめておけ。今は夜だ」
「そうね。それなら、このまま朝まで待ってくれる?」
ラルクはため息を吐きながら、ゆっくりとエマに向き直ろうとした。
「ラルク! そこにいるのか?!」
予想しなかった闖入者の声に、二人の間に張りつめいていた緊張の糸が弾けた。
エマの指が反射的に声の主に向かって引き金を引いてしまった。
同時にラルクの投げた小石がエマの手の甲に鋭く当たり彼女は銃を取り落としたが、
「あ……」
ハリスがよろよろと木立の中から現れて、がくりと膝を突いた。
聖なる弾丸は、護るべき人の子を貫いた。
胸を押さえたハリスの手の間からは夜目にも鮮やかな血が溢れ出している。
彼の元へ寄ろうとしたラルクは、不意に身を捻った。
その彼の喉元を風の塊が駆け抜け、大理石のような白い肌の頬にうっすらと赤い傷を一筋残した。
「近づくな! 汚らわしい魔物が!!」
無関係の人間を撃ってしまった事でエマも動転したが、被害者の救命よりも目の前の使命を優先した。
そのエマの足下に、いつの間に現れたのか、白く光を放つ半透明の子犬が控えている。
「そうか……。お前、土曜日の子か」
ラルクは頬の傷から滲み出た血を白い指先ですくい、ぺろりと舐めた。
そんな動作に知らず目を奪われていたエマが、振り切る様に頭を振った。
いけない。
こいつは人の血と魂を奪う魔性だ。
美しさに惑わされるな、心を強く持たなくては──
「そうよ。普通の人間が吸血鬼を狩るなんて出来るわけが無いじゃない」
サバタリアン――土曜日は聖なる曜日であり、その日に生まれた子供は屍鬼に対抗する力を持つと言われる。
その能力の一つが『霊犬』だ。
通常の人間には見えない守護霊のようなもので、サバタリアンといつも共にあり、吸血鬼に攻撃出来る強力な存在。
先程ラルクが身をかわさなければ、エマを守るべく今も唸るこの子犬に喉笛を噛み砕かれていたかも知れない。
「お行き!」
エマの叱咤と共に、咆哮を上げて霊犬が再び飛びかかってきた。
すっと細まったラルクの瞳がまたも赤みを帯びて行く。
伸ばされた左腕に、獣は鋭い牙を立てた。
エマと霊犬の一瞬の困惑。
そして――
黒い袖に包まれた腕を咬み千切られる前に、ラルクの右手が霊犬の首筋に触れた。
「ああっ?!」
エマが止める暇もなかった。
半透明の霊体の犬の首が、たいして力を入れたとも思えぬラルクの爪によって刎ねられたのだ。
霊犬は悲痛な叫びを残してかき消えた。
実体を持たないものまでをも引き裂いた、吸血鬼の力。
「よ……よくも……!」
怒りと悲しみに震えるエマの表情が、さっと凍った。
自分を絶対的に守護してくれていた霊犬はもういない。
そして、銃は手の届かない草むらへ……。
残されたのは、最後に打ち込む予定だった白木の杭だけ。
今の自分は、もはや歴戦の吸血鬼ハンターではなく、無力な一人の女に過ぎないことを理解してしまったのだ。
そして、獲物であった筈の吸血鬼はゆったりととこちらへ迫ってくる……。
眩く輝く黄金の髪と、瞳。
――ああ、対峙している敵の何という美しさ。
闇は、この吸血鬼を覆い隠すどころか、その美貌を引き立てる最高の色。
エマは恐怖を忘れて目の前の男に見入った。
その頬に、ふと、小さな水滴があたった。
エマが思わず空を見上げると、先程まで照らしていた月はいつの間にか暗雲に姿を隠されている。
そして、見る間に大粒の雨が地上に降り注いだ。
「雨……」
呟いたエマと、ラルクの体を、滝のような雨が包んでいく。
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雨にうたれた途端、ラルクの顔が強ばり、エマは逆に元気を取り戻した。
不敵な笑顔が甦る。
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その為、吸血鬼は河を渡ることも出来ない。
水に入れば体は硬直し、泳ぐことが出来ずに溺れて沈んでしまうのだ。
不死の生命ゆえ、水の中でも死ぬことはないが、仮死状態のまま、地上に引き上げられるまで復活も出来ない。
そして、その流れ水は、天から降る雨にも当てはまる。
雨の中では吸血鬼は動けない。
太陽の無い夜でもだ。
だからハンターが吸血鬼を襲うのは陽光の射す真昼か、雨の日を選ぶ。
もっとも、雨でも室内で戦う場合は意味が無いが。
だが、今回は大いに意味があった。
現に、エマの目の前に佇む吸血鬼は雨にうたれて動けない。
「あはは、そこの木立へ逃げ込まないのかい? 雨は吸血鬼を酷く弱らせるのに。それとも、もう全身が固まって動けないの」
言いながら、エマは白木の杭と鉄槌を取り出した。
これこそ確実に吸血鬼を滅ぼす方法。
ゆっくりとラルクに歩み寄る。
もう大丈夫。
雨に打たれるこの男は、既に無力な、ただの美しい置物なのだから。
「――え?」
エマは我が目を疑った。
この吸血鬼とは、まだ十五歩ほどの距離はあったはずだ。
それなのに、瞬きした一瞬で、こうして今、息がかかるほど傍に美しい美貌があるなんて。
「そ……そんな、馬鹿な?! どうして……」
エマの青ざめた顔を、冷たい黄金の瞳が見つめる。
こんな豪雨の中で、流れ水の中で動ける吸血鬼がいるなんて――!!
「生憎と……」
白い指先がエマの細い首筋を撫でると、胸にかかる鎖がぷつんと切られ、銀の十字架は空しく足下に落ちた。
首筋に走る青い静脈を愛おしそうになぞられても、エマは抵抗できなかった。
それどころか、今まで感じたことの無い興奮がぞくぞくと彼女の背筋を駆け上る。
「雨の中で夜を明かしたこともあるのでね」
静かに語るラルクの脳裏に、過去の光景が甦る。
痛いくらいの雨が、彼女の体から温もりを奪っていく。
どんなに抱きしめても、冷たくなっていく体に温もりは戻らない。
それでも、彼女は最期まで笑った──
「美しき吸血鬼ハンターさん」
ラルクの吐息がかかるほど寄られてもエマは動かなかった。
頭の奥では悲鳴を上げ続けていても、雨で濡れた金髪の下で映える赤い瞳に否が応でも惹きつけられる。
「貴女に極上の夢をあげよう」
耳元で囁かれる声は、心の芯まで溶かす魔力を秘めていた。
(ああ……だめ……!!)
激しい心の抵抗も虚しく、ついにエマは震える手で襟元を開き、自らラルクの前にその白首を差し出した。
凍えてしまいそうに冷えた吐息の後に柔らかい唇の感触を感じた瞬間、ぎりぎりまでしがみついていた彼女の最後の理性が砕け散った。
「永遠に醒めない、美しい夢をね――」
ハリスはまだ生きていた。
「……本当に、ラルクは吸血鬼だったのか」
もう雨は止んでいる。
木にもたれてハリスは懸命に呼吸しているが、上半身を朱に染めた血の量はもはや手の施しようがない。
「じゃあ、昨夜の俺の……第一印象も間違ってなかったんだな……」
蒼白な顔を微かに上げ、ラルクを見る。
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言葉と共に、ハリスの口から、ごぼっと血の固まりが吐き出された。
その様子を無表情で見つめていたラルクが、口を開いた。
「お前……笑っているのか?」
その言葉に、ハリスは再び顔を上げた。
そこに浮かぶのは、確かに笑み。
「ああ。……これで……リュションの所に、行けるんだ」
好きな女のもとに――
シェルが死んで、炎に包まれ――
ラルク」も生きてはいないはずだったのに。
「俺の血は……吸わないで……くれよ」
「生憎、もう腹は一杯だ」
その返答に、ハリスはもう一度笑った。
「なあ……一つだけ、教えてくれよ」
紙のような顔色になりながらも、ハリスの目だけはまだ光を失っていなかった。
「リュションや、村を襲ったのは……あんたじゃないよな?」
この少年は、あの魔物のことを知らなかった。
吸血鬼に憧れ、ただただ人の血を啜り続けて力をつけただけの低俗な屍鬼を。
全ては、幻想。
ラルクは頷いた。
「村を襲った化け物は死んだ」
吸血鬼、とは言わなかった。
あれを同族――吸血鬼だなどと呼ぶことは許さない。
「そうかい」
答えに満足したのか、ハリスはそれっきり瞼を閉じた。
そして、ひゅうっと浅い呼吸。
それが最期だった。
翌朝、村は大騒ぎだった。
村はずれの墓地、リュションが眠る墓の前で、すでに冷たくなった村長の息子が、森ではジムと御者の死体と、女吸血鬼ハンターが虚ろな目をしながらふらふらと彷徨っているのが発見されたのだ。
服の襟の下に隠された女の首筋に明らかな吸血鬼の噛み跡があることから、これこそがハンターを装った吸血鬼騒動の犯人と断定。
村の男達の手で杭を心臓に打たれて死体は燃やし、その灰は河に撒かれた。
そして、村長の息子は女ハンターに銃で撃たれて殺されたのだと村中で嘆き悲しみ、丁寧な葬儀が執り行われた。
あまりに色々なことがありすぎて、誰も、いつの間にか消えた美しい旅人のことはもう思い出せなかった――
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