EMPTY DREAM

藍澤風樹

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吸血鬼幻想

森にいた者

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ゆるやかな夜風が、黒いコートの裾を揺らした。
ラルクの前に、黒々とした森が横たわっている。
夜の闇の静けさも加わって、そこに化け物が棲みついていると聞けば誰もが疑わぬであろう不気味な雰囲気を醸し出していた。
度胸がある男でも、夜にここに入るのは躊躇するだろう。
だが、吸血鬼ラルクにとってはこの雰囲気こそ心地よい。
しばらく森を眺めている内、彼の目がすっと細まった。

(……妙だな)

魔物は同族の気配を感じ取れる。
自分より魔力の強い者の存在は感知できない事も多いが――彼よりも強い魔物など、そうそうそこらに転がっているはずもない。
吸血鬼の彼より。
今、目の前にそびえる森からは、微かだが吸血鬼の臭いがする。
しかし、それは今にも消えてしまいそうなほどか細いものだ。
魔力が弱い……というよりも、どちらかといえば残留思念に近い気配だ。
つと目をやると、森の入り口には銃を構えた屈強な男達が数人、松明をかざしながら見回りをしている。
それをやり過ごした後、ラルクは散歩のついでに寄ったとでもいうような軽い足取りで、深い森の中へと入っていった。


細い木立で覆われた森の中は日中に陽の光も届かないらしく、土はぬかるみ空気は湿り気を帯びていた。
勿論星の光も届かない闇の中を、ラルクは木立にコートの裾を引っかけることもなく悠々と進む。
歩けども、強い妖気は感じられない。
森に入る前と同じ、薄い妖気がたゆたっているだけだ。

ふと、別の気配を近くで感じ取った。
人間だ。
怒声と激しく争う音、獣のうなり声、銃声が聞こえてくる。
ラルクはそちらに足を向けた。


森の一角に、ぼうっと光る灯りが見える。
携帯用ランプが地面に転がりながらも周囲を照らし、その傍らで若い男が大の人間ほどもある野犬に組み敷かれていた。
猟銃で喉をかばいつつ片手で獣の体を必死に押しのけようとしているが、いかんせん分が悪過ぎる。
若者の顔が歪んでいるのは、涎で濡れ光る牙がじりじりと猟銃を押して無防備な喉に迫りくる恐怖からか、獣の鋭い爪が両肩に食い込む痛みのせいか。

灯りの下にあったのが期待していた光景ではなかったため立ち去ろうとしたラルクより、若者が気付く方が早かった。

「たっ、助けてくれ!!」

その叫びに野犬も血に飢えた赤く光る目をラルクに向けた。
ラルクと視線がぶつかった途端、黒く大きな躰がびくんと跳ねた。
今までのしかかっていた獲物から勢いよく飛びすさる。

「え……?」

必死の形相だった男の顔が、呆気に取られて緩んだ。
その間にも、野犬は垂れた尻尾を足の間に入れて体を震わせた後、くるりと背を見せて藪の中へと掛け去ってしまった。
「何だ……? 一体、あんた、何をした……」
そう言ってラルクの顔を改めて見直した男の動きが止まった。
仄暗いランプの光は、ラルクの姿を、この世の者とは思えぬほど神秘的な美しさへと照らし出していたから。
生唾を飲み下し、目の前の美貌から強烈な意志の力で視線を外して、男はまず礼を述べた。

「お陰で助かったよ。何だか知らねえがあの犬は逃げてっちまったし」

犬は吸血鬼の下僕とも敵とも言われるが、力量の差は理解できる。
あの野犬は二度とラルクの前に姿を見せはしまい。

「それにしても、あんたは何でこんな所に来てるんだ? よそ者だろう?」

ハリスと名乗った、まだ十代半ばとおぼしき幼さの残る顔が訝しげにラルクを見た後、はっと気付いたように手を打った。

「あんた、もしかして、親父が雇ったっていう吸血鬼ハンターかい?!」

ラルクが首を振ると、ハリスは残念そうに眉をしかめた。

「そっか……そうだよな。ハンターの到着は明日だって言ってたし。なら、何でこんなとこに来たんだよ。この森に出る吸血鬼のウワサは聞いてるんだろう?」

「酒場で聞いた。その吸血鬼とやらに興味があってな」

その言葉を聞いて、ハンスはひゅうっと口笛を吹いた。

「普通の人間ならそんな化け物に近寄るどころか興味持ったりしないぜ? 俺ぁ一瞬あんたが吸血鬼かと思ったさ。野犬をひと睨みで追い払っちまったんだから」

真面目な顔でそこまで言った後、今度は笑いながら

「でも、吸血鬼なら俺を助けてくれる訳ないもんな。だからハンターかと思ったんだけど……」

「そういうお前こそ、何故こんな時間に森にいる? 吸血鬼が怖いのではなかったのか」

ハンスは猟銃を握り直し、転がっていた携帯ランプを手に持った。

「リュションを探しに来たんだよ」

幼なじみのリュションという少女が昼の内にこの森に入ったまま帰ってこない。
母親が病気で、森の奥にしか生えない特殊な薬草を煎じて飲んでいたのだが、吸血鬼騒ぎで森に入れなくなり、とうとう薬草も尽きてしまった。
そのため、リュションは止める母親を振りきり、こっそりとこの森に入っていったと。
夜になっても帰らぬ娘を心配した母親から話を聞いたハリスは、父親の猟銃を持ち出して森に来たのだ。

「先程、親父と言っていたが、お前は村長の息子なのか?」

ハリスは渋い顔で頷いた。権力者の父親というのは、この少年にとってはあまり有り難くない様だ。

「たった一人で、吸血鬼に立ち向かうか。恐ろしくはないのか?」

冷静なラルクの問いに、ハリスは若い頬を染めた。

「女一人ぐらい守れなけりゃ、男がすたるぜ!」

その言葉に、ラルクはまじまじとハリスの顔を見つめた。

「なっ、何だよ?」

ハリスが耳まで真っ赤になったのは自分の言葉に照れているのか、ラルクに見つめられたせいなのか、本人にも分からない。

「……そうか」

そう呟いたラルクの顔は、ハリスには意外だった。
美しいが冷たい表情の彼が、一瞬だけ優しく微笑んだように見えたから──



「リュションが向かったのは、多分こっちだ」

そう言ってハリスがランプの光を足下に向けてかざした。
弱々しく照らされた地面には、微かだが小さな足跡が点々と森の奥へと続いていた。
その跡をたどっていくと、ぽっかりと開けた原っぱへと出た。

「ここに薬草が生えてるんだ。あいつリュションもこの辺りに居る筈なんだけど……」

ここは木立が無く、十分な月明かりのおかげでランプが不要なほど視界がきく。
リュションの姿を求めて落ち着き無くきょろきょろするハリスと対照的に、ラルクはこの草原に足を踏み入れた途端、動かなくなった。
ごく僅かだが妖気を感じ取ったのだ。
今までの薄く漂うものではなく、痕跡として。
そして、風に乗るこの匂い──

「おい……」

ラルクがハリスに声を掛けるのと、ハリスが悲鳴をあげたのはほぼ同時だった。

「リュション……!」

ハリスの手からランプが落ちた。
柔らかい草地なので割れはしなかったが。

月光が、草原の端で木にもたれる少女を青く照らしている。
虚ろな瞳は、もう何も映さない。
衣服はあちこち破れ、整った顔には赤い爪痕が幾つも筋を引いて痛々しい。
ぱっくりと開いた喉の傷から流れたはずの血は、もう乾いている。
右手には、少女が摘んだ薬草がしっかりと握られていた。

「リュ…ション……」

とうに冷たくなっている少女の傍らに跪くハリスの声が震えていた。
その光景を前に、ラルクは周囲を見回した。
もう妖気は感じない。
次に遺体に目をやる。
乱暴に引き裂かれた喉の傷には舐め取った跡がある。
血とは違う、透明な唾液のようなものが付着していたのだ。
明らかに人のものでは無いが──
森にのこる吸血鬼の残留思念が邪魔して、犯人がどんな種族かまではさしものラルクも特定できなかった。
猟銃も投げ出して少女の亡骸を抱きしめていたハリスが、顔を上げた。
その目は真っ赤になっていたが涙は堪えていた。
遺体をそっと横たえた後、やにわに銃を掴むと、叫びながら森の奥へ乱射し始めた。

「殺してやる! 出てこい、化け物が!!」

乾いた音が森の中に響き、驚いた鳥がバサバサと夜空へ飛び立っていく。
ラルクが腕を伸ばして、銃身を押さえた。

「邪魔すんのか?! てめえも吸血鬼の仲間かよ!」

ハリスは吠えて銃身を激しく揺すったが、軽く押さえているだけにしか見えないラルクの腕を振り払う事が出来ない。
再度怒鳴りつけようと顔を上げた、我を失い血走るハリスの目と、ラルクの静かな黄金色の瞳が交差した。
数瞬後、ハリスの両膝から力が抜け、猟銃を落としてへたりこむ。
続いて上半身がゆっくりと地面に伏して、瞼が閉じられた。

「リュション……」

意識を失う直前、ハリスの両目からこぼれた小さな涙が、最後の呟きと共に血で濡れた草地へと吸い込まれていった。
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