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まったく心当たりのない理由で婚約破棄されるのはいいのですが、私は『精霊のいとし子』ですよ……?
しおりを挟む「アリシア! お前との婚約を破棄する!」
「…………え」
アリシア・デ・メルシスは、学園の一大イベントの舞踏会の場で、婚約者に突然そんなことを言われたので、目を瞬いた。
「婚約破棄される心当たりがないといった顔だな。白々しい。全て証拠は上がっている!」
「……証拠って、何の証拠ですか?」
「もちろん、お前がエリスを虐めたという証拠だ!」
『虐めた』というちょっと幼稚な言い回しはこの場でどうなんだろう、と思いながら、アリシアは思った。「これ、前世の小説でよく見た婚約破棄イベントでは?」と。
アリシアには前世の記憶というやつがある。それはこの世界を生きていく上であんまり役に立ってはいなかったが、今この段になってもやっぱり役に立たなかった。
だって状況がかぶったからって、どうしろというのだ。
(エリス……そうか、レジー殿下の腕にくっついてるあの人の名前はエリスだったっけ……)
豊満な身体と豊かな金の巻き毛、妖艶な微笑――有り体にいってとてもゴージャスな美女がレジー殿下にぴったりくっついて入場してきたのは見ていた。
一応婚約者のはずなのよね私、なんで「エスコートは誰ぞにでも頼め」とか言われて放置された挙句に婚約者の不義理を見てるのかしら、とも思っていた。
しかしまさか、こんな茶番を始めるためだったとは。
「……まったく心当たりがありません」
「この期に及んで……。ならばよい、思い出させてやる!」
そうしてレジー王子がつらつらと口にしだしたのは、アリシアがエリスを『人目につかない場所で』虐め続けてきたという、微塵も身に覚えのない出来事の数々だった。
(そもそも『人目につかない場所で』虐めてきたなら、その目撃者はどこから現れたわけ……?)
半ば呆れながらもとりあえず主張を聞いていたアリシアだったが、ふと聞こえてきた声ならぬ声に目を見開いた。
〈ねぇ、ねぇ、アリシア。あの王子、処す? 処す?〉
〈おろかなおうじ、いたいめみせる?〉
(『処す』なんてどこで覚えてきたの――じゃなくて! 今レジー殿下の『加護』引っぺがしたわね!?)
未だ信憑性のかけらもなさそうな『証拠』を上げ連ねているレジー王子の周囲が不自然に明滅したのに気づいたのは、アリシアだけではなかった。
「何か、光が……」「レジー殿下の周りが光らなかったか?」などと、周囲がざわめいている。
〈だって、アリシアのこと、悪く言う。嵌めようとしてる〉
〈おいたしたら、おこられるものでしょ?〉
周りの精霊たちの言葉に、アリシアはなんとか説得を試みようとするが──。
(いや、それで『加護』を引っぺがすのはさすがに――ってまた誰か引っぺがしたわね!? やめなさい、やめなさいってば!)
必死に念話を飛ばすが、レジー王子の周りの明滅は止まらない。それどころか、その隣のエリスや、会場のあちこちでも明滅が始まった。ざわめきがますます大きくなる。
(エリスさんとやらについてはまあわかるとして――もしかしてレジー殿下曰くの『証人』まで!? いや本当ちょっとやめなさい、落ち着きなさいあなたたち!)
〈やだー。だってみんな前から『加護』取り消ししようか迷ってたんだって。いい機会だって〉
〈おばかなひとに『かご』はあげられませーん〉
〈本当馬鹿だよね、『精霊のいとし子』を嵌めようだなんて〉
もはやレジー王子の言葉を聞いている場合じゃない。というかレジー王子もエリスもこの事象に気づいていない様子なのがとてもよくない、とアリシアは焦る。
(レジー殿下が精霊信仰に薄いとは聞いていたけど、まったく加護がわからないほどだったの?! それで王位継承者やってけるの!?)
――アリシアたちの住まうクレセント王国は、精霊信仰が盛んな国である。
そして精霊というのは当たり前に世界に存在し、人々に『加護』を与えるものだった。
近年は精霊への敬意を失い、信仰心の薄いものも増えているとは聞いていたが──。
「……まったく。大方エリスの美しさをねたんでのことだろうが……。己の醜さを知るがいい! だから黒髪黒目など、醜い色彩を持った女を婚約者にするのは嫌だったんだ!」
(あーっ! ダメ押し!! っていうかそれはこの国の人間としてアウト!)
黒髪黒目はすべての精霊に好かれる『精霊のいとし子』の証と言われる。ちなみにアリシアはこの国で何百年ぶりかに現れた『精霊のいとし子』である。
レジー王子の周囲がひときわ大きく明滅する。アリシアはその原因の精霊に必死に念話を飛ばした。
(お待ちください国守の精霊さま! 確かに今の発言は彼が外つ国の、精霊信仰の薄い国出身の母を持つからと言っても行きすぎな発言でしたが、あなたの加護まで失ったら死にかねません! 思い直しを!)
「フン、返す言葉もないか。ならばエリスに額づいて詫びろ!」
「え~、どうしよっかな~」とでもいうようにレジー王子の周囲を明滅させる国守の精霊さまは意外と茶目っ気があるが、それに和める状況ではない。
この国の王家は国守の精霊の守護によって護られている。その加護が外れるということは、それまでの補正分揺り戻しが行われるということだ。下手すると本当にレジー王子が死にかねない。それは寝覚めが悪い。
これ以上レジー殿下が失言する前に……! とアリシアは口を開いた。
「わかりました! 婚約破棄には同意いたします! だからそれ以上は……!」
「……虫のいい。エリスに詫びろと言ったのが聞こえなかったのか?」
(ああ……やめて……それ以上言うと本当に国守の精霊さまが加護ひっぺがしちゃいそうだから……!)
青ざめるアリシアをどう思ったのか、レジー王子がますます居丈高な様子で続けようとした、その時だった。
「随分気分がよろしい様子のところ、失礼いたします、兄上」
涼やかな声が会場を打った。
「彼女は婚約破棄に同意しました。それでよろしいのでは? そもそも兄上の主張の真偽も定かではありませんし……」
動揺のあまりふらついていたアリシアの肩をそっと抱いて支えながらそう言ったのは、レジー王子の異母弟であるカイン王子だった。
声と同じ涼やかな美貌、清廉な白銀の髪、澄んだ湖のような青い瞳。
至近距離で煌びやかなその様を直視したアリシアは目がちかちかした。
(……いや、違う。実体も煌びやかだけど、『加護』の数が段違いなんだわ……。それに……)
「なんだと……!」
「『証人』の方々が王を前に同じ証言をできるというのなら、婚約破棄の正当性を主張しに父上に直訴するといいでしょう。……恐らく無理だと思いますが」
ぐっ、とレジー王子が押し黙った。権力にあかせて虚偽の証言を集めたという自覚はあるらしい。
「大勢の前で女性一人をつるし上げるように糾弾する、それが王家のやり口と思われても困ります。兄上の行動一つ一つがどこかで査定されているという自覚をお持ちになった方がよいのでは? ……彼女は私が連れて行きます。では、失礼」
さりげなく毒を吐きつつ、それを感じさせない涼やかさで、カイン王子はアリシアを連れてその場を立ち去ったのだった。
* * *
「ええと……ありがとうございました……?」
「身内の不始末の結果ですから、お礼はいりません。……兄上のなさりように、傷つきはしませんでしたか?」
「いえ……あまりにも身に覚えのないことすぎて……。あとそれどころではなかったといいますか……」
急展開した状況についていけずにどこか呆然としながらアリシアが言うと、カイン王子はクスリと笑った。
「そうですね、とても必死に精霊さまたちを説得していらっしゃいましたし」
「……! き、聞こえて……!?」
「懇意にしている精霊さまが聞かせてくださいました。あなたの素はあちらなのでしょう?」
「……それも、精霊さまが?」
「はい。『精霊のいとし子』さまのお話は、どの精霊さまも好きなものですから」
(何を話したのあなたたち……!)
〈アリシアが本当は田舎に戻りたいこと。王家に嫁ぐための教育が苦痛だったこと。それでもひとりで頑張ってきたこと〉
〈『ぜんせ』のきおくがあること! しせいにおりるのがすきなこと!〉
〈ぼくたち精霊への考え方が特異なこと。それがぼくたちには心地いいこと〉
〈みんなみーんなアリシアがだいすきなこと!〉
矢継ぎ早に伝えられた内容に、アリシアは頭痛を堪える。プライバシーも何もあったものじゃない。いや、精霊のすることなのでどうしようもないとは思うが。基本人間の都合なんか知ったこっちゃないのが精霊なので。
「……本当に精霊さまに好かれてらっしゃるのですね。私に憑いてくださっている精霊さまも、傍に居られてとても嬉しそうです」
「……カイン殿下に精霊が憑いてらっしゃるというのは、本当のことだったのですね……」
「はい。公表してしまうと、私を王に、という声が高まるので、秘密にしていたのですが。精霊さまからお聞きになりましたか?」
「ええ。精霊さまは噂話がお好きなので」
アリシアは精霊をおおむね悪戯好きな妖精か、八百万の神々のようなものと捉えている。この世界の人々はすべての精霊に対して恐れ敬うべき神様のように接するので、アリシアの考え方はちょっと特殊だ。そうなったのは、『精霊のいとし子』として幼いころから精霊たちが話しかけてきたからでもあるし、前世の記憶からでもある。
「実は、アリシア殿にはずっと会ってみたかったのです。精霊さまたちが楽しそうにあなたの話をするたび、その思いは募っていました。……けれど、会ってしまえばこの気持ちが抑えられないと思ったので」
「……え……?」
「アリシア・デ・メルシス殿。どうか、私の伴侶となってくださいませんか?」
膝をつき、アリシアの手を取って、カイン殿下は真摯な瞳でそう言った。
「は……!?」
「兄上の婚約者であるあなたにこのような想いを抱くべきではないと思ってきました。けれど、兄上は愚かにもあなたを手放した。ならば、私にも機会があると思ったのです」
「いや……そもそも出会ったばかりですし……?」
「私にとっては出会ったばかりではありません。あなたの望みを叶え、幸せにする自信もあります」
凪いだ湖面のようなその瞳に紛れもない情熱がこもっているのにたじろぎながら、アリシアは訊ねる。
「私の望みを……幸せをご存じだとおっしゃるのですか?」
「はい。あなたが望むのは家族に囲まれた平穏な日常。王家のしがらみから逃れること。……『精霊のいとし子』を王家は逃しません。けれど、私ならばあなたにご実家での暮らしと、平穏を差し上げられる」
「……本当に?」
「国守の精霊さまに誓って」
「……!」
精霊に誓うのは定型句だ。けれど、王家の者が『国守の精霊』に誓うのは、それが虚偽となればその加護を失うことになるというのに──。
カイン王子の本気を悟って、アリシアはごくりと息を呑む。
「……私、あなたのことを好きになれるかまだわかりません」
「努力します」
「王家に嫁ぐための教育ももう受けたくないですし」
「全権力を使って阻止しましょう」
「……あなたの得になるようなこと、ないと思いますし」
「あなたの傍にいられるなら、それが私への報酬です」
揺らぐことのない瞳に、アリシアは負けた。
「……まずは婚約者からよろしくお願いします……」
「もちろんです」
輝かんばかりのカイン王子の笑顔と気の早い精霊の祝福に目をちかちかさせながら、アリシアもまた、この先の幸せを想像して、口元に笑みを浮かべたのだった。
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